2001年08月の記事


とりあえず、このページは今夜までで店じまい。
寝不足だったがなんとか起きた。朝まで興奮をつづけたのがたたったのか、カゼのせいか吐き気がとまらず。熱めのシャワーでなんとか目をさまし、出かけた。湿気。雨が近いのか、気分のせいか駅まで歩いただけでくらくらした。


《メトロポリスのマリア》のポスターを見たいという知人を案内がてら、もう一度みるために印刷博物館へ。このあいだは気づかなかったが、展示コーナーの一角で「戦艦ポチョムキン」と「メトロポリス」を交互上映しているのを知人が発見。しばらく「メトロポリス」を眺めた。映像の内容にはまったく記憶なし。勘違いだったと判明。ミュージアムショップでビデオがあったので買った。あれだけ探したが、あっさり見つかったので拍子抜け。


おれは、ほんとうに脱出できたようだ。
一日が経過しても、ゆるぎなし。

これからたっぷりと眠ったら、
明日からはいよいよリハビリにとりかかる。
まず空っぽになった脳のすみずみに栄養を行き渡らせたい。
眠る以外のすべての時間を、そのことに注ぐ。
オフィスの整理も、ほぼ渡辺君がすませてくれたことだし、ひとつ修行の行者となろう。
とりあえず、ここに書くことはこれでおしまい。メドがつくまで、書くこともない。
三日か一週間か一ヶ月か一年か。
湯治部diaryをしばし店じまいとする。
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8.26午前6時、ついに闇しばりを解いたぞ。
プロローグの月の出を確かめたくて《光の日本》を見直す。けっきょく、最後まで見てしまった。
作り直すことは可能でも、上回ることはムリだなと痛感した。やれるとしたら、山下亜美の朗読を録りなおすていどだ。しかし、それすらも不要な気がする。
これはいったい誰に向けて見せたかった作品なのか。果たしそこなったいくつかの苦い記憶に向けたものなのか、直後にかき消えた賢明さんをあらかじめ追慕したものとしてか。
あるいは十年後の現在に向けたものなのか。
少なくともプロローグの月とエピローグの落日の計10分はパーフェクトだ。

ずっと「風のササヤンカ村」がベストだと考えてきた。見直してみて、《光》の10分こそ、つくりたかったことだったのだと、あらためて思い知らされた。

ここにあるのは、どうみても、いま現在のおれ自身。素材がベーカムかHDかの違いのほかに、何の異なりがあるのか。

これを、どう見るのだろうか。
やはり慟哭するのではないだろうか。
あの湯の花の月の光をここに据え代えたとしたら、それはどんな想いを、
そしてはじまりを告げることになるのか。
すべてが、いま現在のためにあったとすれば、混迷も放念も得心がいくのだ。
真崎の源氏の1カットもしかりである。
おれはなぜあの1コマに10年間も魅かれ続けたのか。
おなじことなのだ。

さだめられたものがあるとすれば、
この混迷こそが、我が運命。

ちと大げさな気もするとはいえ、朝まで起きていた勢いもある。ここらで見据えないことには、立ち直れそうもない。



見切った。
8月26日午前6時ジャスト。
すべてを受け入れることで、落着。
一切の迷いを捨てた。
これでおれの21世紀の幕も開けられる。



闇しばりからの脱出。
おまえは偉い! そう記しておく。


四六時中、以上の時間があるとすれば、それこそが我が《時間》。その《時間》のすべてを注ぎたい。呵々大笑の夜明けである。
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GIOVANNI MIRABASSIの「MY REVOLUTION」
蜷川の「近松心中物語/それは恋」をまた見る。しかし、なんつう凄さなのか。鳥肌が立つ。
東宝は、どうしてこういう国宝級のものをDVDにせずに放置して置けるのだろうか。

花魁登場、身請けの場に目が行っていたが、あらためて終幕の心中の場に目を奪われた。十三分間降り続く雪にではなく、躊躇の末に首締めるその瞬間の凄絶な美しさにまいった。
舞台中継記録のカメラワークに常につきまとう無残なカット割りがここでも目につくが、そういう瑣末なことをすべて放棄させるだけの弩迫力が胸に迫る。

十年余りを経て、そのころに強く魅かれたほとんどの作品が色あせてしまっていることを、この一ヶ月で確認したが、蜷川の「近松」は微動だにしない。世界水準ということはこういうことなのだなとしみじみ。

とはいえこの方向に、我がすすむべき道はない。ここではおれは至福の観客にすぎない。

紀伊国屋に行き、マックの雑誌を数冊買い、近くの喫茶店に。週末の同伴で国際色豊かな店の隅に腰を落ち着け二時間過ごす。
夕べから朝にかけてフレンズの一気ONAIRを4時間かけて見ていたら朝の七時過ぎになった。それから昼過ぎまで眠る。

すこし風邪気味。

オフィスに寄る。
照明工事が終わったので、渡辺君がマックの配線チェック、デスクの移動などをしているのを横目に、ピアノソロをかける。
窓の外には低い位置に月。七日目あたりか。眺めていてもなんの感興も湧かず。
ああ、月じゃねえか。で終わり。
三週間前に満月を撮って狂喜したことが嘘のようだ。

数日前に見直した「光の日本」の巻頭に引用していた福島さんの歌。

  《万物は冬になだれていくがいい追憶にのみいまはいるのだ》

が唐突に浮かぶ。あのあとでおれは立原道造の「おぼえていたら帰りたい」を呼応するように山下亜美の声で置いた。

そして五分間の月の出だけでプロローグとした。どうしてあんな芸当ができたのか、見当もつかない。同じ条件を提示されても、いまのおれならいくつものシーンにしてしまうだろう。まずまちがいない。周囲の沈黙に耐えるだけのこらえ性がなくなっているのだ。顔色を見て、ラクなほうに流れ、お疲れさん!とするだろう。
それで周囲はホッとし、満足を得る。おれにはギャラが振り込まれ、砂を噛んだような味気なさに数日間ひたり、そしてきれいにそのことを忘れ去る。その連続だった。
だからどうということもないのだが。

仕事という名のレベルメーターのようなものがおれの体のどこかにぶら下がっているとしたら、その針はあるいはデジタル数字はまちがいなくエンプティ。限りなくゼロに近いはず。

こういう意識でおのれを振り返ったことがない。ここからどうなっていくのか、不安もなく、希望もなく、ひたすら考えるのが面倒だ。
何もかも放り出したい、と思ったが、考えてみれば二ヶ月もすべてを放り出したまま。いまさら放るべきものもない。

秋風と鈴虫。
ここから暮れていくしかないのだろうか。
今夜は、ため息すら出ない。

さっきからリピートしているのは《AVANTI!》GIOVANNI MIRABASSIのPIANO SOLOの15番目の曲。
そのタイトルは「MY REVOLUTION」

混迷の21世紀夏を記憶にとどめるための一枚。そして一曲。


体調なのか、気分なのか、
今夜はすべてが気だるく、何もかもどうでもいい思いが深い。
飯でも食いに行くか。
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苛立ちの行く先
満月のすごい月の出を撮った五日の血の騒ぎも、十年も前のできごとのように遠い。コスモスの群生もオニヤンマのふ化もブラックアイも何もかもが遠い。あれほど気に入っていた湯の花の空気すら遠い。
むじなの森の風も光も夕日も虹もカナカナも嵐も、ジ・アースの美しさも、花の道の明かりも、ゴンドラの揺れも遠い。
あの場所で出会い思いを深めあった人たちの顔も今日はさだかな像を結ばない。結べない。
結べないことに哀しみも喪失感も沸かないことに気づき、がく然としている。
この二ヶ月はいったい何だったのか。
あの焦熱感といてもたってもいられない高ぶりとは何だったのか。

焔は燃え尽きる寸前にひときわ激しく燃える瞬間があるという。実際にそんなことがあるのかどうか確かめたこともないが、近いイメージなのか。

水の惑星がどれほどのものであったかはともあれ、何かにピリオドを打つとしたら、案外似合った中身でもあったのか。

わからねえな。
憂愁にしちゃ、いささかしつこすぎるし永すぎるのだ。
気がつくと無精ヒゲを剃る気力すらもない。このままのばしてりゃ、どこにも行けずにすむかな、なんてつまらねえことも浮かぶ。

街に出て、出合い頭の武闘でもしてみるか。若いやつに袋にされて一ヶ月も入院してみれば気も晴れるのか。

わからねえ。
くそったれ。
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照明かえるように人生も変えたいが。
午後からオフィス。
照明の工事。モニターへの蛍光灯の映り込みがきついのですべてスポットに変えることにした。まだ残暑がきつそうではあるが、明かりの色だけは一足先に秋になる。

工事のドリル音と例のピアノソロのCDとがセッションをしているようで、なかなかのにぎわいである。

仕事の動きは、来週あたりからとなりそうだ。さて耐えられるだろうか。週末の気分としては、まったくやる気なし。みごとなまでに仕事をしたいという意志も意欲も欠落している。どうしてあれほどひとときの中断もなく走ってこれたのか、あきもせずひたむきさを維持してこれたのか、奇妙ですらある。
その昔、資生堂を担当していた杉山登志が自殺したことを唐突に思いだした。杉山さんはピークのほんの少し先で死を選んだ。評価的には絶頂にあったがクリエイターとしては先が見えていたのだと思う。あの頃はつまらねえ死に方だなと鼻で笑っていたが、いまなら笑ってばかりもいられない。
天下の杉山さんと比べる気はいささかもないのだが、限界点には来たな、そんな思いが強いのだ。

おれの限界高度がいま現在だとしたら、
おれはさらに高みを望もうとしているのか、それはがんばれば行きつける場所であるのか、行きつきたいとほんとうに望んでいるのか、そのあたりが皆目不明。

この夏は、いろいろな意味で混迷の夏となった。これが正念場なのか。
いつもとはほんの少し異なる場所と異なる方法論に出会ったことからくるひとときの迷いなのか。
その見極めが、ひと月を経てもまだつかずにいる。
フリーランスの看板をあげているかぎり、これは完全に敗者である。
自分の中で何かが切れてしまい、あるいは尽きてしまい、なすすべもなくなったことを認める気になれずに、別な思いに逃げたのではないのか、そんな思いがある。
それが「むじなの森」と称していつまでも煮えきらずに引きずり続けた「水の惑星ジ・アース」の殿戦ではなかったのか。
むりやり意味を見つけ、強引に価値をつくりだし、見せかけの戦場を心のうちに構築することで、自分の限界を認識すべき時機を後送りにしてきただけではないのか。
あれもこれも、あの森で生起したすべてのことは、ただ己の弱さに、限界に向き合うことを避けるための方便ではなかったのか。

夜ふけの公園で、浮浪の人たちと並んでベンチに座りとりとめもないおしゃべりに興じながら、なんの違和も感じないことにおどろきもせず半月が過ぎていく。

試みたい方法が見えない。チャレンジしてみたい世界も見えない。昨日の続きに今日と明日をつなげるというコンティニューになんの信頼も愛も感じられない。
子をなさなかったことに因があるのだろうか。46億年の奇蹟の果てにいまがあるとしても、おれはその継続をまったく受け入れていないことにがく然とさせられる。
こんな思いにたどり着かされるために、あの二年あまりの仕事はあったのだろうか。
それとも水の惑星の仕事とはまったく関わりなしにこの限界は訪れていてそのことに気づかなかっただけなのか。


オフィスの照明をチェンジするように
おれの人生もチェンジできたらなどとバカげた思いもよぎっていく。

これが、負けるということなのか。
萎えるということなのか。



けっこうやばいところにまできているのだな、とあらためて実感する。
もう逃げていく場所もない。
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台風一過。
10MBのブロードバンドを体験。あまりの速さにおどろいた。1.5MBのADSLで十分に速いと思ってきたのが目が点になった。
どう比喩すればあたっているのだろうか。これはまったく異質な世界だと思う。
情報のやりとりやコミュニケーションのスタイル、意味が一変していく可能性があるなと強く実感。スピードは対象となる世界を飛躍的に拡大する。拡大された世界は、それまでの自分の生活感覚を根底から革新する。
これはまさしくBB革命。

台風一過でいっきに秋にすすむかと思ったが、東京の今日はアブラゼミの天下。
オフィスで窓を開け、エアコンをつけていると、ちょうどいい。

むじなの森も大きな被害はなかったと聞いた。あるいはようすをとも思ったが、ま、日ごとに遠くなっていく。

この一週間ほど、渡辺がジ・アースの記録ビデオを手がけながら、オフィスの改造をすすめている。昨夜でほぼ先が見えた。このところおれもオフィスで長い時間を過ごすようになった。あとは照明の工事を待つのみ。

いや、けだるい。
ここちよく、南の島でハンモックに揺られて眠っているような気分。
やっと、次へすすむことができそうだ。
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八月の濡れた砂を聴いた。
暗がり。木立の下に落ちる水銀灯の灯。
銀座で買った文庫本を読みながら、高校生のようではあるなと、おかしかった。
ああいう時間はなぜ苦にならないのか。
せっぱ詰まった仕事が目の前にないだけでこんなに違うものなのか。
夜の灯も、通り過ぎる人も、それぞれくっきりとイメージに定着する。
いつも見てはいないのだと気づく。気づかされる。
夜風が気持ち良く、読むのをやめて通りを何度か往復した。
いままではなんの興味もなかった光景が、にわかに人懐こいやさしげな印象にスイッチされる。デジャヴ。ありえない。
神楽坂へ。街が変わったようにも見えたが、相変わらず落ち着く場所ではあった。
時間が過ぎるのが速い。閉店時間を過ぎているのに声もかけずに放っておいてくれるコーヒー店というのも、この街らしいなと納得しながら帰宅。湾岸を走りながらスタンバイを解除した。今日になって後悔したが、ま、そんなものだろう。
現地のスタッフからのメールで台風の備えにはいった、と。
ふいに、ジ・アース館が風で飛ばされていくイメージを思い浮かべた。それも悪かねえな、そう思った。
醒めるにしても、はやすぎるかな、とも思ったが、やむをえまい。

日暮れから、オフィスに。
須賀川に様子を見に行くか、とちらっと考えたが、明日が車検のリミットだと渡辺が言うので、捨てた。

東京に大雨洪水警報が発令された。
警報はひさしぶりだ。心ひかれる響きではあるが、どうということもない。

石川セリを取り出して「八月の濡れた砂」をじつに数年ぶりでかけた。くりかえし聴く。
雨のせいで湿気におしつぶされそうな空気である。
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Deep forestをエンディングに決めた
むじなの森戦記・外伝1「森のひと」のエンディング2分ほどにのせる音楽をDEEP FORESTのアルバム「アフリカン・コーリング」ノ第1曲目「Deep forest」に決める。あててみるとなかなかはまっている。考えてみれば46億年のラストはアフリカのルーシー。おざなりなチョイスと思わぬでもないが、ま、決まればこれでいい。
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「ヘカテ」★★
一日、蟄居していた。
というよりも午後3時まで熟睡。
熱いシャワーと朝兼昼食で目も身体も覚めた。
未明に数日前から用意しておいたシュミットの「ヘカテ」を見はじめたが10分でやめた。うっとおしいつくりだったのだと、今ごろになって気づく。
ルルーシュの「男と女2」といいシュミットといい、時代のあだ花のようなものは、時間が耐えられないのだと実感。あれほど熱意をこめて観たにもかかわらず異星の映画のようである。

心を魅了する仕事が目の前にあれば、この混迷も抜け出せるのだとは思うが、予定に入っているのはすべて秋から来春にかけて。

誰かおれを買ってはくれぬか。
このまでは細胞の隅々までぬるま湯でうめつくされそうだ。
リハビリなしで仕事に向かえるように、気の利いた話のひとつ、ころがってこねえかな。

一日蟄居、と意味もないことを課してはみたが、近くの学校のチャイムが聞えてきたら急にばからしくなってきた。
よって開門。オフィスにでも行くか。
いよいよ水商売の時間帯になってきた。
放っておくと、またぞろ無頼な暮らしに転げ落ちそうな予感もある。
体力も落ちたいま、それもきついだろうが。
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蟄居の一日。
いろいろ齟齬があり、月曜日一日を蟄居閉門となった。一日で解ければいいが。

とんかつ喰ったのがまずかった。
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神田のとんかつ専門店「丸五」にびっくり。
メトロポリスを探しがてら秋葉原に。日が暮れると寒いほどの風が吹いていた。ヤマギワ前の稲荷神社のところにあるとんかつ屋の灯がやけにうまそうだったので、ふらりと入る。ロースかつ定食を注文。待たされたがうまかった。近ごろあんなにこなれた味の豚肉を食べたことがない。店の名は「丸五」。花丸の味だった。

メトロポリスは絶版のため入手できず。明日、版元をあたってみることにした。

連絡があったら東京駅で迎えようかと漠然と考えてのことだったが、ま、こんなもの。いや満腹であります。
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真崎の朧月夜の君のこと
十年前になるか。三菱電機の三部作を仕上げたときに、台本最終稿のラストページに真崎の源氏物語の一コマ、桜吹雪の下で光源氏が扇をシャッ!と開く絵があり、それをコピーして添えたことがあった。

そのことを思いだし、昨夜オフィスで「仮弔封血」を探した。持ち帰って明け方読んだ。70Pにその一コマがあった。「花の宴」で光源氏が「朧月夜の君」と名付けた女と一夜を過ごしたその帰りの一コマとして、真崎は描いていた。

三部作で終わりだなとという諦観と、やるだけやったなという達成感とが、この一枚の絵を選ばせたのだと思う。

仕事の終わりは、いつもこんな気分でありたいと、ふと思いかえし、探した。いま眺めていても、いい一枚だと感じる。

これが縁だな。
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偶然の恋人★★
窓を開けると、寒い。
気がついたこと。肩書きがとれていた。

一昨日借りたビデオを見た。
可も不可もなし。ありがちなハリウッド。

樋澤さんのメールによれば、
「メトロポリスのマリア」のポスターは訪れたグラフィック関係者たちの多くを絶句させているらしい。
「あの強さは何だろう」とあったが、まったく同感だ。目の前に現れた瞬間に魂を奪われたことを思いだす。
ビデオかレーザーディスクで買っておいた記憶があったので昨夜から探し続けたが見つからず。それにしてもLDを背文字だけでチェックするというのはバカらしい行為だった。ひどく目が疲れた。

真崎の源氏物語をオフィスから持ち帰ったので、これから眺めることに。

あずけていいか?
はじめて知った言い方。

ろくでなしという名の小説を読んでいるときに、ろくでなしだな、と言われ、なるほどと思ったことがある。

涼しいせいか、頭が冴えているのか、ぼやけてしまったのかよくわからない。

なんだか今夜こそ、深く眠れそうだ。
いくらか、怖いような気もするが…


では、爆睡しよう。
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金色の夕日と嵐の首都
西の方に出かけた知人から「金色に染まった夕日」だと電話があった。東京は晩秋のような風が吹き、嵐の予感あり。

明日は、晴れるな。
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むじなの森戦記 外伝《森のひと、ここにあり》
あまりやることがないので、渡辺君が編集している安藤さんの記録ビデオの冒頭に以下のメッセージを書いたりしていた。
こうなると、外伝をあと数本つくることになるかな。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

はじめに

むじなの森の戦いの記録に
正伝はいっさい遺されていない。
遺されたものは、
それぞれの戦いの一部が記録された
外伝だけであるという。
正伝は、この森の日々に関わった
ひとりひとりの遥かな明日にむけて
書き継がれていくことになる。

ここにまとめられた映像素材は
仕事の合間にむじなたちが
家庭用のビデオを用いて撮影したもので
編集は湯治部サーカス団の渡辺登紀夫による。

内容についてのご意見・ご異論は
これを認めませんが、責任はすべて
湯治部サーカス団の益子透にあります。
だからごめんしてください。


2001年晩夏
水の惑星 ジ・アース住人代表
toru_m@mujinamori.com
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オフィスで
昼からオフィスに。
べつにやることがあるわけではないのだが、ここ数日、勤勉にオフィスで過ごしている。次をどんな展開でいくか、じっくりと考えてみるのに、この何も予定のない夏の後半をあてることにして。

それにしても哀しくなるくらいに涼しい。
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男と女2★★★
久しぶりに「男と女2」を観た。
10年あまり前と大きく感想が異なった。

つまらなかった。
あのころ何がおもしろかったのか。
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女鬼の世界へ
高空。秋風。
朝、カナカナ。

そろそろ「女鬼」にかかりたい。
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メトロポリスのマリアに心を奪われた
昨日、印刷博物館の「映画ポスターの20世紀」を見に行って、いちばん記憶に焼き付いたのが1926年にフリッツ・ラングが撮った「メトロポリス」の約2m×1m大の映画ポスター。100年後の2026年、未来都市を支配する思想家達に反乱する労働者達を指導する女性ロボット「マリア」のバストショットを画面中央下に配し、2/3を占める背景に摩天楼のシルエットを据えている。
マリアはロボットだから無機質だが、哀しみをたたえてもいる。
ハインツ・シュルツという作家らしいが、70年余り経ても色あせることのない強さがあった。
この一点を観るだけでも行った甲斐あり。

9月2日まで文京区の印刷博物館で開催されている。03-5840-2300
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月の出と古歌
5日に舘岩村の湯の花でデジタルHDでとらえた月の出を短くまとめて古い歌を一首、3シーンにわけていれてみた。
6月の末に
むじなの森で三日月を観てからこの一ヶ月余り、よく月を観る機会があった。
おりおりに浮かんだのが、「ともすれば月澄む空にあくがるる」の古歌。この歌については91年の三菱電機三部作の最後の巻の冒頭に引用しようとして担当部長からやんわりと拒絶されて以来、ずっと使った記憶がなかった。はずである。

今朝、「光の日本」を観ていて、プロローグの約5分間の月の出のシーンのラストに山下亜美の語りで入れていることを発見。発見というのも他人事ではあるが。見つけた。
「光」の仕上げは92年初頭。おれは意趣返しのように使っていたのだ。
何しろ月の出の冒頭すぐに福島さんの朗詠で「万物は冬に雪崩れていくがいい追憶にのみいまはいるのだ」と吠えたて、狼の遠吠え、立原道造の詩、古歌と続く。ほうぼうで掟破りだの文法知らずだのと言われた月の出5分1カットプロローグは、βカム素材とは言え見惚れるばかりの凄絶さがある。

これからオフィスでこの間の月の出と比べてみるが、甲乙つけがたい気もするが、想いの深さを考えれば、言うまでもない。

田中ディレクターからのメールで、
こんな時代なのにおまえはロマンスばかり追いかけていられていいね、と皮肉られたばかりだが、こうして振り返ると筋金入りではないか。

ただ、進化も深化もねえな、とは思う。
十年近い歳月を経てわかったことは、おれはただ現在に、いまだけに応じているにすぎない存在だな、ということ。
ま、もって瞑すべし、というところか。
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デジタルジャパネスクのために その1
眠らずに、9年前につくったコロンビアの天然の日本シリーズを取り出し三本観る。

光の日本、風の日本、色の日本

しかし志の高い、まことにすぐれた作品であるな。あらためて感心させられた。わが仕事ながら。
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やっと眠れそうだ。
印刷博物館にポスター展を観に行く。
帰りに香十で伽羅をまとめ買い。

ひさしぶりに涼しくいい夜だった。
今夜こそは熟睡、いや爆睡しそうだ。
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さらば未来博。水の惑星の日々。
11日、舘岩村湯の花の末廣旅館で水の惑星のスタッフと会食。せつない民宿に渡辺と同室。
12日須賀川の会場に。新しいショーの確認。13日も続けて確認。
ジ・アースの入館者は三日連続で一万人突破。すでに26万人強の人たちが観たことになるらしい。
だからどうした。

もう、あきたな。

須賀川を今夜で頭から切り離す。


長かったとも、短かったともいえる。
さらば、である。
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観覧中止もいいじゃないか
「光と水の織り成す幻想的な光景は、見るものに大きな感動を与えていたようでした。
なお、この後激しい雷鳴とともに雨が降り、夜8時から行われる予定のナイトファンタジアは中止させていただきました。ナイトファンタジアを観覧するためにいらっしゃった方、誠に申し訳ございませんでした」

協会のホームページにあった昨夜のレポート。ま、天のはからいは粋なものであるな。

東北道は60kmの渋滞だという。
佐野で降りて会津西街道をたどるかどうか、渡辺任せで一時間後に舘岩村湯の花に向かう。
あちらは雷雨とか大雨洪水注意報とか荒れているようだ。
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メイキングAタイプいきなり完成
民報のームページを読んで、噴水ショーを見てこようと思い、オフィスに寄って連絡をとっている間に時間がきれた。午後七時のショーに間に合うためには東京駅を4時。渡辺がクルマで行こうかとすすめてくれたが連休スタート前の混雑を考えて却下。そうこうするうちにアウトとなる。
それからいままで記録ビデオをつないでいた。
ひとつは満月記録。もうひとつは松明あかしから10万人突破に至る約九ヶ月の記録をコンパクトにしたもの。
たのしい作業だった。すべて渡辺があいまあいまにDV手持ちで撮ったものだが、ノイズが記憶を掘り起こすきっかけとなり、家庭用ビデオのすごさを思い知る。

駅弁を買ってきてもらい、夜食にはパンを食いながら約六時間。すでに渡辺がまとめておいたものを入れたので、編集十時間以上かけた力作?である。

GETZ-GILBERTOの「O GRANDE AMOR」をラストシーンにミックスしS-VHSに戻せばOK。
使用素材は
須賀川松明あかし、白河の関、マウナケア、音楽録音、試写、開幕準備期間、十万人突破の日の都合七つのシークエンス。
全体で約三十分のメイキングAタイプ。
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せっか鎮めた血が騒ぐ
知り合いの小学校の女性教師三人が泊まりがけで未来博を観に行った。さっき会って話を聞く。ジ・アースの好評はさておき、昨夜初日の噴水ショーはとてもよかったという感想。単純明快に感動しており、続けて観たかったと三人そろって。
期待が高まった状態でナイトファンタジアを観たらしいが、これは予想通りというか予想以上にというか非常に嫌悪感を抱いていた。ます、何だかわからない、気持ち悪い、あの場所でやる必要がまったく感じられない、とても暗いいやな気持ちにさせられた…
まあなんというか、まいりました。
要するに業界的にも一般客的にもまったく成立していないということ。

あんなもの毎晩やっているの?と聞かれ絶句。
のど元過ぎたつもりになっていたが、これでまたくすぶりだしたよ。
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BGMに、Sarah Brightman の「EN ARANJUEZ CON TU AMOR」
「むじなの森へ」に昨晩アップした「満月を贈る」の画像を今日届いたキャラクターなしに変更。ついでに詠み人知らずの古い歌を一首を加え、全体で90″に編集。
素材はデジタルHD。HDからDVにコピーしマックでキャプチャー、ファイナルカットプロ1で編集。web用にダウンサイズ。
BGMに、Sarah Brightman の「EN ARANJUEZ CON TU AMOR」を添える。

左のメニューの下から二番目「むじなの森へ」をクリックし。「満月を贈る」で見ることができる。ただしクイックタイムのみで再生可能。winの方は雑誌の付録からインストールしてほしい。
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GETZGILBERTOの「O GRANDE AMOR」
旅先で仕入れたカフェのハウスブランドCDに入っているボサノヴァを聴いてその軽さにうんざりし、久しぶりにオフィスのGETZGILBERTOを探し O GRANDE AMORをかける。
いやSTAN GETZのイントロを聴くと一気に神楽坂のオフィス時代を思い出す。まだ8Bの鉛筆を使って厚手の特製原稿用紙に向かっていたころのこと。
このアルバムにはAntonio Carlos Jobinが加わっている。
いまどきのカフェには重いなやっぱり。満月の夜、こいつをかけておいても良かったなと思った。

鎮まる夕。街に熱気がよみがえろうとしている。
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朗報あり。
完周さんから電話あり。メインスタッフが明日湯の花に集うという。一夜歓談し翌朝ジ・アースを観るのだという。一も二もない。即応。さっそく末廣に連絡をいれる。満室。無念。キャンセルあれば連絡をくれるということでいったんはあきらめたが、彼らがかの地に集うのに顔を出さずにすますわけにはいかない。
なんとかどこにでも潜り込み、合流する。飯だけでも末廣で一緒にできればこれ以上の喜びはない。
彼らとともに体験すれば、それでほんとうのピリオッドを打てるかも知れない。

なぜ、そこに思い至らなかったのか。
助けられた。
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三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたい
どこのバカが歌ったのか。
この「ぬし」を「希望」と読み違えたバカもいたよな。



9日からの噴水ショーは大好評のうちに成功したと現地の運営ディレクター。その後の方は、と問うと、いつもどうりです。
いつもどうりでいいのなら世話はねえじゃないか。
と、出かかったが、のんだ。
足下見ているやつに頭のハエの話をしてもはじまらない。
しかし男と女のこの温度差はなんなのだろう。
まず女性はほとんどが生理的にイヤだと思うようだ。次に若い男がイヤだと続く。
ある年齢以上になると生理的ではなく頭の問題としてイヤとなる。だから、巻かれる。頭は歴史的にカラダに負ける。
そういうことなのだ。

終わって帰る客に何を抱かせたいのか、何を残したいのかと俺は問うてきた。終わりよければすべてよし、とする日出ずる国の美しい解決法をいつから捨てたのか。

あのショーの前にどれだけ観客が盛り上がろうと、次に冷やしてしまったら何の意味があるというのか。

まず最初だけでも気持ちよくするからでは、気の弱いすり寄り上手な強姦とどこが違うのか。おまえも応えたじゃねえか、としたり顔で膝をすすめる牛太郎まがいの手管を使って、それでコトは足りるのか。

コトバなくしてしょう然とうなだれ帰る観客はついていなかったで片づけるか。

夜が大人のためのロマンスの場だと開き直るなら、子供のための噴水ショーというのは何なのだ。R指定かX指定か。
怖がるのは子供だけなのか。不快な思い耐え難しと感じる大人はいねえのか、もう。
毎日やられているうちに腰ふるわせてしがみつくようになったのか。人生はそういうものだ、か。

屈服は致しませぬの松明あかしはどこの祭りだよ。見立て違えたおれの負け。


観客が大喜びで大好評。
よかったばんざいおめでとう。



もうやめた。
おれは星菫派に戻る。



撤退すると、伝える相手も見当たらぬ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり…

ばかくせえ。
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月に狂う。
あの夜の月の輝きが信じられない。
オフィスで渡辺と素材を確認しながら長岡に電話をし、フィルターなどをいっさい使っていないことを確かめた。
あの青い光。雲を染めた夜の青。透明な青い紗をまとったような満月。
稜線を爆発光のように照らし出す月の出の瞬間。
「わたくしも月を見に連れていっていただいてもよろしいでしょうか」と小さな声で問うた飯盛山に暮らすというたみさんの姉上は、ほんとうにいたのか。夕方、相馬さんに電話で確かめたら、自分も幻のように思えてならない、と。
山すそにへばりついた数十軒の人家の明かり以外に、周囲360℃が真っ黒な夜の山に囲まれた七つ地蔵のある山あい。スタッフ9人と、宿の人たちが5人。
舘岩村湯の花の闇の中で月の出を待ち受けた人は14人。
オフィスのモニターにはその月の出がしっかり映っている。
だから幻ではないのだが、それしてもだ。

なお、たみさんの姉上は、宿が忙しいので嫁ぎ先の会津若松から里帰りをかねて手伝いに来ていたとか。
名前を「明子」太陽と月をならべて「あかるいこ、あきこ」。
なんだかなあ。できすぎちゃいないか。

明子さんは、飯盛山の自宅は月を背負ったように見ることができるのだと言っていた。子供を迎えにいき、家路をたどるとき、目の前に巨大な月がかかると、月に帰っていくようだ、とも言っていた。月が好きでたまらない、とも言っていた。

飯森山といえば白虎隊。

会津若松の桜吹雪から雪の舘岩村まで一年半あまりの福島県内の撮影についてまわったのも会津白虎隊の少年剣士の人形。
いまはむじなの森のジ・アース館の映写室の守りについている起きあがりと何かかかわりでもあるのか。

おれに、ありがとう、とでも言いに来たのか。
水引神社の扉を開いたときに手にせよとばかりの場所に置いてあった弓と矢といい、
舘岩村は、おれに何を伝えようとしているのか。
そんなふうに、ふと思えた。
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秋風は、きついな。
今夜から例の噴水ショーが始まる。15分のアクセントがその後に待ち受ける恐怖感をどのていどやわらげることになるのか、不明。
5mmていどの前進というところか。

いずれにしても現地の反応が知りたい。

このままではただ波風立てただけで
何もなかったと同じことにはならないか。

あれもこれも追憶の彼方に去っていくような思いがある。
なんとか食い止めようと必死に記憶をよみがえらせるが、鮮やかさが失せていく。
歳月がたって色あせたカラー写真のようだ。

苛立ちすら、ひとごとのようだ。

東京が秋になって四日。
風は血の騒ぎを鎮める一方だ。

深夜に公園を散歩するようになった。
横になれないように仕切りの入ったベンチに座り、地面にじかに横たわって眠りこけている浮浪者を見てると、こんな町で暮らしていることがうんざりする。
どこまで管理すれば、どこまで管理されれば行き止まるのか。

秋風に吹かれていると、なんつう国に生きているのか、と嬉しさを隠せない。
苦い笑いがとまらない。

ひさしぶりにオフィスで仕事もどきを。

けっこう崖っぷちに立っているなと思う。
はやいとこすべてたちきってジャパネスクを立ち上げるしか道はないかな。
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Black eyed Susan
ロケの最後に南郷村で夕空を撮っていたときに見つけた黄色い花の名を夏苅さんが調べてくれた。学名はつまらんが、俗にBlack eyed Susanと呼ばれているとか。

10年前のレガシー東北ロケで八幡平の松尾銅山跡地の廃坑近くで撮影したものと同じ花。昼の光ではなく落ちる寸前の夕日によく映える花だった。こんども同様に夕方。ちよっと不思議な魅力を備えている。

左のメニュー「黒い瞳の」にロケ写真あり。Black eyed Susanも一葉のせてある。
朝の紫露草と夕のBlack eyed Susan。
なかなかのものである。
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成就せり。
舘岩村の暗やみで満月撮影作戦を成功させている間に、ひと動きあったたようだ。

今夕、オフィスの留守電に二件の時間いっぱいのメッセージ。連絡をとり伝言役と話す。
ひとまず思いは届いたことを確認。
H問題の所在についても言質をとれた。

これで破魔矢は届いた。
昨日、舘岩村の水引神社の扉を押し開いたときに、置かれていた古い弓と破魔矢を手に取り、むじな森の方角に狙いをつけた。
御利益はさっそくあったようだ。
亡き五十嵐の苦笑いが見える。

あの満月の月光の異常さは夢じゃなかった。

快哉。
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すでに金曜日。日がまた暮れる。
協会からメールで30日31日の出口調査でジ・アースの人気が圧倒的だったという知らせ。
嬉しくはあるが、そこまでは計算済み。
問題はもう一つの案件のこと。
現地との話では今週は少なくともまだ新基軸のリハーサルなどは行われていないようだ。
リアクションらしいものの影すらも見えず。

焦りはないが、それにしてもではある。
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のどのつかえ
なんだか妙にすっきりした。
のどのつかえとはよく言ったもの。
吐き出してしまうまでが厄介だが
出してしまえば唖然とするほどラクになった。
気も晴れたし、これから蜷川を見て寝ることにする。今夜は秋元松代の歌詞の内容に注意だな。聞き取りづらいのは録画が古いからか、劇場の反響ゆえか。
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呼べど応えぬ人はありたり
ぶらぶらと散歩。
駅ビルのvirginに行く。
ブラジル、レゲエ、古いもの、適当に10枚ばかり買って帰った。ほんとうは探したかった一枚があったのだが、「革命の歌を集めた静かで美しいアルバム」だけではレジの女の人に探してもらいようもなく、その人の細い美しい指の動きに見とれていた。10枚あったからたっぷりと眺められ、得をした気分になったが、顔が合って赤らめさせてしまったのはちょっとな。これでしばらくはあの店で買いにくくなった。
むかしよく行ったコーヒー店に寄って、数カ国語のホステスたちのおしゃべりを耳にしながらライナーノートを読んだ。

ネットで5日の福島ロケの候補地を探すか。
大印刷展の資料を読み始めるか、木の家にちなんだ話でも読むか、それともまた「近松心中」の世界にふけるか、眠気はあるが眠る気にもなれない。

待っている動きは一切なし。
あっちもこっちも、まるで黙殺されているようで奇妙だ。放り出せ、そういうことなのか。わからねえ。


  かなしみは葉月八月刀(たち)を振りばんらばらんと骨を鳴らすも

  呼べど応えぬ人はありたり夕風のさわさわとして咽喉(のみど)もえるを

      《晩秋挽歌》福島泰樹 より

福島さんに会いにいこうか。
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秋を「とき」と読んだ日もあったが…
途中でバッテリーランプがついた。
気がつけばコーヒーハウスで3時間。
あわてて家に帰りACをつないで残りをまとめる。
で、PDFにして送った。ほんとうはあと一歩踏み込もうかとも考えたがクリエイティブのスタッフがあの調子だとそれもばかばかしい。これで落着。つきあいのみということで無料サービスにして放念する。

渡辺が友田さん、阿部さんのところにまわる。会えなかったらしいがみなさんお元気だろうか。

さてあとは何をするか。

さっきニュースで秋が待たれると。
秋はまた「とき」とも言う。
そのときが待たれるが。
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移動オフィスでむりやり仕事をしてはいるが…
昨日から十℃以上下がったらしい。
一日置きに季節が変わっていくような気がする。
オフィスは戦場のようだし、家にいても気が晴れず、近くのコーヒーハウスに場所を移し、今日は移動オフィスである。ま、遊牧民のパオ暮らしのような日々はいつものことだが。
考えてみればオフィスでまともな仕事をするのは一年のうち片手に満たないのではないか。
ざらつく気持ちをねじ伏せて、砂のような自然環境の話に集中しようとするが、指が途中で音を上げる。
それでも二枚は書けた。もっとも18ポで書いているが。
しかしそこでストップ。膠着。

で、こうして気をそらした。
ノートブックとPHSカードのおかげで、どれだけ気持ちをごまかせていることか。

店内にはうすくコンテンポラリーハワイアンが流れている。ことしはほんとうに流行っているんだなとのんきに耳をかたむけてながら、この調子で書き飛ばせないかとは思うが。

ま、さらにもう少し、頑張ってみるか。
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困惑。
記憶というのはなぜかくもあいまいで不確かなものなのか。
気になっていた食い違いをあらためて並べて読み比べているうちに、すっぽりと抜け落ちていた部分に思い至る。その先の記憶はさらに二つの異なる時間帯に別れてしまうが。
いずれにせよ、問いと答えの時制がほんのわずかズレている。
このズレを修整すれば、不明だった解にたどりつく。

ここから先はハムレット。
窓をあければ秋風が吹き込んでくる。
昼のあの熱気が嘘のようだ。



夜というのは、つかれるものだ。
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蜷川の「近松心中物語」をまた見た。
眠れぬままに蜷川の「近松」を見る。
花道の太夫の道中の見せかたはやはり抜群に引き込まれる。スポットライトの教科書のような美しさだ。観客がほんとうにこの芝居の世界へと没入させられるのは、実はあの太夫のシーンではないのか。ここからは夢の世界だ、そういう大見得をきっている、そんな思いをもった。二十年近く、引き込みの妙は辻村ジュサブローの人形遣いが郭の騒ぎへと乗り変わる瞬間だと記憶していたが、今夜違うことに気づかされた。
さらに三幕の公金流用して梅川の身請け、あそこがもしかしたらこの芝居の芯ではなかったのか。あの短い芝居に全精魂が込められていたのではなかったのか。太地と平幹の役者魂のすべてはあそこで燃焼しているのではないのか。
とすれば最も印象深い13分間の吹雪の心中は、じつは余韻。余情では。蜷川らしい仕掛けの派手さに長いことだまされてきたのではないのか。
それにしても秋元松代作詞の「それは恋」、深い世界だ。あらためて聴いていると背骨をわしづかみされたような気にさせられる。
しかし、この情熱はどこから来ているのか。なんど見てもみごとさに震えるばかりである。
これで十日間で三度見たことになる。あの年の夏でさえ一週間で二回。まだおれは三十歳になったばかりだった。
まったく同じ感情の起伏を持つということが信じられない。蜷川は不世出の天才である。
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ばからしきほどあっけなく…
タバコを買いに外に出た。
昼の暑さがうそのような涼しい風が吹いていた。
公園のベンチに腰を下ろし、このまま寝ちまおうかなどと考えながら一本だけ吸った。
興奮はもう覚めていてただひたすらだるい。あれやこれやを思い浮かべるが、幻のようにかすんで見える。
耳の奥にはかすかにカナカナがきこえているように思える瞬間もあるが、すぐに消える。
もしこのままあの森の記憶が薄れていくとしたら、あれにいったい何の意味があったのか。
もしかしたら、昨日で力が尽きたのかな。

だからなんだ。
そんな思いが勢いをつけて広がっていく。

月を眺める気にもなれず、近くをひとまわりして帰った。

弾む気分がしぼんで消えていく。
そんなものかともこんなはずはとも思える。

たぶん、落とし前のつけ所をおれは誤っているのだ。あれは文字通り、いちどはつぶしてみせるべきだったのだ。

何もそこまで、ではなく、闇に戻せるとというネコだましがほんとうは必要だったのかもしれない。

放っておいてもあと二ヶ月。それですべては無に戻る。だからこそだったのか、だったらこのままだったのか。

今夜はなんだかうっとうしい。


たかのしれた田舎芝居騒動に、
いつまで翻弄されるというのか。
書いちゃえば、そういうことなんだよな。


めんどくせえ。
くそして寝るぞ。
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つけ、まわる。
日暮れまで眠るつもりが昼前で目が覚めた。どこかにまだ火照りが残っている。
すっきりしない状態で、創芸のストーリープランにとりかかったが、頭がまったく回転せず、断念。
メールの返信などでばかげたミスをしながら午後を過ごす。凸版から大量の資料。積水ハウスのロケ内容のリストアップ…

ああ、つけが一気に回ってきた。

葉月八月、月見ともしばしの別れか。
難儀なことだ。
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ためにためた破魔矢を一本、開成山の花火にて飛ばす。
少し前に帰宅。
開成山の花火を市内の民家の軒先越しに20分余り眺めて、高速に。道の真上に月。山の間をまっすぐに続く東北道をその月に導かれるようにひた走る。
那須で空きっ腹に気づきサービスに。ごぼう唐揚げうどんというはじめての食べ物を注文。月を見ながら食ったので月見唐揚げ?
ま腹が空いていれば何でもうまい。
再び月に向かって走る。四つ木で見た東京の明かりと低くなった月の組み合わせは須賀川の森の光景とはまた異なり、かなり美しかった。川面への映りがすごい。
沈みかけた月につられ羽田空港経由で遠回り。そこに連絡。連判状にしたかった、と。速攻ぶりと、引きだした言葉にほろりとさせられた。むじなの魔力か、みんないいとこばかりが出てくるようだ。
ま、あそこで日暮れに泉越しのジ・アースを見てしまった人は、鉄くずとぼろ布はいかにも目の汚れ。むりもない。

投函したのは午後七時過ぎ。
開成山の花火の音が響いていたから、まずまっしぐらに飛んだだろう。

35℃の日盛りにエアコンとめて窓を開け放ち、福島の熱風を身体に注がせながら、パンツ一丁で書き上げた入魂の三枚。
さて、どんな波乱が待ち受けるのか。

葉月の乱に血が騒ぐ。
しかしいまはひたすら眠い。

風に吹かれてぼんやりと三日過ごすというのは、これであんがいくたびれる。
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