2003年02月の記事


ほけきょほけきょで日が暮れた
19の春を一日中聴いていた。
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松井第一号をライブで観たぞ。
深夜3時からのヤンキースのオープン戦を観る。
三回裏。松井の第二打席目。ランナー一人。カウント2-3。ライトスタンドに飛び込むライナー性のホームラン。目撃。
眠い目こすって起きていた甲斐アリ。
さすが、としかいいようがない。
これで眠れる。午前4時30分。
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♪梅の小枝で昼寝して春がきたよな夢を見て
♪主さん主さんと呼んだとて
主さんにゃ立派な方がある
いくら主さんと呼んだとて
一生添えない片思い
奥山住まいのウグイスが
梅の小枝で昼寝して
春がきたよな夢を見て
ほけきょほけきょと鳴いている

ケツまくるとして、捲り方を考えた末に爆沈で良し、と思った。
出る直前にしたメールチェック。
「19の春 ありました。
昔 LP(渋谷ジャンじゃんのLive)で持っていたのですが、諸事情で
置いてきて(何処へ?)しまいました。
数年前に、CD復刻版を見つけて買っていたのですが、
探したら、その中に 19の春 入っていました」
と菱沼さんのメールがあった。
昨夜は興奮したままでメールチェックもせずに
ベッドに潜り込み、12時間死んでいた。
気になって、ウエブから落とす。
すべてぶっ潰そうと決めたのに
歌のひとつが気になるというのもおかしいが、
ひどくひっかかった。

で、ダウンロード。
ヘッドホンをつけボリューム最大にして立ったままで二回聴いた。
水ぶっかけられた思いでパソコンの電源を切って外へ。

クルマの中で、荒ぶる気持ちは消えず。
消えなかったが、出がけに聴いてしまった「19の春」がリピートしてもいた。
真っ白なサンゴの死骸の浮き島に赤いパラソル立てて寝そべり、波音に目を閉じていたら
どこからかこの歌がかすかに聴こえてくる…
そんな情景が頭をもたげる。
ま、いいじゃねえか
という誰の声でもない声が聞こえていた。

出たとこ勝負だと渡辺に言いながらエレベータに乗った。

で、おさめた。

顔を見た瞬間に、まあいいや、とどこかで感じてしまった。
もし「19の春」を直前に耳にしていなかったら
思い浮かべることがなかったら、と思う。

きっと今ごろは弁護士の武田に怒鳴りつけられていたはず。

「♪奥山住まいのウグイスが
梅の小枝で昼寝して
春がきたよな夢を見て
ほけきょほけきょと鳴いている」
あんな声でこんなこと歌っているのを聴いたら
しょうがねえだろう。
笑ってみせるしかねえだろう。


助けられました。
南島の歌びとに乾杯します。
こんな歌をこんなタイミングで聞かせてくれた
友人にも感謝します。


山の7合目まで登ったところで
下山せずにすんだ。
いやでもご来光を拝んでやるわい。
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何が粋かよ
何が粋かよ気がつくときはみんな手遅れ吹きざらし

と書いたのは誰だったか。


もう灯は、見えない。
しょせんは仕事。
たかがではあっても、されど、などどこにもない。

ないものを無理やりあることにしてきた己の不明である。

後始末をどこまでやればいいのか。
熱はもう、ない。

ほほ笑むことにも飽きた。
反撃に転じるパトスもいまはない。
疲れもない。焦慮もない。
問われれば、
御免、と返すのみである。


旗をおろし、巻くのみである。
よぉそろぉ とは愛惜の言葉でもあったのだ。


よぉそろぉ。
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氷川丸のタイムベルの八点鐘
眠い一日だったが、氷川丸のブリッジにはぐっときた。
金沢船長にタイムベルの八点鐘の鳴らし方をコーチしてもらい鳴らしてみた。納得。
しかし不安なので明日はやはり来てもらうことにした。
夏の終わりに見学したときに眺めた病院船時代の歴史コーナーは2年前に金沢さんたちが半年かけて仕上げたものだった。
昇ったり降りたり、客船の中は迷路のようでまことに愉しかった。
急きょ、明朝に撮影を組み込んだ。スタッフに連絡。
高速で銀座に。天一でかき揚げ丼を喰い、八重洲に。スターバックスでコーヒーを買ってクルマの中で一時間つぶす。
JRで打合せの後、築地へ。井上さんたちと基本設計の打合せ。
終わったら暗くなっていた。7時半。

明日は氷川丸の後、資料館に戻り撮影。
合間に、シナリオ打合せ。
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オールアップ。
2時間仮眠し5時に起きた。
菱沼コレクションのベサメムーチョ集を聴きながら、
エピソード9、ラストに取り組み、さっきアップ。
関係者に送信。
これで予定通り25日第四稿10タイトルを仕上げた。
いよいよ荒編集である。

まずは、シャワーを浴びたら氷川丸へ。
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雪の日の19の春
菊池さん曰く「十九の春」は、嘉手苅林昌の歌が消えない。一生消えないでしょう。

そして菱沼さんも
「沖縄時代(20年も前ですが、)からファンです。
素晴らしい唄歌いです。
私は、大工哲弘・嘉手苅林昌・山里勇吉(たしか大工さんの師匠)
この3人の唄う、八重山(石垣島)の代表的な民謡「トゥバラーマ」の大ファンです、毎年 石垣でトゥバラーマ大会という素晴らしい催しがあります。
ぜひ一度、感動で鳥肌が立ちます」

なんだ嘉手苅林昌を聴いていないのは俺だけじゃん。
聴きたいよぉ。

雪で寒くて窓辺で仕事してると凍えそうだけど
行き交う話題が「19の春」なら、酔狂だ。

なんだか沖縄にほんとに行きたくなったな。
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第四稿、3タイトルアップ。なんとか予定通りだ
エピソード6と7と8の第四稿アップ。
関係者にpdfで送信。

明日は、金沢キャプテンの案内で氷川丸ロケハン。
そのあとは八重洲でリニアの定例会議。
さらに築地で打合せ2件。

明後日は横浜ロケ。
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蓬莱行とバラス島
菱沼さんに先を越されたが、蓬莱行の2枚組みアルバム、いま申し込んだ。
そういえば去年の夏は、菱沼さんからもらった憂歌団の「19の春」をよく聴いた。

一昨日から、西表島のバラス島のことなど、
よく思い浮かべるようになった。雪の降る午後の東京で
真っ青な海に浮かんだ真っ白なサンゴの死骸でできた島を想う。

悪かねえな。
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バカタレ団は今いずこ?
スポーツ紙の一面に川淵がサッカーの米国遠征を決定とあった。「マツイが来ているのになぜサッカーは来られないのか」と問われ答えられなかったなどとも語っている。アメリカは派遣中止を決めたことがとても不快であると言っているらしい。で、方針を変えた。興ざめ。アメリカも日本もサッカーも政治も、世界はふんとにくだらねえ。十把ひとからげのバカばかり、どうしてこんなにみごとに太平洋をはさんで集まれるのか。ふしぎでならない。

日本は唯一、原爆2発落とされた国ではなかったのか。
イラクの核も化学兵器も金正日の核も、アメリカが一貫して開発実験してきた兵器に比べりゃ月とスッポン。目くそ鼻くそどころじゃねえだろう。

神戸の巨大シンジケートが、納沙布辺りの昆布採り相手に小博奕うって小銭稼ぎしている構成員三人ぐらいの「地元ぼーりょくグループ」に一万人ぐらいの強面引き連れて乗り込んでいくみたいで話しにならない。

わが国は判官びいきという田舎者ならではのトラディショナルがあるではないか。国中、いまだに占領されていて、このうえ何が哀しくて尾を振りつづけるのか。

国連大使にトチ狂ったような花火上げさせて、隙見たつもりでとんちんかんな発言をする外務大臣といい、幕府海軍から引き継いだ横須賀で選出されながら、アメリカのお先棒担ぎを恥じも外聞もなく演じつづける首相といい、読み書きそろばん以外に取り柄はないのだろうか。

「愛する首領さまぁ」を連呼する北朝鮮の国営放送をおもしろおかしく笑いものにしているが、「首領」「ブッシュ」に置き換えりゃ、なんだおんなじじゃん。

新聞見てるとうっとうしいから、近ごろは日経産業と日刊スポーツと東スポの三紙しか読まないようにしていたら、頼みの綱の日刊スポーツですら川淵のバカ発言がトップとなって、ちと煮えくり返った。

むかし何で読んだのか、誰の発言だったか忘れたが
「死ね死ねバカタレ」ということを連発するバカタレ団とかいうのがあったが、ああいうのがまた出てくるといくらかは気が晴れるのではねーか。
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紅梅にみぞれ
予約したのが12月9日。ほぼ3ヶ月遅れて病院に。
「たちの悪いインフルエンザで」と言うと
「それにしても永いカゼでしたね」と笑われた。

病院の庭に紅梅がみぞれに濡れて。

帰りに、ての字に寄って蒲焼きを食う。

花より団子である。
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さっそくアホをつくったらしい
菱沼さんは今夜さっそくつくっちゃったようだ。おれもつくってみよーかな、ほんとに。


以下、無断引用
Re: ソパ・デ・アホ 投稿者:あかりや  投稿日:2003/02/23(日) 20:17:02
今朝のレシピ
タマネギのスライスを弱火で10分位炒めておく。
鍋にオリーブオイル大サジ3位をいれ、ニンニク(食感が残る位にスライス)とベーコン(1cm角位)を入れてから 弱火にかける。
ニンニクが焦げないようにゆっくりとまぜ、ニンニクの香りが十分出たら
(ニンニクの表面の一部がやや薄茶色になったら)炒めておいた
タマネギと、パブリカ(小サジ2)と、硬くなったフランスパンを
適量細かく千切って炒める。
全体が焦げそうになったら、水を適量入れ、煮立ったら、アクを取り
鳥ガラスープの素と塩で 味付けをして食しました。
卵とビーフブイヨンが切れていたので、有り物で作りましたが
おいしかったです、コツとしては、全て焦げる寸前に止めることと


良い塩を使うことくらいかな。
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《FLYDADDYFLY》★★★★
さっと終わらせるつもりが
20日と21日の取材報告書に手間取った。
5時間たっぷり。
ま、ジ・アース以来の取材レポートだからな。

金城一紀著/講談社刊
なかなかではある。
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帆を揚げる。
目黒の珈琲店で山岡君と編集方針の打合せ。
珈琲店なのに店内にはいるといきなりターメリックの香り。なかなか渋い良い店だった。
スタジオ以外の山岡君との打ち合わせは、この店を使うことに決める。

これで音楽と編集の航路が決まった。
あとはドラを鳴らすだけである。

で、勝手に
ドラを鳴らすことに。
郵船博物館の仕上げ、本日をもって出帆する。
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大工さんの蓬莱行
http://www.d2.dion.ne.jp/~azi/index.html
音楽顧問が参加している大工さんのホームページを見たらロケットマツの名もあった。

菱沼さんも二十年来の大工さんのファンだとか。

世の中の、なんたる狭さか。
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ソパ・デ・アホ続報
さっそく菱沼さんからソパ・デ・アホ情報が来た。以下に引用。


http://www.linkclub.or.jp/~aaa/spain02/sopa3.html

http://www.franco-japonais.com/tomato/sale/soupe_ajo.html


もうひとつ、日本ではあまり知られていませんが、スペインのスープを語る上で欠かせないのが、ニンニクのスープ『ソパ・デ・アホ』。作り方は土地によりさまざまですが、なかでもマドリ−ドのものは有名と言われていています。ニンニク、パン、パプリカをオリーブオイルで炒め、水を注いで卵を加え、弱火で半熟の状態になるまで煮るというもので、北部ではクミンかパセリを、海沿いの土地では魚介類を、また地方によってはつぶしたアーモンドを加えるなどなど。スペイン各地、レストランでも家庭でも愛されている1品です。

+++++++++++++++
こいつはこの夏のスタミナ源にもってこいの気がする。
夏の甲府盆地は暑そうだから
宿にオーダーして、スタッフの夏バテ防止にいいのではないか。
「ソバ」だと思っていたら「ソパ」だったことが判明。苦笑
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編集打合せ
午後、目黒辺りで山岡君と郵船の編集方針を打合せの予定。

それから戻って、episode6から9のシナリオをできるところまで。

体調がひさしぶりにいい。
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ソパ・デ・アホ
週刊文春のグラビアを眺めていたら
ソパ・デ・アホを急に食べたくなった。
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大工哲弘の新作CD「蓬莱行」
菊の湯から勝手に引用:

大工哲弘の新作CD「蓬莱行」(私も参加している)を聴く。沖縄のエネルギー。歌の定型との軽やかな遊び。「ジャパニーズ・ルンバ、アイアイアイ---ジャパニーズ・ルンバ、アイアイ---ジャパニーズ・ルンバ、アイアイアイ---チョットマッテクダサイ!」の掛け声。ノーテンキでいいじゃないか。

↑ちょっと聴いてみたい。
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リニアと船のメモ2つ
5時起きが二日間続いたからか7時に目が覚めた。
昨日は帰りの車中で寝たせいか、寝不足の感じはない。

リニアの取材メモと日本郵船の資料調査依頼を佐藤さん宛に書く。
アメリカでの調べとアーカイブ入手がどのあたりまで可能か。
かなり絞られてきたので気はラクになっている。

1時から横浜の赤レンガ倉庫のあたりでクレーンテストを見に行く。
その後、六本木で井口さんと音楽の打合せ。
さらに荒川の佐藤さんのオフィスでリサーチ内容の確認。

気力が残れば、シナリオの続き。

曇り空。朝飯を食っていなかったので
急に腹が空いてきた。

腹はどうしていきなり空くのだろうか。
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500km/hはゼロ戦の最高スピード
昨日は寒くてまいったが、今日はよく晴れて
時速500kmで往復しながら何十回も真っ白な富士山を眺めた。
10時から1時まで実験走行に同乗。

眺めたと言っても450km/hだと約6秒
500km/hのときは約4秒強。

試乗のときは450km/hまでだったが
今日は500km/hを何度も体験。
加速のスムーズさにあらためて驚かされた。

トンネル内のバンクの体感
トンネルそのものの巨大さ
甲府側のトンネル始点の岩肌の感触
点検用車両での始点から終点までの往復
いずれも想像を超えていた。

何をどう撮るか。
ハードルは高いが、胸躍るチャレンジになる。

そういうことを二日間かけてしみじみ感じることができた。

余談。
時速500kmはゼロ戦の最高スピードと同じだと聞いた。
とすれば本日の昼をはさんだ三時間、
撮影チームは地上10センチの文字通り地を這うようなゼロ戦体験をしていたことになる。
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ランプと南蛮屋
金沢さんの話では
ランプは明治末の三大航路時代には確実に使われていたらしい。
浅間丸などの豪華客船時代にはさすがに電灯らしいが
やはり相当セーブしないときつかったのだろう。
水なども、スエズから先は一等客にも風呂は使えずシャワーのみなどということも多かったようだ。

したがって「世界にひらく」のパートは、灯影あり。
焔の揺れを生で撮るか、編集で味付けすればいいか山岡君に相談すること。

D-HD900のせいか、味を出せないポジよりも
写真の方が雰囲気が出ている感じがする。
残りも、できるだけ紙焼きに切り替えていきたい。

やってみないとわからないものだ。

南蛮屋でハワイコナとモカを200gずつ買って帰る。
5月過ぎにオープンしたら南蛮屋のテラスはおれの特別席だ。
さすがにいまはまだ身を切る寒さだったが。
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悪党パーカー《ターゲット》★★★
しかしどうして原題の《Backflash》がこんなタイトルに替わるのか。
読了してもその意図がつかめない。

映画もそうだが、
こういうことは「著作権」に引っ掛からないのだろうか。
こうしたほうがわかりやすいとか
読者には意味が通らないとか
出版社がいけないのか翻訳者が情けないのか知らぬが
たわけた夜郎自大ぶりである。

ま、出来もイマイチだからしようがないけども。
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ひさしぶりの湯治部集合
ひさしぶりに湯治部メンバーと撮影。
写真と物撮りだけだが、何でもできる態勢をとっていたので
現場で思いつくままに撮ることができた。
デジタルHD-F900で80カットくらいこなす。
足りているものと不足しているものが明らかになった。
ときどきタバコを吸うために外に出ると浜風が強く
身にこたえたが、それもまたよかった。

博物館の施工も順調にすすんでいる。

明日は5時起きで山梨の実験センターへ。
二日間、リニアのシナハンならびにカメラポジションのチェック。
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ロケ日和
晴れた。

夜半まで雨が残り、予報も夕方にかけて雪だったが、晴れる。
ほとんどを資料館内だけで撮るつもりだったが、
これなら外の光も使ってみたい。

9時に出発。
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三昧モード
第4稿の6本にすべて手を入れる。
明日ロケのときにスタッフに最新版として渡すため。

さてほんとうに
頭の中のすみずみまでどっぷり郵船モードになりつつある。

明日19日は撮影。
20日から21日にかけて大月泊まりで山梨実験線の取材。
22日は横浜でクレーンのテスト。
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積水アップ。郵船没頭
MAV18時アップ。
ひさしぶりに丸一日スタジオにいた。
積水ハウスは三月後半の改訂版までしばし休み。
いよいよ全力集中である。

明日は資料館で郵船図絵などをHD収録。
天気がよければ港をバックにとも考えたが
室内にしぼることになりそうだ。
武田君か現場を見ておきたいというので明日現地合流。
MA之合間に井口君と音楽の環境について話。
大きな方向の確認をすました。
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1908年のタイムベル
タイムベル

通常、船橋に吊るされ、30分ごとに一点ずつ増やして叩き、
00・04・08時に8点鐘で当直交代するときを告げる。
火災、そのほかの非常時にも利用する。

1908年/明治41年
長崎造船所建造/13400トンの豪華客船・天洋丸
大正末の第二東洋汽船との合併により継承
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戦争と壊滅第四稿アップ
13日に飛び込んできたという史料を組み込むことを考えながら、おおはばに改定。

明日はrstudioで積水ハウスのMAV。
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桜の枝がふくらんでいるのを発見。ことしもはやそうだ
日ざしにさそわれ、サンダルつっかけ紀伊国屋へ。
マックピープルと金城一紀の新作を二冊。
ゴダードの新作を一冊。

コンビニに寄りタバコを買い、公園のベンチへ。
おどろいたことに桜の枝がふくらんでいた。
よく見ると、芽が出る寸前。
日なたはぽかぽかして目を閉じるとそのまま眠りに落ちそうだった。

気温を見れば17℃。
こりゃ春だわい。
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外はもう春じゃねえか
ひと休みしたら予約していた医者に行こうと思っていたが
積水ハウスのナレーション原稿にまったく手が付いていないことを渡辺から知らされた。
とりかかったら、思ったより手間がかかった。
急いで夏苅さんにメール。
送信終わって時間を見れば、診察時間が終わったところ。
12月はじめの予約だから、もう少しのばしてもかまわねえか。

昼の窓辺はぽかぽかしていて
カゼの名残でひーひーしているのがばからしくなる。

これならトータルメディアに行って
オーストラリアの連中と和んでおけば良かった。
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18時間眠った。3本、書いた。
18時間、熟睡していた。
夜中の10時過ぎに目が覚めてあわてる。
体調、最悪。14日の長時間打合せのリバウンドか。

12時から書き出す。
8時すこし前に3タイトルアップ。
オフィスに送り、そこまでのプリントを頼む。
オーストラリアからシステム担当が来るので
展示演出とのからみがいくらかでもわかればと急いだ。

プロローグ、日本をひらく、日本郵船誕生秘話、
世界にひらく、豪華客船時代の到来と終わった。
第四稿とはいえ、ここまでくると欲が出て
かなりざっくりイメージを変えることになった。

しかしこの数ヶ月は
ほんとうに感心するくらいよく書いてる。
あの一年が嘘のようだ。
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2タイトル目、アップ
ひと休みして2本目にかかった。
これは5時間。
関係者にPDFを送る。

いや、けっこう頑張った。
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第4稿の1本目をアップ。
郵船のプロローグ第4稿アップ。

8時間かけて細部までブラッシュアップ。
あらたに手配をする資料を10点近く増やしたので
渡辺はかなり慌てるだろう。

昨日、資料室であれこれひっくり返して長時間すごしたことがすごく刺激になっている。
もっとも久しぶりに外で長い時間をすごしたせいか
夜に微熱とひどい寝汗。

つかれたので今夜は、ここまで
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Spanish serenade 「La Paroma」が演奏されていた1935年8月24日のディナータイム
午前十時から夜の八時まで。
一時間あまりの仮眠で向かったから
さすがに夕方にはまぶたがなんども閉じかけた。

シナリオの後はメインエピソードのグラフィックボードについて。
それぞれ10のゾーンについて大急ぎで総当たり。
先方は館長、副館長と学芸員の女性5人
こちらは高橋さん、穴澤さん、吉野さん、渡辺、おれの5人。計10人。
昼食をはさんで、館長と高橋さんをのぞき残った8人で夜までみっちり詰めていった。
貴重な資料が山積みのため館内は禁煙。
ときどき階段の踊り場に出て、赤レンガ街を眺めながらタバコをふかす。
昨日、寄贈されたというなんとも優雅なつくりの資料なども飛び出し、けっこう熱が入った。
お目にかかれなかった幻の豪華客船の内装写真などもあった。さっそく水曜にD-HDで撮影を決める。

元船長だった副館長に教えてもらったのだが
「ようそろう」は軍の言い方で、商船は一貫して英語だったとのこと。
半年かけた勘違いが、ころっと解決。気が抜けた。

霧笛の音は蒸気と現在のような空気だけで発生させるのでは微妙に音色が異なること。
初期の蒸気船はとても静かだったらしいことなども階段の踊り場で教えられた。
タイムベルをスタジオに運んで録音したいと言ったら、巨大で重すぎてとても運べないとも。

さっそくミューズに連絡。

2日続けて一時間ちよっとの睡眠だったが
ま、収穫の多い時間になった。
週末は、今日の打合せを元にさっそく第四稿にかかりたい。

菩提樹のぬるい風呂にゆっくりとつかりたっぷりと汗を流した。
なんだか船旅をしてきたような気分である。

昼食の後で、南蛮屋に寄り、チョコレートケーキとハワイコナをテラスで。バレンタインデーだからとチョコレートを二かけらつけてくれた。こいつがうまいのでおどろいた。

菱沼さんから偶然手に入れたというSpainというタイトルのアルバムからとった曲をもらった日に、
ずっと気になっていた昭和初期の豪華客船のディナータイムで演奏されていた曲目に出会う。
プログラムの中から、もしあなたたちがあのときの客船に乗船したとして聴いてみたい曲はどれかと尋ねたら、
三人の学芸員が選んだのは
Spanish serenade の「La Paroma」。
1935年8月24日の夜。
龍田丸ディナータイムに演奏されていたプログラムのラストナンバーである。
SpainとSpanish serenade。

こういうときは、いい仕事になるな。

きもちよく疲れた一日になった。
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《悪党パーカー/地獄の分け前》★★★★
リチャード・スターク著/早川書房刊
原題は「FLASHHFIRE」。なんつー間抜けな邦題をつけるのか。おもしろかったが。

二時間眠って目が覚めた。
起き出して悪党パーカーを読み、朝に。
これからシャワーを浴び、朝飯を食べたら横浜。
たぶん一日がかりで十本のシナリオのチェック。
いずれにしても今日が段落。
明日からは荒編集に突入だ。いやそのはずだ。
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Niels Lan Doky Trio MontmartreのSpain
菱沼さんからもらった
Niels Lan Doky Trio Montmartreの
Concerto De Aranjuez、
Recuerdos De La Alhambra
Besame Muchoを聴いている。
アルバムタイトルは「Spain」。

夜明かしをした、と書いてあったがうなずける。
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半年で701回目のグリーン・デスティニーを聴きながら
18時からJRのスタッフミーティング。
システム池田さん、CGの桑田さんたちと。
同じようなメンバーで99年の夏に未来博のために集まった。あのときは電通4ビルの4階。
今夜はコンワビルの11階。あの「ふく源」の隣。

JR のプレショーを、1853年のペリー来航から書書きながら、日本郵船のプロローグもまたペリーの黒船=蒸気船が発端としたことを思い、不思議な符号を感じる。
当初、郵船博物館の序章は「岩崎弥太郎の野望」からだった。
JRのプレショーもまた、歴史ではなく「超電導磁石」の解題。つまり交点はどこにもなかった。

産業革命の落とし子である蒸気船で砲艦外交にやってきたペリーの幕府への土産に、発明されたばかりの電信機などと一緒に、蒸気機関車の模型があったという。運び上げられた蒸気機関車を取り囲み、熱心に見入っている幕府の士たちを細密画で描いた記録を眺めていると、
それからわずか19年後に新橋-横浜間に鉄道を敷いてしまえた事実が夢のようだ。

トヨタ博物館の仕事で100年の自動車の歴史、
郵船博物館で120年の海運の歴史、
2005年のエクスポで130年余の鉄道の歴史と、未来。

あとは自転車の歴史でも引き受ければ
おれは[移動体]のオーソリティ。か。

起きてから二時間。
タン・ドゥン:グリーン・デスティニー〜愛のテーマ をリピートしている。
夏に郵船の企画を書きつづけながらよくこの曲を聴いていた。
冒頭に水音が淡く入るのがどこかで海の物語に馴染んだのか。
静かさと激しさがなぜかくもみごとに溶け合えるのか。
鎮められながら覚まされていく。
西洋ではなく、まぎれもないこれが東洋。

ituneのリピート回数表示を見ると半年で700回を越えている。

今夜のJRの初顔合わせ
明日の郵船でのシナリオ大詰めと
ま、もってこいの一曲ではある。
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郵船第三稿、アップ。いよいよ
けっきょく昨日は、徹夜で最後まで書いてしまった。
渡辺に送り、提出用のプリントを任せ、医者に。
帰ってから電話で起こされるまで短い時間熟睡。

それからマンガのような一時間があった。

夢うつつで説明と弁明をし、家に戻ってもういちど眠ろうとしたが
もうダメだった。

半覚半睡のまま未明までテレビ画面を眺め
ざわつきを消炎。
それからベッドに。
二日間、忘れていたひどい寝汗に見舞われる。

渡辺から伝言。
10のシナリオをA3サイズで打ち出し、9セット
今朝日本郵船に届けたとのこと。
ばらばらに上がり次第送ったうえに、ところどころ前戻りの修正を入れたから
昨日の渡辺は正吾から未明二時まで14時間、
印刷工のような時間を過ごしたらしい。
朝の七時には横浜に向かったというから
ほとんど寝てもいないのだろう。
それでも南蛮屋で忘れずにモカマタリを買ってきたのは見上げたものである。

博物館のシナリオ第一稿を書き上げたのが12月25日。提出は26日。
第二稿は一月十三日。提出は十四日。
第三稿がきのう、二月十二日。提出が十三日。

カゼでダウンしたとはいいながら、まず順調に経過している。

展示演出との兼ね合いもあり、この仕事のキモはシナリオ段階。
イメージはほぼ過半をつかみきれたという思いがある。
あとはひたすらカタチにするだけだ。
一瀉千里で突っ走れるはず。

いよいよ、ようそろである。
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博物館とBesame Mucho
郵船、エピソード8までアップ。
オフィスに送信。
残りはエピソード9のみ。

ここまでほぼ半分につめた。
7分から3分強に。けっこうしんどい。

ずっと菱沼さんのBesame Muchoコレクションをかけいる。
三世紀に渡る歴史博物館にBesame Muchoが流れていたら
こりゃ話題になるだろう。
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《スペンサーヴィル》上下巻★★★★★
ネルソン・デミル著/文芸春秋刊

前に読んだのかどうかはっきりしないままに読みはじめ、最後まで。面白かった。
途中でページを折った跡があったのに、
まったく新鮮な気分で読めてしまった。まいるな。

デミルはしかしデビュー作の《誓約》から一作ごとに大胆に作風が変わる。
たいしたものである。
忘れていたことはさておき。
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郵船、2本アップ。まず順調
郵船のシナリオ2件アップ。
オフィスの渡辺に送信。
これで、明日残りの2つを書けばOK。
思ったよりもはかどった。

ゆうべは三週間ぶりに、ひどい寝汗をかかなかった。
少し動くと、どっと疲れはするが
ヤマを越えたような気がする。
しかし、長かったな。
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郵船とJR
日清戦争の西京丸の錦絵を「世界にひらく」に追加。
「戦争と壊滅」を仕上げ、オフィスに送る。
いよいよ「国旗なき復活」。

服部さんからJRのエンディングのコンテ4点届く。いい出来だった。

春のような雨。
体は、すこしラクに。
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声涙鯛という生命体が生きているのだろうか
5エピローグ《予兆》の映像展開
5-2.新日本原動力図解/7000万人《1時間圏=都市》の誕生CGのブロック、最後の行から5行目
「巨大な物体は声涙鯛のように変容しながら球体状に変容。」
声涙鯛→生命体
誤変換です。
原稿の修正をお願いします。

つーメールが同報で渡辺から届いた。
原稿をチェックしたら、たしかに「声涙鯛」とあった。
ぼくはひらがな入力。キーボードを眺めると
「め」の左に「る」がある。
「せいめいたい」ではなく「せいるいたい」と打ったらしい。
で、試しに打ったら「声涙鯛」
なるほど納得。
声が泣き声のように聞こえる鯛。

ま、こんなのがあってもいいじゃねえか、とも思ったが。

積水ハウスのナレーション原稿アップ。

一眠りしたら、日本郵船のシナリオに。

とにかく疲れる。
水の底で生きているようだ。
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リニアアップ。
リニアのエンディングを書き、松谷さんに送る。
休憩したら積水ハウスのナレーション。
夜になっても春のようだ。
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一ヶ月ぶりにトータルメディアに
積水ハウスの編集、16時間かかる。
ぼーっとしてただいただけだが、微熱。
途中、JRの件でロビーでコンテ打合せと
郵船の音楽の件で井口さんとの打ち合わせをはさむ。

今日は3時から麹町のトータルメディア。
一ヶ月ぶりに穴澤さんと。
みっちり3時間、メインとサブの展開をつめる。
水曜までにメインの第3稿を郵船に渡し
木曜に資料館サイドで検討。
金曜に戻しのミーティングの予定。
戻しを受け、ノンリニアで荒編に入る。
サブのカバームービーは週末にまわす。

今夜は飯を食ったら
1.JRのエンディング
2.積水ハウスのナレーション原稿を予定

微熱、下がらず。
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よおそろ
予定通り10時に起き、ポンパドールの10時焼き上がりのパンで朝飯。50℃のシャワーと濃いモカマタリで完璧に目が覚めた。窓を20分全開。これからエピローグ。予定3時間。よおそろ。
外は、しかし春だな。
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バカで賢い
エピソード3[世界にひらく]を4分弱に短縮。
残りは終末にまわし、今夜はここまで。
明日はリニアのエピローグのプランを書いて
夕方、八重洲に。イメージがずいぶんと明快になってきた。もうちょっとなのだと思う。

川田君のハワイ土産の岩絵シートから3枚選んで
モニターに貼る。象形文字とトンパ文字が一緒になったようでおもしろい。
あのときワイキキの夜店で買った岩絵は
「バカで賢い」というタイトルだった。

バカで賢いと、いいなと思う。
そう生きられたらいい。

土曜日は久しぶりにスタジオ。
積水ハウスの編集仕上げ。
だいぶのばしてもらったので這ってでも行かねば。

明日起きたら、すっとリニアのエピローグが書けるように祈りながら寝ることにする。
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汗もかかずに
徹夜の反動で午後は2回、2時間ずつ昼寝した。
この三週間ではじめて寝汗をかかなかった。
咳はまだ出るが、寝るたびの寝汗はひどく疲れるので
汗のない眠りがこんなに気分のいいものだと
あらためて思う。

なんとか峠をこしたかな。
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春のような
昨日は、熱がぶり返したこともあって、予定外の小説を読んで一日が過ぎた。
けっきょく朝の三時から八時まで日本郵船のシナリオにかかる。
思いきりよく刈り込み、なんとか予定した長さに近づける。
「日本をひらく」と「誕生秘話」の2タイトルを仕上げ、
PDFにして関係各位に送信。

それからJR東海に。
寒さが残るという予報だったが
春のようなまぶしさで気分が晴れた。

エピローグについて打合せ。
800インチのスクリーンで伝える「こころざし」について。
難しいが、美しいハードルだな、と思う。
明日夕までに書くことに。
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《獅子の棲む国》★★★★
秋山香乃著/文芸社刊

明治元年の鶴ヶ城落城から西南の役の十年を生きのびた
会津藩の軍事参謀山川大蔵(浩)を主人公に、有為転変の一冊。
はじめて読む作家で、一昨日、ふと手に取った。
小説としては煮え切らない下手さがありながら、
執拗さにはうたれた。

早乙女の会津士魂を味読なので、史実なのかどうかも知らずに読み進んだが、
それにしても津軽の僻地への移封のあたりは
涙なしには読めなかった。
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立春大鉈。
ゆうがたオフィスで久しぶりに佐藤さんと会うことになった。
CG2000以来だから二年ぶりか。
日本郵船のリサーチの追い込みとコーディネートを頼むことになった。
第二次大戦のライブラリー、シアトルの情報など想像以上に難儀しているので、テコ入れ。
ふりかえればポスターズ、CG2000と彼との仕事は
いずれも凸版印刷がらみ。
彼が入れば遅れも一気に取り戻せるだろう。

今日は、メインエピソードのシナリオに大鉈。
ざっくり半分以下に切っていく。増やすのはコトだが、詰めるのはしかしあっけないほどラクだ。
タコの足喰いみたいな気がすこしあるが、ま、さっさとやろう。
真夏から書き継いできた原稿を立春にぶった切るというのも
なんだか悪くない。

東京、雪の予報あり。
ひどい寝汗、まだつづいている。
感度の良すぎる女のようで、目覚めるたびに照れくさい。
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iMovie3
ゆうべというか未明にiMovie3をダウンロード。
試しにちょっとだけと思い使いはじめておどろいた。
アップルのilife、なるほどこんなふうになっていくのかと納得。
itunesもiphotoもすべてiMovie3に完全リンクしていて、なんのストレスもなしで自在に使い回せる。
ただ、G4/500のカードでは動作が鈍い。
ま、これはデュアルで解決だろうけど。

それにしても無料のアプリケーションで
ここまでできたらただただスゴイとしか言いようがない。

プレショーのプレムービーを5分ほどつないでみた。おもしろかった。
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雑感2.3
86年のチャレンジャーを見たのは一月の金沢の市場だった。寒ブリの捌きを撮影するために地元の板前たちと市場の中の寿司屋で打ち合わせていたときに、目に飛び込んできた。
昨日は、放送50周年だったのでなんとなく一日中NHKをつけっぱなしにしてサブエピソードを書いていた。
くぎ付けになりながら、なんだかいろいろなことが終わるのだろうなと思った。
9.11のときに感じなかった終末感のようなものにとらわれた。
JRのシノプシスを書きながら今日は、ずっとその思いが離れなかった。
たぶん「巨大技術」がコストセーブで滅んでいくことがいたたまれなかったのだと思う。


経済が行き詰まって、身の回りをふり返ると、信じがたい情けなさに満ちていることを痛感する。

家電もクルマもあらゆる製品がチープで愛せないものになっている。
雑巾をしぼるように節約するなどと一兆円も利益をあげるメーカーが真顔で語り、みんなが平気でうなずいている不気味さ。
そのあたりで買ってきた菓子の袋の封が切りにくくなっているので良く見ると、切り込みを入れていないことに気づかされ、こんな工程ひとつはしょってどんな儲けが欲しいのかと暗澹とさせられることも多い。

なんだかなあ。つまらねえよなあ。
これでも立春。
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カバームービー概要メモ2.3
サブエピソードのタイトル+カバームービー 2003.02.03

1.航海技術を学ぶ
「はじめに人ありき」
東京商船学校の母体となった三菱商船学校
明治8年、大久保内務卿の海運三策により、日本海運育成のための政府保護が決まったが、同時に商船学校を設立し海員の養成を行うことなどの義務も課せられた。当時の三菱会社は東京、横浜、大阪、神戸、長崎、函館、高知、四日市、馬関(下関)、上海に支社が置かれ、40隻近い汽船を擁し、乗組員は総数1000人を超えていた。
そして大半の船では、船長をはじめ一・二等士官、一・二等機関方などの高級船員を外国人が占め、彼らの高い賃金が経営を圧迫し、日本人高級船員の養成が急務の一つだった。政府の命により、霊岸島に係留した成妙丸を校舎にあて、三菱商船学校を開設。遠洋航路に乗った最初の日本人船長は明治29年ボンベイ航路の島津五三郎。明治34年には米国航路に、39年には欧州航路に初めての日本人船長が登用された。大正9年には、最後の外国人船長が下船している。
三菱商船学校は後の東京商船学校となり、日本の海運界の礎石となった。


2.欧州航路開設
「地球横断第一船の名は、土佐丸」
欧州航路を開く
世界の銀座通りと称された欧州航路の第一船となった土佐丸は、イギリスで明治25年に建造され、旧名は「イスラム」。日清戦争直前に購入され、当時の日本船としては最大のものだった。「日章旗が地球横断のときこそ」と弥太郎が語った夢の最初の実現を祝い、弥太郎ゆかりの「土佐丸」と名付けられた。
日章旗を船尾に、二引の旗をマストに掲げた土佐丸は、明治29年3月15日に横浜を出港し、神戸、下関、香港、コロンボ、ボンベイ、ポートサイド、ロンドンを経由し、アントワープに錨を下ろした。日本船として初めてテームズ河を遡上しロンドンに着いた時には、大歓迎を受け、NYKの3文字は一躍有力船会社として知られることになった。さらに翌年から寄港地とした無名の給炭港ミドルスプローは、日本郵船の定期寄港、鉄鉱石鉱脈の発見などが相まって、近代的商港へと急発展していく。その後、世界の寄港地との間で培われた相互関係の原型がここにあった。


3.北米航路開設
「その街の父は大北鉄道。母は日本郵船」
北米航路を開く
欧州に続き北米航路をひらくにあたって日本郵船は、既存の船会社とは異なる選択をする。当時の太平洋航路はサンフランシスコに寄港し、大陸横断鉄道で一気にニューヨークと結ぶ「海陸-一貫輸送システム」が主流だった。後発として競争力を発揮するために日本郵船が選んだのは、航路を一日余り短縮できるシアトルだった。シアトルとニューヨークを最短距離で結ぶ大北鉄道と語らい北米航路の拠点を、人口6000人の無名の小さな港町シアトルとした。第1船となったのは三池丸。市民たちは仕事を休んで岸壁に集まり、大歓迎をした。太平洋と大陸の二つの最短距離が繋がることで、「早く、安く」という輸送の原点を武器に、シアトルはバンクーバー、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどと並ぶ米国太平洋岸有数の大都市に発展する。その後、大北鉄道は「シアトルの父」、日本郵船は「シアトルの母」と市民たちに並び称されることになった。


4.世界一周航路開設
「パナマ運河完成4ヶ月後に日本船第一船通過」
世界一周航路を開く
創業以来の悲願「世界一周航路」を実現したのは大正3年暮れだった。カリブ海と太平洋を結ぶ全長81.6kmのパナマ運河が開通してからわずか4ヶ月後に、欧州航路臨時船・徳島丸が日本船として初めて運河を通過。日本郵船の世界一周第1船となった。急成長する米国経済の中心地ニューヨークとの直通貿易を、東航ニューヨーク航路として実現。さらに東部の商工地帯へと航路を広げていった。また、スエズ運河、パナマ運河の両運河を用い、世界各地に航路を延ばしていく。



5.造船技術の確立
「造船技術も自前であるべしの大英断」
横浜船渠と三菱長崎造船所
日本郵船の海外定期航路拡張への取り組みと、700トン以上の船の建造者に奨励金を交付するという造船奨励法の発布とがあいまって、立ち後れていた国内の造船業界は一気に強固なものとなっていく。それまでのレベルとはまったく次元の異なる世界標準となる優秀船建造に挑んだ三菱長崎造船所の取り組みは明治31年の[常陸丸]となって結晶する。年間100隻以上の外国優秀船が航行する欧州航路に船出したメイド・イン・ジャパン第一号の常陸丸の雄姿は、海運国日本の造船技術の優秀性を強くアピールした。また、三菱製鉄所-日本郵船横浜鉄工所を経た横浜船渠会社も、この時期に造船能力を飛躍的に向上させている。豪華客船時代を彩った秩父丸、氷川丸、日枝丸なども横浜船渠で建造された。世界航路への挑戦は、日本の海運力と同時に、遅れがちだった造船技術にとっても、文字通り巨大なジャンピングボードとなった。


6.日露戦争と日本郵船
「天気晴朗ナレドモ波高シは信濃丸の発見から」
外国船社との友好関係を元に戦時下の世界航路を維持
「東郷ビール」として愛されたこのビールは日露戦争後にフィンランドでつくられた。ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、フィンランド独立の発端をつくった東郷元帥に感謝をこめてつくられた当時の「地ビール」である。この日露戦争の火ぶたを切って落としたのが実は日本郵船のシアトル航路就航船・信濃丸だった。海軍の仮装巡洋艦として徴用された信濃丸は、明治38年5月27日の早暁、長崎県五島白瀬付近を哨戒中、東の水平線上に大艦隊の船影を発見。「敵艦見ゆ」「敵は対馬東水道を通過せんとするものの如し」と打電。この信濃丸の発した一通の電文が、後世に知られる東郷平八郎連合艦隊司令長官の大本営への開戦報告となった。いわく「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」である。
日本郵船は日露戦争下、大型の外航船の大半を徴用され信濃丸に見るようなエピソードを残したが、その間の定期航路は、それまでの外国船社との友好関係を元に協力を依頼。他の多くの不定期船市場が開戦と同時に運賃を上げたにも関わらず、4つの定期航路の運賃を可能なかぎり戦前の水準で維持した。


7.第1次大戦下
「利ではなく船会社として名誉を賭けた」
奉公心と犠牲的精神で維持した第一次大戦下の欧州航路
大正3年に勃発した第一次世界大戦下の日本は、参戦しながら戦局の中心から遠く離れている利点を活かし、未曾有の戦争景気となった。とりわけ戦時用船による世界的な船舶不足にともなう海運・造船界の好況ぶりはすさまじく、船成金という言葉が生まれるほどだった。しかしこの戦争景気は日本郵船にとっては無縁のものだった。国を代表する定期船会社として、危険も利益も度外視し、さまざまな被害を被りなが゜らも、欧州航路を維持した。日本海運発展史に、このときの日本郵船の姿が「まったく会社の奉公心と乗組員の犠牲的精神から発した長期連続の冒険航海として、日本海運史上に特筆されるべき功績」と記されている。
また、英国西海岸最大の貿易港として世界の船会社の憧れの港だったリバプールは、それまでブルーファンネル社が一社で独占していたが、戦時徴用による船腹不足のため、日本郵船に寄港の申し入れがあった。このとき、社長近藤廉平の指示で英国政府から日本政府への正式依頼という形をとったことが、大戦後のリバプール配船に引き継がれていくことになる。


8.第二次世界大戦
「5312人。172隻」
第二次世界大戦の戦争被害
照国丸/横浜丸/龍田丸/諏訪丸/対馬丸/能登丸/阿波丸/全船
の8タイトルチャプターメニュー表示をカバーストーリーに換える






9.復興
「インディラは平和の使者となった」
内外航路の回復
日章旗を下ろし、社旗をたたみ、SCAJAPの旗と番号の元での運行を強いられた占領下にあって、その後の復興を予感させるようなエピソードがあった。昭和24年に、インドのネール首相から平和のシンボルとして贈られることになった象のインディラの輸送である。輸送を担ったのは日本郵船の延長丸。壊滅的な戦争被災からはい上がるようにして復興に取り組んでいた日本国民に、平和の使者インディラの話題は明るい兆しと元気の源となった。インディラと前後するように、内航用新造船第1船・舞子丸が昭和23年に竣工。外航用新造船第1船・平安丸が昭和26年に竣工され、内外航路ともに復興への道筋が明らかになっていく。


10.専用船
「高度成長を支えた船」
さまざまな専用船
タンカー/重量貨物運搬船/パルプ専用船/チップキャリアー/鉄鉱石専用船/LPG
の6タイトルチャプターメニュー表示をカバーストーリーに換える。
なお各タイトルはそれぞれムービーコンテンツで展開する。


11.コンテナリゼーション
「世界を変えたコンテナ革命」
海陸一貫輸送システム
コンテナは昔から海上輸送で、壊れやすい荷物、傷つきやすいものなど「特別の荷物」を運ぶ手段として使われていた。ほとんど「すべての荷物」をコンテナ詰めし、高能率だが距離に比例し輸送コストがかさむ超大型トレーラーと海上輸送を組み合わせることで、「ドアツードア」の海陸一貫輸送システムが実現した。標準化と中抜きを二大ポイントとするコンテナリゼーションは、今日のIT革命のもたらす社会的インパクトに似て、流通と積み荷の構造を革命しながら、世界の輸送システムを一気に変容させていった。日本郵船ははやくからコンテナリゼーションに着目し、昭和43年竣工の第1船・箱根丸など、日本のコンテナ化に先鞭をつけた。


12.進化と効率化
「より大きくより速くより効率的に」
船の進化と効率化
大型化/高速化/省エネ化/PCC/LNG
の5タイトルチャプターメニュー表示をカバーストーリーに換える。
なお各タイトルはそれぞれムービーコンテンツで展開する。


12.NYK21
企画展終了後に整備


13.海洋レジャーの紹介
「日本郵船のエキスを注いだ飛鳥」
新世紀の海洋レジャーを担って
外航クルーズ船《飛鳥》は、日本郵船の基本設計、三菱重工業長崎造船所が詳細設計に展開・建造した日本籍最大の客船として1991年秋に就航した。濃い群青色の太いラインと細い金色のラインが純白の船体を引き締め、煙突にはあざやかな赤い二本の線「二引」のファンネルマーク。日本を中心に、東南アジア、オセアニアを日本郵船ならではのアメニティに満ちたサービスを提供しながらクルーズする《飛鳥》は、モノよりサービスの《スローモード》時代にベストマッチした新しい海洋レジャースタイルとして、その存在感をますます強めつつある。社内に脈々と流れていた客船への想いが、再び現実となった。
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サブエピソードの後半はベサメ・ムーチョコレクションで
咳が減ってきたが、寝るとひどい汗をかく。
汗というか体中の水分が細胞から染み出していくというか
滝のような汗で、Tシャツもパジャマもしぼると雑巾のようになっている。
体重計で測ってみたくなるほどのあっぱれぶりで
脱水症状を起こしているのではないかとやや不安。
15時間くらいそんなふうにして眠った。

なんとか夕方はい出してぬるめの風呂に入り
さらに発汗をうながす。
日本郵船のサブエピソードのカバーストーリーの残りにとりかかる。

頭の底の方に沈んでいた「お勉強」の名残がやっと引き上げられ
まともな位置に配置され直していくのが手に取るようにわかる。
3週間は、しかし永かった。

少し電話で話しただけでげっそり疲れ息切れするほどだ。
さっきも勧誘に来た新聞屋相手に大声をちょっと出しただけで、ドアを閉めてから5分も立ち上がれなかった。
気が萎えて、あやうくハンコを捺してしまいそうなほど
体から力が消えている。あせる。

今夜の同伴は
菱沼さんのベサメ・ムーチョコレクション。
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