2011年10月の記事


枝おろし
 越冬のためには、大きな枝を伐っておくしかない。桜、楓、椿、欅など、人を頼んで枝をおろし、丈をつめる。

 何年もかかって、ここまで伸びてきたものをと思う。チェンソーが響くたびに落ちる枝に対して、すまないような気持ちになる。しかし雪折れを防ぐためには致し方ない。

 この木々をさらに丸太で囲って春を待つ。
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キロキロと
 「キロキロとヘクト出かけたメートルがデシに噛まれてセンチミリミリ」隣村の僧侶でもあった小学校の担任の先生が、何度も繰り返していた。

 「ヘクト」も「デシ」という単位も、実生活ではほとんど使うこともなかったような気がする。このごろ「ヘクトパスカル」でいくらか馴染んできた。

 昨今は「ナノメートル」「ナノグラム」などと聞く。極小なのは分かるが、実感が伴わない。「ナノメートルってどのくらいナノ?」などと、爺ィギャグを飛ばすがせいぜいか。      
 もっとも昔のように「命を鴻毛の軽きに比し・・・」などとは、二度といわれたくはない。おかしな連想かなあ。
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単位
 昭和10年ころ、たまに貰える5銭硬貨を握り締めて駄菓子屋に向かう。
「キャラメル一箱」といって、銭を出す。オバサンは、
「一箱は100個入りだ。だから1個だ」と言いながら、ガラス瓶の中から、キャラメルを取り出す。
 では、中にある小さく包んだものは何というかと聞けば
「ひと粒だ」という。1箱と1個、1個と1粒、しかし切り返す言葉がなかった記憶がある。

 妙なことを覚えているものだが、シーベルトだのベクレルなどという単位は、ほとんどの人が知らなかった時代である。キャラメル1個、口に入れるひと粒も、今では縁遠くなった。

 しかし新しく聞かれるようになった単位とは、ずっと付き合っていくほかない世の中になったのではあるまいか。
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ギリギリ人
 生活保護、長期療養、交通弱者、買い物難民、などなど、いろいろな区分けがあるようだ。自らを省みて、そのいずれにも属していないと思う。

 余裕皆無の経済生活、通院だけですみ、自転車利用で行ける範囲の、小さなスーパーに行くだけと、ギリギリのところで踏みとどまっているという感じか。

 後期高齢者などと言っても、弱者扱いからはほど遠い。「吉里吉里人」という小説のタイトルをもじってあてはめ、笑っている事にする。心に太陽、唇に歌。 
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空気入れ
 75歳にして自動二輪まで運転できる普通免許を返上。「しまった」と思わぬでもなかったが、以後は自転車専門。

 今日はペダルが重くて疲れた。タイヤの空気が不足していた。先日まで暑かったのに、急に冷えたからであろう。

 近くの自転車店は、みな廃業、手押しの空気入れを持っていてよかったと思う。骨董品に違いはなかろうけれども。
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空を仰ぐ
 恥ずかしながら、というほかないが、現役で仕事をしていたころ、空を仰ぐという事が、あまりなかったように思う。無意識的に仰いだことはあるのだろうが。

 流星が見えるるなどと聞いて、夜空を眺める気になったのが退職後。ゆったりと雲の流れる秋空を眺めるようになったころから、瞬く間に古稀を超え、喜寿を超え、傘寿を超えていた。

 願わくば、多くの人々が空を眺めるようであればいいと思う。「眺めているよ」という声ばかりかも知れないが。
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プラス、マイナス
 独居老人や高齢者世帯では、とても読み切れそうもないと思うほど、「○○だより」「○報」といった印刷物が配られる。さる行政職員が、配布することを「撒く」と言っていた。

 かたや何かの名簿でも作ろうとすると、個人情報というので、俄然厄介になることがある。

 プラス、マイナスでゼロ、面倒なものだと思う。
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