藁沓
 すでにゴム長も配給制になっていて、それも4〜50人に1足、年に〜2回という状況もあった。明治初頭生まれの祖父に言われて、13歳の冬は藁沓で登校した。

 水がしみ込むと、ひどく冷たかった。しかしあの経験が、一定の忍耐力はある人間に、自分を育ててくれたという自覚がある。

編集 ペン : 色々な物が配給だったのですね。人生無駄はないと言いますがさぞ冷たかった事でしょう