2016年07月の記事


屋根の塗装
 融雪パイプを敷設してある部分の屋根に、錆が浮いているとの指摘があった。近々後を継ぐものもなく、解体しなくてはならない家ではある。

 さりとて雨漏りがしてもいいというわけにはいかない。専門の業者に塗装を依頼する。日照りの中でやるという。

 黙々と作業が行われる。現実の生活の厳しさを感じた。
コメント (3)

見つけてくれれば
 容易なことではないと思うが、学校の先生からは、教えることも大切ではあろうが、児童生徒のいい点を発見して、それを伸ばすことにも着目していただきたいと思う。

 小学校一年生のときのS訓導がその典型だった。昔の先生がみな立派とも限らないが、S先生の姿は子どもたちがいちばんよく見ていたと思う。
コメント (1)

福笑い
 体調を崩して寝込んでいた。我と我が身を疎ましく思ってしまう。なんとか起きてみたところに「福笑い」という曲をいただき、さっそく動画で拝見。

 愉快だから笑うこともあるが、笑うから愉快になるのだとも思った。進んで不愉快になっている場合もあるという反省をこめての感想。
コメント (2)

利用
 なんでも利用する心構えが大切と、昔、昔に聞かされたことがある。最もだと思う。療養している時も、この言葉が支えになった記憶がある。しかし実際には、何をいかに利用するかの才覚がなかったのが残念である。
コメント (1)

佐々木小次郎
 入浴しようと思ったら、頭の上を飛行物体が通った気配。家の中に入ったコウモリだった。益獣であってみれば捕殺はできない。からめとって屋外に放とうと思い、魚を救う網を持って追う。

 ようやく二階の最後尾の一室に追い詰める。窓をあけておいて、網を振り回す。かくして五分間ほどでへとへとになる。ここと思えばまたあちら、ようやく開けておいた窓から出て行った。

 燕返しの佐々木小次郎は凄いと思った。こうもりとて、とても網でとらえられるほどの動きではなかった。いわんや燕においてをや。
コメント (3)

錦の御旗
 「勝てば官軍」といわれるが、調子にのって「錦の御旗我にあり」というような態度ほどいやなものはない。地域社会のどこかにいはしないか。稲も実るほど頭を垂れる。
コメント (1)

時の力
 いまさらながら、時の流れを思い、時間の力を強く感じる。一時は駄目だと思ったことも、いわんや悩みだの失恋だのということなど、跡かたもないように消してしまうではないか。
コメント (2)

風景
 毎日みているようなのに、ほとんど心に残っていない風景がある。
 自分の思いを納めているような風景もある。

 たまにそこへ行くと周囲がすっかり変わっているのに驚く。
コメント (1)

年寄りがいない
 昔、老人は一目おかれているところがあった。いまでは妙に物分りがよく、若作りの傾向なしとしない。もっともこうも高齢者が多くなったのだから無理はないか。

 砂糖のなかに、同じ甘さの砂糖をいれれば、かき混ぜなくとも違いがわからなくなるようなものか。
コメント (1)

熟年・実年
 要するに高齢を言い換えただけと思う。現実を見つめるほうが大切と思うが、それでもウジウジしているよりはいいか。

 昔、有名な俳優男女が並んで旅に出るのかと思うようなポスターがあった。熟年、実年などという言葉は、そのポスターのような現実がありとすればぴったりだとも思う。
コメント (1)

中学教師
 近所に若い中学校教師が下宿している。いつも就寝すべく戸締まりをする時刻に、我が家の前を通る。あるとき「遅いですねえと声をかけた。

 「いや、まだ仕事がいっぱいあって・・・」と。「毎日じゃありませんか」「はあ、まあ・・」ブラック企業なるものがあると聞く。頑張れというだけではすまないものがあるのだと思う。
コメント (3)

ピンからキリ
 どこかの世界にあるはず。そして待遇が同じというのも共通項。
ほぼ年功序列も残っているとか。

 かたや非正規雇用で喘いでいるケースあり。ワーキングプアあり。子供の貧困とはイコール親の貧困のようにも思われる。問題が多い世の中に生きているのだと思わせられる。

 
コメント (1)

修養
 「修養が足りない」と、昔は先輩によく言われた。いまでも事実修養が足りないという自覚はある。しかし言葉として「修養」ということを、あまり聞かなくなったような気がする。

 よく使われる「研修」とは「研究と修養」と聞く。ひとくくりにされているのかなあ。
コメント (1)

 特別のことがあれば別だが、普段は受けた恩をはっきりと自覚していない場合が多いと思う。

 記憶の断片を集めてみると、いろいろな恩を受けていることがあったと、改めて感じるところがある。
 自分では「恩」と言われるようなことをした覚えがなくて申し訳ない。
コメント (1)

踊り場
 加齢現象は斜度は別として、階段を下るが如きもののようだ。踊り場があって、そこから斜度が違ったり、踏み板の高さが変わったりもする。踊り場も何箇所かある。

 今年に入ってから急に体力が低下したように感じる。この経験則に照らせば、どうということはないのだが。

 誰もが年齢を重ねることながら、自分におとずれる事を想像できない。まさにその好例なりと自嘲そして自重。
コメント (2)

分相応
 明治初期生まれの祖父から教えられたことの一つに「分相応を」ということがある。それがいちばんだとも。
コメント (2)

暑い日の思い出
 村人の歓呼の声、幟り旗に「祝出征」の文字と名前を大書され、駅に向かう行列が、我が家の前を通ることが、次第に多くなった。何十年も昔のことだが。

 ある日、軍服姿ではあったが、グデングデンに酔って、目元もはっきりしないような足取りの応召兵が、行列の中にいたことがある。じりじりと照りつける暑い日だった。

 軍国少年ではあったが、きっと軍隊に行くのがいやなのだろうなあと思った記憶がある。
コメント (1)

自分は
 周囲から、誰かから必要とされているかと考えたとき、不要とはされていないが、特に必要ともされていないように思ってしまう。

 第一、必要とされるような努力をしているかといえば、申し訳ないが、していないというしかない。しかし自ずとやっていることから、必要と感じてもらっていることならあるかとも思う。
コメント (2)

いくつになっても
 「何歳だから駄目などということはない」という一文に励まされた。今までやったことがない、途中でやめたなどということに、チャレンジすることに決めた。まず始めることだ。
コメント (1)

ボケ防止
 ボケというほどでもないが、年齢相応に物忘れをするようになった。、またかと思うようなことをしばしばやってしまう。

 しかし今を楽しもうと思っていること、やるべきことは中途半端になるにしてもやることが、案外ボケ防止になっているような気がしないでもない。自己弁護かも知れないが。
コメント (1)

息をつく
 できたばかりの地方拠点病院での受診。今のところ異常なしとのことで、ほっと息をつく。この年令になっても、長期療養を経験した身としては、頭のどこかに心配する気持ちが残っているようだ。

 健康のありがたさはしばしば説かれるが、失ってみれば骨身にしみること必定。
コメント (2)

嫌いなものなし
 弱々しそうだったのに、意外に長く生きているなあといわれた。邪魔になってスミマセンというほど、ひねくれてはいない。

 多分、食べるものにまったく好き嫌いがないのが、一つの条件として働いているような気がする。食物だけでなく、万端に好き嫌いがないようであれば、人格円満と言われようが、とてもとても。
コメント (3)

謎なぞなあ〜に
 「はじめ4本の足、そして2歩、それから3本になるものなあ〜に」などと子供の頃、なぞかけをしたものだった。

 答えは「人間」。赤ん坊のハイハイ、成人、そして杖をつくからと。ころがこのごろ、四つん這いにならなくては立てない。
 この謎なぞに、プラスαが必要だと、これも苦笑の種。
コメント (1)

体力
 いつまでも若い時と同じような状態でいられるはずがない。体力の衰えは当然と思いながら、立ち居振る舞いが不便になると、やはり苛立つこともある。「笑っちゃうねえ」と言ってごまかすが。
コメント (1)

スリッパ
 かなり使ったスリッパを替えた。これが今までのものより踵の部分が高い。比べてみれば5〜6ミリでしかない。

 ところが老人といわれるほどの年齢ともなると、とこれだけのことにも抵抗感が生じる。慣れるまで4〜5日はかかるだろうと思っている。
コメント (3)

変遷
 町内に書くことを好きな人がいる。家業リタイア後、戸数40ほどの町内の変遷をたどり、このほどまとめた。

 大正時代からの、せいぜい8〜90年間なのに、あの家この家とかなりの変遷があって驚く。

 まさに人も棲み家も、水の流れと変わりがないと感じるところがあった。
コメント (1)

勘違い
 勘でしかない。それもよその土地のことはわからない。身のまわりでのことであるが、なにか何事もバカバカしいと思うような空気があるような気がしてならない。

 明らかにそうとは思いない土地もあるようだから、あるいは我が地域が衰退しつつあることの前兆か。勘違いであれかしと祈る。
コメント (1)

灰皿
 ながい間の喫煙だったから、あちこちから貰った灰皿がある。中には有名な陶器生産地の物、金属製の置物風のものなど、すべて無用の長物と化した。

 同じような物に火鉢があり、自在鉤があり、提灯がある。民族資料館でもない限り、いずれ捨てることになるだろう。
コメント (1)