2008年09月の記事


「に」と「と」
 このところ、母親が子供を殺す事件が目立つ。数からすれば圧倒的に少ないことではあろうし、それぞれ事情もあろうが、しかし、なんとも特異なことに思われてならない。

 親になるのは、簡単なことかも知れない。しかし親となるのは、大変なことである。自らを省みても、忸怩たる事ばかりであるが、それでも、最低限度の責任感は持っていたと思う。

 自分の親も大変だっただろう、というような気持ちが生じてくるのは、あるいは、かなりの年齢になってからの事かも知れない。
コメント (2)

五体健全
 「徒然草」のなかに、「友とするにわろきもの」として「病なく身強き人」があげられている。そういう人は、思いやりがないという意味ででもあろうか。

 あるいは、自分の心身に支障がないことに安住するな、という戒めであるのか。                     
 
 とにかく、後期高齢者と言われる年齢になってすでに数年を閲し、幾つかの病院のご厄介になりながらも、なんとか自分のことは自分でと考え、体の支障についても、できる限り折り合いをつけて、医薬の世話にならないようにしている自分などは、だれとでも友達になる資格があるような気がしてくる。

 手前味噌のような気もするが、古い世代なるがゆえに、このような考え方をするのだろうか。
コメント (2)

優しい世の中
 老人は、自分が若かった時のことを、いつも思い起こしていると言われる。ところが、こちらは傘寿に到達したとはいえ、万事にわたって、自分は老人だという感覚があまりない。

 庭いじりを楽しみ、孫に小遣いをやって喜ぶ顔をみ、たまには温泉にでも行って、というのが通り相場ではあろう。さりながらそれほどの余裕はない。

 若者に自分が老人になったときのことを思えといっても、通用しない世の中になったのかもしれない。しかしせめてもの言う事があるとすれば、現在の老人の姿は、自分たちの将来かも知れないと思ってみてはどうだろうかと、そんなところだろうか。

 別に不満があってのことではない。しかしこのあたりに、優しい世の中と言っていいかどうかの、境目があるような気がしたまでである。若人よ、幸せな老後をと願うのみ。
コメント (1)

泣く
 このごろでは、乳幼児の泣き声を耳にすることも、あまりないようである。いわんや成人が泣く姿など、日本の日常からは消えたようである。

 これはおかしいのではなかろうか。悲しい時には、泣けばいいのだと思う。自分のために泣けない人間が、どうして周囲に見られる、あるいは遠い国の悲痛な出来事に涙を流せようか。

 泣く事は、笑うことと同じくらい、素晴らしい精神作用だと、どこかで読んだような気がする。
コメント (1)

子供の遊び
 女の子が輪になってはやし立てる「花いちもんめ」、男の子の凧揚げ、めんこ、独楽など、ついぞ見かけなくなって久しい。

 がき大将やおてんば娘がいなくなったので、そういう遊びは伝承されなくなったのか。あるいはゲーム優先の時代になったからか。

 第一、肝心の子供の姿が珍しいくらいになった。なるべくしてなっている、ということだろうか。
コメント (1)

抵抗力
 アメリカでの金融関係が大変な状況だという。わが国への影響も必至だと聞く。

 詳しいことを知らず、その方面の知識もないが、世の中は乱世というに近くなっているような気がしないでもない。

 こういう世の中になって、かりに己だけが頼みだとすれば、「健康」と「体力」を確保しておく事であろうか。後期高齢者だなどと言ってはいられないような気がしてくる。
コメント (1)

特価品
 玄関先程度まで出るためのサンダルを買った。驚くほど安い。バーゲンセールなどといわれると、なぜ安いのかがはっきりしないので、なんとなく手が出しにくくなる。

 この小さな店の主人は、こちらの問いに対して快く答えてくれた。少し汚れがついているか、わずかな疵がある程度だという。見た目には分からなかった。

 この世に、完全無欠な物などあるはずもない。こうもはっきり欠点をいわれると、かえって当方の信用度が増す。     
 情報が氾濫したり、誇張された表現が多くなると、どうしても警戒心とか不信感が起こるようである。妙なものだと思いながら、1足買って帰路についた。
コメント (1)

敬老の日
 どなたが、どこで、何のために決めたかわからないが、「敬老の日」といわれても、それがどうしたという感じである。もっとも敬われるような事もしてはこなかったが。

 それにしても後期高齢者と言われているのだ。ともあれ己はこのようでありたいという思いはある。

 小さなおしゃれを含めて、清潔感があるように。万事にこだわりなく、サッパリとしていたい。

 「世の中を憂しと恥しと思へども飛びたちかねつ鳥にしあらねば(山上憶良)」とか。宇宙船に乗れたとしても、東京から名古屋くらいの距離だという。落ち着いていたいものである。
コメント (1)

劣等感
 どのホームページを拝見しても、実に見事な出来栄えである。内容もないが、表現や操作技術皆無に等しい当方としては、自ずと劣等感が湧いてくる。

 しかしネットの世界では、ご親切に教えてくださるお方もおいでである。衰えたりとはいえ、少しでも進まなければと思い直している。
コメント (1)

自然
 そろそろ行楽のシーズンである。温泉にでもつかりながら「自然はいいなあ」「田舎はいいなあ」と思うのは無理のないところであろう。

 しかし現実は厳しい。いとも簡単に自然に帰れというほど、生易しいものではなかろう。田舎という場合とても同様ではないだろうか。

 都会も田舎もない。金や物が万能と思ったり、自分本位で考えたりすることさえなければ、どちらにもいいところがあるような気がしてならない。当然過ぎて笑われるかな。
コメント (1)

ゆっくり
 日中の陽射しをさけて、近くの川の堤防を歩く。もったいないなと思うような、色のついてアスファルトで、堤防から河岸までが坂道になっている。

 その途中に小さな芽がでていたのが、たしか6月ころだった。先日、そこを通りかかったら、草が1本伸びていた。「凄い」と思ってカメラにいれた。

 隙間など、ほとんどないようなところからである。雑草は強いと先刻承知しているが、この逞しさには驚いた。

 時間をかけて生長しているということは、スピードの問題だけでなく、たじろぎのない質の問題でもあろうかと思った。
コメント (1)

スローライフ
 健康法というものに縁が遠かった。「紅茶きのこ」も「飲尿療法」も風のように過ぎ去っていった。
 
 何かに夢中になるということがない性分のせいだろうか。目的一途に、がむしゃらに進んでいくことは、あまり感心したことではないと、戦時体験から考える。

 力みかえっての緊張は、精神的なバランスを失わせるものかも知れない。だからこのごろしばしばスローライフといわれるが、これには賛成である。

 と言いながら、せわしそうに、右往左往している人も多いようだし、隙あらば金儲けをしようとしているらしい向きもいる。それにしても事故米転用とは、嗚呼、世も末だと思う。
コメント (1)

もったいない
 小さなことにつけても「よく、そんなにもったいながる」と言われる。戦時下で育ったから、それがまだ影響しているのだと思う。物を軽々しく捨てられないのである。

 「贅沢は敵だ」というので、なんでも代用品が勧められた。代用品使用を「創意工夫」ともいっていた。

 「贅沢は」の次に「素」と入れて、「贅沢は素敵だ」と洒落のめした人がいるという。

 あのご時世に、勇気がある人もいたものだと思う。こちらは言われるとおりにしていただけだった。
コメント (1)

差額
 バブル崩壊以前の話である。毎年ベースアップというので、給料があがった。基準日から現在までの分が差額として支給される。臨時収入のような気がして、楽しみなものだった。

 いまや差額どころか格差の時代とか。どこか語感が似ていなくもないが、現実は大きな違いである。

 氷河期に遭遇した青年、ネットカフェ難民、派遣社員の増大と、いったい日本はどうなるのだろうと思ってしまう。少子化などというのも、案外、本能的に先を見てのことかもしれないだどと思ってしまう。
コメント (1)

再掲
 消えた小話というのはこうである。ドラ息子が「カネオクレタノム」と電報を打った。オヤジさんはすかさず「タ」と「の」の間に「、」を入れて読んだ事にした。

 「タレガクレタノムナ」というこれだけのことだが、日記の画面から、完全に消えていた。なんとなく悔しくなって再掲。
コメント (1)

ミステリー
 電報についての小話を、この欄に書いた記憶がある。読んでくださった「ベン」様からのコメントもいただいた。

 ところが、それが日記のの欄から消えている。さては認知症が始まったかと、いささか不安になった。確かに書いたはずだが、見えないのも現実である。

 ミステリーと思うべきか、己を認知症の始まりと思うべきか。ここが問題だ。
コメント (0)

ヘマ
 「へまをした」と言えば失敗を意味する。ところでさる古くからの商家で、むかし使っていたという電報を見せてもらった。
 
電文のの最後に「ヘマ」とあった。ご主人の説明では、「返事を待つ」を省略したのだとか。15字以内で料金いくらと定められていた時代が浮かんできた。

 携帯電話、パソコンの時代になって、通信手段は飛躍的に向上した。しかし返信を「レス」というように、変わらない部分もあるようだ。
コメント (1)