2008年06月の記事


梅雨のあとさき
 梅雨は稲作からみれば、必要不可欠な恵みの雨である。この時季、多少の湿度は我慢するつもりなのであるが、今年は雨が降らない。

 曇る日が続いているが、雨にならない。畑が水不足で干からびそうだと、こぼしながら歩く人の声を聞いた。

 雨乞いの祭りという時代ではないが、猶いっそう人間は自然に対して、謙虚でなくてはならないと、ふと感じた。
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.夏草
 刈っても抜いても夏草がはびこる。雑草の逞しさというが、すごい生命力のようなものを感じる。
 秋になれば枯れるのだから、草もまた「兵どもが夢のあと」なのかもしれない。それにしても落ち込んではいられないような、何かを感じさせられる。
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妙な・・・気分
 文化勲章を受けた著名な作家の随筆に、のめりこんで読んだ時期があった。このごろその中のいくつかを取り出して読んでみた。
 完全に内容を忘れていて、初めて読むように感じた作品があるのだった。
 
 老人力がついたなどと、力んでいるわけではない。しかし初めての作品を読んだかに思われ、なんだか、ちょっぴり、トクをしたような気分だった。
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蟹工船
 小林多喜二の「蟹工船」が売れているという新聞記事があった。若いころ文学全集のなかの、プロレタリア文学の一角として読んだ記憶がある。発表されたのは、自分が生まれて間もない時代のようだから、当時の世相など知る由もない。しかしなんとなく雰囲気が分かるような読後感があった記憶がある。
 
 同じ事は徳永直「太陽のない街」についてもいえそうである。ところで、昨今はワーキングプアとか、派遣とかの労働形態とかについて、さまざまな問題があると聞く。何か関連があるのだろうか。
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トカ弁・ほう言
 さる団体の集会に行ってみた。ハンドマイクから会場整理のためにか流れる声があった。「・・・ご協力とかのほうをお願いします」と。

 「とかのほう」と付け加える言い方は、初めてではなかった。しかし「○○とか」「○○のほう」と、何かに遠慮しているような物言いが、普通になってしまったのかと思った。

 言葉は時代によって変わるということも承知しているが、どうも馴染めないのは、年齢のせいだろうか。
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反省
 私はアッケラカンとしていました。自分も老人になることなど深く考えもしないまま、老人になっていました。

 私以外の方々には、そういうことはないと思います。しかし念のためです。老人とは言わないで、高齢者と言っても同じことですが、いずれ自分もそうなると思いながら、日々を元気に生きる事が大切と思います。

 なにしろ人間にはどうにもならないこと「生老病死」の2番目にあることです。迂闊でした。
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老人
 自分は老人だと思っている。しかし後期高齢者だとは思っていない。年齢だけなら、とっくの昔にその範囲に入っているけれども。

 どうも、さっさとカタをつけろと言われているような気がして、いい気持ちがしない。漠然とした範囲でぼかしておく「老人」という言葉に懐かしさを覚える。
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雑草
 雑草の逞しさなどと、よく言われる。確かに逞しい。コンクリートの割れ目からでも出てくる。除草をして、当分はいいだろうと思っていても、到底かなうものではない。
 ついに意を決して、除草をしないでおいて事がある。草の種類は変わる。しかしはびこり方に変化があるだけで、雑草は依然として存在していた。
 以来、除草剤を撒く気がしなくなった。踏まれるほどはびこる草もあれば、自然に種の交替を行っているようでもあると感じたので。
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研ぐ
 少し働きすぎた。疲れているのが分かる。齢だなあと思う。少しは体を動かさなくてはと思って、鉈、剪定鋏、ナイフの類を研ぐ事にする。

 平素、手入れをしているものは、すぐ新品同様の切れ味になる。しかし刃こぼれしたようなものを放置しておいた品は、またも疲れるほど研いでも、駄目だった。

 年齢を理由にしてもいられない。このところ自分を研ごうなどという気持ちは、まったくなかったことを反省する。年齢相応に、錆び付いてはいるのだろうが。
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