2010年11月の記事


物忘れ
 同年輩からの便りで、このごろ物忘れがひどくて困ると、かこつ声が多くなった。
 
 当方とて同様である。しかし多少の意地をみせて、忘れ物予防法などを書き送る。曰く「常にメモを用意し、こまめに記録すること」などと。

 それが、あまり役に立っていないのだから、罪作りな話ということになろうか。
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おかしな天候
  降るといわれているのに晴れ、晴れの予想が冷たい雨。このところ、天気予報と、この地域の天候が合わない。

 わずか20キロ先になると、春の融雪状況が違うのだから、局地的なのであろう。もっとも局地的豪雨などというのがあるから、油断は出来ない。局地的豪雪などないようにと願う。
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さまがわり
 近隣で、家の解体が目立つ。空き家の数も多くなった。つい先頃までは、想像もしていなかったことのような気がする。

 百年も経てば、すっかり様変わりしてしまうものかもしれない。

 「盛者必衰の理」「驕れるもの久しからず」ということか。
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 ながらく筆を手にしなかった。祝儀不祝儀にあたって、筆ペンだけは使っていた。

 墨を磨って、試し書きをしてみる。自分の文字とは思えない形になっていた。ぎこちない筆の感触だった。

 たまには筆も悪くないなあと思う。そのほうに重心が移ったようである。
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和紙
 昭和40年前半ころまでに買った文学全集など、紙がやけてしまって、読みにくくなったものがかなりある。

 ところが和綴じの「実語教童子訓」おそらく祖父が少年時代に読んだものだろうが、しっかりしている。

 あらためて和紙のすごさを感じた。近在に和紙を漉いている集落があったが、戦後やめてしまったのが惜しまれる。
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高齢化社会
 病院で従兄弟に会った。しみじみと言う。
「歳をとってみなければわからないと、さんざん親にいわれたが、やっとその意味がわかるようになった」と。

 それだけ年齢を重ねたというわけである。聞いているこちらもご同様であるが。

 ちょっとみたくらいでは、何歳くらいなのか、見当がつかない人ばかり。けっこうな年齢なのであろうけれども。
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戒めの言葉
 自分のことである。人が言い終わらないうちに、ものをいう癖があるようだ。注意はしているのだが。

 手柄話、自慢話は嫌いだから、自分ではしないつもりである。

 これからは、年齢を思うとき、話がくどくならないようにする事が大切だと思う。
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ギョイ
 「ギョイって、どういう意味ですか」と聞かれた。
「どこでみましたか?」
「テレビの時代劇です。お殿様に家来がいっていました」
 
 漢字での表記をまじえて、「仰せの通り」という意味だと話す。言葉は時代とともに変わるとは思っていたが、意外なことだった。

 質問者は大学英文科三回生の女性。聞かれたほうも古くなった。
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予防接種
 いささか迷ったが、社会的義務のひとつと思って インフルエンザの予防接種を受けた。近所で開業しているお医者さんには、けっこう老人の姿があった。

 父親が、大正の末、軍隊生活を送ったとき、腸チフスの予防注射を受けると、終日安静を命じられたとか。訓練も休みで嬉しかったと、その当時の日記にあった。

 医学の進歩は、人間生活に大きな影響があることを、あらためて痛感した。
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日本晴れ
 雲ひとつない空、雲量ゼロの日を「日本晴れ」と教えられたのは、昭和ひと桁のころ。なぜ、「日本」なのかなどとは、考えもしなかった。

 日本は、その空のように、抜群の国と思い込んでいた。教育というのは、すごい力があるものだと、今ごろ感じている。

 昨日までの3日間、そのような空だったというのに、体調不良で寝込んでしまった。実に悔しい。
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天候と体調
 「天候が変わりやすいので、体調に充分ご注意を」というような放送を聴く事がある。

 若い時は、天候が体調に関係するなどとは、夢にも思わなかった。この年齢ともなると、大きな影響がある事が分かる。

 残念だが素直になるほかない。
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爺チャン手帖抄・2
 午後から晴れ間が除いた。拾い物である。近くをブラブラ歩きする。表の蛇口で冬ごもり用の菜を洗っている人がいる。通りかかった中年の女性が、その人に声をかける。
「何してるの?」見事なアクセント、イントネーション。
昔は方言だった。「何してるがだの」と語尾がさがる。

 「標準語を使え」などという言葉を聞かなくなった。しかしテレビが普及してから、このあたりの方言も、急速に使われなくなったようである。
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爺チャン手帖抄
 限界集落という。わが近隣は戸数12軒になり「限界町内」というに足りる年齢構成。よって80歳以上ふたりだけの世帯ではあるが、出来ることをありがたく思って、班長を勤める。

 市の広報紙やビラの配達をする。町内費集めもすれば、回覧板も回す。1年間はもろもろの雑務に対応する。市の末端組織と思えばいいのか、町内役員は順番に回ってくる。

 ほどなく、やれといっても、やれない家が出てくるであろう。そこが心配だが、全国至る所で、同じような問題があると聞く。そして住む人間がどんどん減少しているのも大問題。
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早口
 テレビを視ても、ラジオを聴いても、昨今は話のスピードが速くなったような気がする。根拠はない。加齢に伴う当方の聴力が低下したせいかとも思う。忙しい世の中だからか。

 しかし日常会話でも、ある程度の大きさの声で、ゆっくりと話してもらうと親しみが増してくる。

 スローライフなどといわれるが、生活の隅々までに及ぶには、時間がかかるのだろうなどと思った。
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見栄年齢
 小さなスーパーのカウンターで、初老の女性が重そうな買い物篭を手に、どの列につこうか迷っているふうだった。

 「どうぞ」と自分の前に入れてあげる。そこへ、これも初老の別の女性が現れ、どこが列の最後か迷っていた。

 途端に前にいれたの女性が振り向きざま、私を指差して「このオジイサンのあとです」と。

 途端にガツンと一撃。よたよた歩気の背が丸くなった、傘寿を過ぎた老人であることは自他共にに認めるのだが。

 せめて「この方」といわないまでも「この人」くらいにしてもらえないか。精神年齢、暦年齢があるように、見栄年齢があるのかも。
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青森の人
 古い付き合いの人が、所用の途中で、顔を出してくれた。久闊を序しつつ、終了した囲いを見ていうには、

 こちらの人たち、なぜこれほど厳重に庭木を囲うのか、理解できなかったが、ひと冬を過ごしてみて、はじめてわかった、と。

 このあたりでは、降りはじめと、真冬、春先でも雪の重量が違うのだから、無理もないと思いながら、述懐を聞いた。
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冬囲い
 通常は「雪囲い」であろう。しかし当地ではどこかの公園のように、樹木の枝を縄で吊るす程度では、冬を越せない。

 庭木は厳重に縛り上げ、縁側から1階の窓を、総て落とし板でふさぎ、除雪用具を点検し、屋根融雪の調子を確認し、自宅前の道路除雪の手配をし、暖房設備と燃料とを買い置きし、漬物も確保する、などなど昔に比べれば楽なのであるが、それでも越冬態勢を取る必要がある。

 公共の世界でも、除雪車の出動式が行なわれ、道路の消雪パイプの点検整備、流雪溝水量の確認が続く。

 昭和40年代に入るころまでは、「雪地獄 父祖の地なれば住み継げり」という有様だった。その後も昭和56年の「56豪雪」をはじめ、交通途絶という状況もあった。

 父親が出稼ぎに出たあと、女子供だけで、泣きながら屋根の雪下ろしをしている状態など、つい先頃まであった話である。
北国生まれの人は、なぜこれほど厳重に庭木を囲うのかわからなかったが、ひと冬を越してみて、理解できたという。それほど大量の、湿った重い雪が降る。

 庭木をはじめ、越冬態勢を整えるためというので、いつか「冬囲い」というようになったのではあるまいか。昔の実感が、そのまま現在に言葉になっているような気がする。
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無縁社会(5)
 昔はよかった、今はどうだなどと言うつもりはまったくない。はたから見て、というだけのことである。

 変化の原因は、第一に資産の格差が表向きには、縮小して往年のような、「主立ち(おもだち)」が、いなくなったことがある。一億総中流といわれた時期もあったほどである。
 皆が貧しかった時代には、相互扶助が必要だったはずである。医師の人力車が止まっている家からは、何日かあとに葬式が出るなどと言われていた時代があった。
 そして世代の交代がある。若手の考え方は、しきたりにこだわらなかった。変化は変化を呼んだ。

 この先はどうなるか。少子高齢化が、加速度的に進むことははっきりしている。現在ある家が半減するのも、そう遠いことではあるまい。すでに空き地が出ており、空き家があり、高齢者の独居も珍しいことではない。もっとも先のことをいうほど、面倒なことはなかろうけれども。
 
 要するに、全国どこにでもある地域の姿と、ほぼ同じになったということであろう。
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無縁社会(4)
 現在の状況

 町内費は世帯同一金額。正副町内会長は持ち回り。その他の役員(班長あるいは祭礼まど仕事のきまっている役員)は、年齢を問わず順送り。体育祭役員等不要の役員は取りやめとなる。ともに80歳を超えている我が家も今年は班長で、町内非集め、広報紙の配布をとぼとぼと実施中。
 
 近隣の付き合いは、必要がないと、通りすがりに挨拶を交わす程度。不祝儀での応援は、ほとんど辞退する。
 要するに、今日の世間一般並みになったということであろう。
 昔は、どこの家の年寄は、どの部屋で寝ているということまでわかったものだった。今では顔も知らないで済んでいる。

 そうなった原因の一端を次回に記してひとまず閉じたい。
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無縁社会(3)
 前回の分につき、2件のコメントを頂戴した。そこに述べておいでの事が、真実であると思う。

 世の中が一挙に変わることはあまりない。しかしなしくずし的に、傾斜をつけて変わっていき、気がついた時は大変わりしているということはあるようだ。

 かつて私を取り巻いていた地域社会もそうである。いつの間にか大きな変貌を遂げた。その理由はコメントをいただいたとおりである。以下、明日以降に譲ろう。
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無縁社会(2)
(承前)
 60世帯ほどであった。その町内費を、箇数割りという方式で定めていた。

 総額を1万とし、各戸の経済力に応じての、分担とするものである。A家は1万分の600、B宅は1万分の50というように。全員の合意で、各戸の分担額を決定する。

 つまり町内の全家庭が、互いの経済力を知っていた事になる。これ以上に濃密な関係はなかろう。江戸時代の五人組制度には及ばないにしろ、戦時中に推奨された隣組など、足元にもおよぶまい。隣同士ともなれば、裏口からのいったり来たりで、縁側が顔を合わせる場所だった。

 それがなぜ、高度経済成長期とともにくずれてきたか。正直に言って、よくわからないが、明日に譲ろう。
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無縁社会(1)
 NHKの番組で視た。大都会にも医療難民がいるように、辺地でも無縁社会が存在する。孤独死もないではない。

 ところが、私の住んでいた所では、バブル期までは、現在では考えられないような、濃密な関係の地域社会があった。どういう状況か。それは次回に書くこととする。

 それにしても、あの関係が、いつから、どうして崩れたのかがわからない。また誰も知ろうとも、考えようともしなかったような気がする。
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