2010 11/09 11:50
Category : 日記
通常は「雪囲い」であろう。しかし当地ではどこかの公園のように、樹木の枝を縄で吊るす程度では、冬を越せない。
庭木は厳重に縛り上げ、縁側から1階の窓を、総て落とし板でふさぎ、除雪用具を点検し、屋根融雪の調子を確認し、自宅前の道路除雪の手配をし、暖房設備と燃料とを買い置きし、漬物も確保する、などなど昔に比べれば楽なのであるが、それでも越冬態勢を取る必要がある。
公共の世界でも、除雪車の出動式が行なわれ、道路の消雪パイプの点検整備、流雪溝水量の確認が続く。
昭和40年代に入るころまでは、「雪地獄 父祖の地なれば住み継げり」という有様だった。その後も昭和56年の「56豪雪」をはじめ、交通途絶という状況もあった。
父親が出稼ぎに出たあと、女子供だけで、泣きながら屋根の雪下ろしをしている状態など、つい先頃まであった話である。
北国生まれの人は、なぜこれほど厳重に庭木を囲うのかわからなかったが、ひと冬を越してみて、理解できたという。それほど大量の、湿った重い雪が降る。
庭木をはじめ、越冬態勢を整えるためというので、いつか「冬囲い」というようになったのではあるまいか。昔の実感が、そのまま現在に言葉になっているような気がする。
庭木は厳重に縛り上げ、縁側から1階の窓を、総て落とし板でふさぎ、除雪用具を点検し、屋根融雪の調子を確認し、自宅前の道路除雪の手配をし、暖房設備と燃料とを買い置きし、漬物も確保する、などなど昔に比べれば楽なのであるが、それでも越冬態勢を取る必要がある。
公共の世界でも、除雪車の出動式が行なわれ、道路の消雪パイプの点検整備、流雪溝水量の確認が続く。
昭和40年代に入るころまでは、「雪地獄 父祖の地なれば住み継げり」という有様だった。その後も昭和56年の「56豪雪」をはじめ、交通途絶という状況もあった。
父親が出稼ぎに出たあと、女子供だけで、泣きながら屋根の雪下ろしをしている状態など、つい先頃まであった話である。
北国生まれの人は、なぜこれほど厳重に庭木を囲うのかわからなかったが、ひと冬を越してみて、理解できたという。それほど大量の、湿った重い雪が降る。
庭木をはじめ、越冬態勢を整えるためというので、いつか「冬囲い」というようになったのではあるまいか。昔の実感が、そのまま現在に言葉になっているような気がする。