2017年08月の記事


住宅地図
 昭和39年と記された、当時のわが町の住宅地図があった。知っている範囲をみるに、現在とは名前が違う家が多いのに驚く。

 別の名ととなっていたり、更地にもなっている。そこに住む人もまたかわったはずだ。50年少々でこの変化と痛感する。

 百年も経てば、世の中は一変するのかもしれない、などとと思うほどだった。
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諦め
 「諦めが肝心だ」などとよく言われる。諦めがつかないことが、実生活ではしばしばあるものであろう。

 しかし、自ずと諦めの境地に至る場合もかならずあると考えて間違いないようである。

 諦めとは「もうダメだ」という心理とは、ちょっと違うと思うがどうだろう。
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閑居
 小人であることは確かだが、別に格言どおりに不善をなしているとも思わない。ただ祭りが終わって、九月になるというこの何日間かは、ふと空虚な期間になる。

 ところで今朝は緊急放送で叩き起こされた。腹立たしいことにもほどがある。
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秋の気配
 お祭りがすんだ夜には、一瞬の涼風が通り過ぎた。今朝はまたも蒸し暑くなる。
 これからしばらくは、気温の変化に適切な対応が必要と思う。若ければまだしも、暑さ寒さに弱くなった身としては大事なことと思う。
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涼風
 鎮守様の祭りも今日でおわり。昨夜祭り提灯をしまうとき、一瞬、涼風が耳元を過ぎた。そういえば日脚も幾分短っくなっている。秋がくる。
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お神輿
 戦後の虚脱状態から立ち直るために、当時の青年が集まって始めたお祭りの樽神輿だ。

 年を経るに従ってその様も変わってきた。一時は女性が神輿の上に乗る姿があった。さすがにこれは消えた。

 今では担ぎ手がいない。旧隣村あたりから応援を求めていると聞く。いずれそれも間に合わなくなるだろう。しかし消えることはあるまい。
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宵祭
 なんとなく情緒のある雰囲気を感じさせる「宵祭」。昨今は少々状況がちがうようで、しっとりとした空気が流れていない。

 家々の祭提灯もあったり、なかったり。もっとも家屋解体がすすみ空き家が増えているから無理もない。時代の変遷を感じるのも年齢のせいだろうか。
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祭礼
 このところ毎日のように地方紙に一面広告が出る。「◯◯まつり」とあって、市町村合併前の地区単位のようだ。

 お祭りは昔ながらの地域社会につながっているようだ。中身は少しづつ変化しているようにも思われる。当地区も明日が良い祭りとなる。
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実のところは
 自転車で炎天下、スーパーまで買物にいく。食料調達が目標。年下の知人に会う。「お元気ですねえ」と言われれば、お世辞半分としても嬉しい。

 「いやいや、もう歳ですから。卆寿も半ばを過ぎました」「でも自転車に乗って、大丈夫ですか」「ハイ、まあ・・・」と生返事。

 互いに自重自愛を祈って別れる。15分間ペダルを漕いで帰宅したときには、前籠の買物にハンドルを取られそうになった。脚力をはじめ万端弱くなったと痛感。

 致し方なくやっている点もあるのだが、それが老化に対する抵抗力になっているのかもしれない(という独断か偏見のどちらか)。
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整理
 300冊ほどの本を整理。ネットの古書店から値がつかないが、サービスで処分してもよければとの回答。ぜひそうしてと答える。少数のいい本もあるとも思ったが。

 市場価値優先の世だと思いもするが、同時にそれらの本がなくなっても、自分の日常には、特段の変わりがないことに気づいて愕然とする。
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グローランプ
 洗面所のライトが点かないとのご注進。自分しか見るものがいないので、まずは電球交換。点灯したが一夜明けてまたも駄目。

 点検の結果配線に異常なし、グローランプを交換しスイッチを入れる。あたりが明るくなった。

 グローランプのように、世間を明るくする支えになっている人も表には出ないがいるのだろうなあと思った。
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弾丸(たま)よけ
 72年以上前の話。戦時中、人を罵倒する定番のように「お前のようなやつはタマよけにもならん」というのがあった。

 今やミサイルでは、豪のものとてタマヨケにはなるまい。人智が進むとともに、戦争こそ最高の愚行ということがはっきりするような気がする。老人の戯言だろうか。
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一点一画
 これではならじと思うことしばしばなのだが、漢字を忘れている。殊に僅かな点画に自信がなくなっている。

 パソコンに慣れて手書きの機会が乏しくなったせいかもしれない。年齢による点もあろう。

 こんなふうに、下々のことがわからなくなっていく世界に住む人もいるのだろうなあ、などと余計なことを思ってしまう。
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縦の関係
 昨今の世の中では、横の関係が主となっているように思う。さまざまな場面での人間関係が熾烈と言っては語弊があるが、大いに尊重されている。

 旧盆となって、人間が生きているには先祖以来の流れ、縦の関係があることを思う。今朝、墓前の灯籠を格納にいき、手を合わせてくるのを忘れた。わるい事をした。
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治にいて
 旧盆の集まりの後片付けに伜が懸命。久しぶりに帰ってみると目につくのか、神棚の上の燭台も危険、古い柱時計も危ないなどと指摘する。

 「いつもこうだから」というのが、当方、日常の論理である。いささか反発を感じたが、「地震があれば」と言われて、なるほどそうかと引っ込む。「治にいて乱をわすれず」か。
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旧盆の疲れ
 若いときは、ほぼ徹夜でもつかれるということはなかった。楽しかったが、今日はかなりの疲れを感じる。

 こうして時は移り、世は変わっていくのであろう。
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旧盆
 うからやからが集うてくるだけありがたいことである。しかし接遇には疲れる。今年から高齢者バージョンと称して、いくらか趣を変えてみることとする。

 先祖をしのぶことを中心に、四方山の話がはずめば、それが何よりだと思う。
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古い道具
 ささやかな旧盆接待の準備をする。夏座布団を並べる。いぶし竹の団扇掛けを揃える。皿小鉢を取り出す。どれもこれも古いものばかりだ。漆器は使わないことにする。

 明治,大正のころから使ってきたのだろうが、いまやそれを知る者も自分ひとりか。いずれみな消えていく物ではあろうが。
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旧盆
 渋滞やら電車の混雑をおしてきてくれるのだから、それなりの接遇をしたいのはやまやまである。

 残念ながら加齢とともに体力がとぼしくなった。致し方なく今年から高齢者バージョンとする。先祖を偲ぶことを主として過ごしたい。

 しかし出来る限りのことはしたいので、遠慮は無用、ゆっくりしていってもらいたいと願っている。
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脚力
 40歳代までは、登山の公認中級レベルの人と同行しても、引けはとらなかった。縦走24時間踏破もできた。

 60歳代になってジャンプ力が極端に低下したと知ったが、スポーツは別として日常生活にはなんの支障もなかった。

 80歳を超えて、さすがに歩く力が弱くなったと思う。しかし半ばを過ぎてから脊柱管狭窄に見舞われようとは思わなかった。若いときから脚力は鍛えておくに限ると痛感している。
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旧盆
 今年も旧盆になる。民俗の大移動がはじまるだろう。この機会にと思う気持ちはよくわかる。意味のあることでもあろう。

 久々に顔を合わせることの意味、先祖を偲ぶ気持ちが起きるかもしれない。子供に田舎の自然を知らせる事もできる。渋滞や混雑を嫌ったのでは機会を失ってしまう。

 自由にこういう時間が取れるようになればいいだろうなあと思う。「働き方改革」といっても、そこまでは面倒なことだろうとも思うが。

 
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年齢
 脊柱管狭窄に対抗するために始めた6種類のストレッチ、それにラジオ体操第一・第二。概ね継続してきたつもりだった。
 最近これが苦痛というほどではないが、わずかな抵抗感を感じることがある。こうして年齢を重ねていくのであろう。
 なればこそ、いっそう励行しなくてはと思っている。
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ストレッチ
 脊柱管狭窄に対抗するために始めた6種類のストレッチ、それにラジオ体操第一・第二。概ね励行してきたつもりだった。
 最近これが苦痛というほどではないが、わずかな抵抗感を感じることがある。こうして年齢を重ねていくのであろう。
 なればこそ、いっそう励行しなくてはと思っている。
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約束
 簡単に約束する人間は、簡単に約束を破るものだと、最近の経験でわかった。一括りにできない点もあろうが、いろいろお聞かせいただきたいところである。
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夏だ
 窓を開ければ熱い空気が入ってくる。
 シャツはいつも汗で湿っぽい。
 パソコンの前に座しているのも難儀である。
と、ぼやこうと思ったら、夏だから暑いのが自然だ、という声が耳元を過ぎていった。

 なるほど、あと20日ほどで鎮守の祭り、そのころになれば、夜には涼しい風が流れるのだったなあ・・・と、ふと思った。平和のありがたさも痛感する原爆忌。
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バトン
 生命は遠い太古の昔から続いているという。今バトンを持っているのは、自分というわけか。

 振り返ってみるに、わかるのは祖父母あたりまで、「曽祖父母」となると、ぼんやりとした物語の中。先祖に関したこととなると、歴史の断片のような気がする。

 誰もが同じ感慨をもつものだろうか。
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待つ
 待っていても駄目なこともある。無駄と思うこともある。それでも待つことがある。

 自分のために。どれだけ耐える気持ちがあるかを試したい。相手のため。待たせるにはそれだけの理由があるのだろう。全て話してくれるまで待とう。
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おてんとうさま
 「天道」の略か、「太陽」のことか、とにかく人智を超えた大きなものの手前もある、というので己を制するように、また全力を尽くすよう教えられていた時代だった。

 「オテントサマがみている・・・」とか、「オテントサマの手前・・・」というような言い方を聞かなくなって久しい。いつ頃が最後だった、それもわからない。
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適当全力主義
 加齢とともに、寝込んではならぬと痛感する。2日間臥床したら、起きた途端に足元が覚束ない。

 無理のない範囲でベストを尽くそうという気持ちで、ゆっくりと動き、規則的な生活のペースを崩さないことが大切と思う。今日は遅い梅雨明けでもあったことだし。

 矛盾しているようだが、世間体、ひとの思惑など気にしないで、自分流に一所懸命にということになろうか。
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ばちあたり
 躾の一環だったと思うが、子供の頃「バチあたりのことをするな」とやかましく言われた覚えがある。

 物質的にもったいないことをしてはならないというだけではなかった。人間としての節度をわきまえろという意味合いがこもっていたと思う。

 この点は、学歴や知能指数の高さ、社会的地位などと、どのような関連があるのだろうかと、昨今の出来事から不思議に思うことがしばしばだった。
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