2009年09月の記事


THE STRAIN★★★★★
ギレルモ・デル・トロ&チャック・ホーガン/大森望訳/早川書房刊
今年六月にアメリカで刊行されベストセラーとなって9月に国内出版という後書きを本屋で読みながら未読の作家のせいもあり迷いつつ、ブックカバーのインパクトに負けて購入。読了まで10日かかったのは仕事のあい間を縫ったせい。映画にしてしまうと、おぞましさだけが際立ってしまうだろうが、小説で読む限りはかろうじて踏みとどまっているのがスゴイ。そろそろダメになるか、と思いながら最後までいけた。ストーカー→S・キング“呪われた町”→小野不由美“屍鬼”と来て、小野が極北、と思っていたけど、ギレルモ・デル・トロ“ザ・ストレイン”が金字塔となりそうだ。三年がかりの三部作第1弾とあるが、これ一冊の超弩級迫力も申し分なし。ヴァンパイア・ストーリーは、喪失し再生不可となった愛の物語なのだと、あらためて気づく。刈り込まれていながらも十二分なイメージをかき立てるディテールのうまさが、そんな気持にさせたのか。大森望の翻訳は、まことに読みやすく、入り込めた。近ごろ出色の一冊だろう。それにしても、こんなテがあったのか。脱帽。映像化されたら、観ないだろうけど。
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記録と記憶2009.9.27
予感していたのだと、戻ってDVDを見直しながら思った。いつからこうなっていったのか、気づいていたようにも、気づいてはいても八方が塞がっていたこともわかっていたのだと、も。途中で「過去形」で語られていることを知り、知りつつもとどめる術を知らず。珍しく席を移りたがったこと、あれは思いやりだったのだと。涙が、どこにこんなに残っていたのかと思うほど止まらなかった。暗い席が、いちばん奥まった席がありがたかった。2つめのフローティングキャンドルが消えたところで席を立った。店も閉まる時間だった。タバコを買い、分け合った。時間を理由に入り口で別れた。ほかに、どうすればよかったのか。どうできたのか。Japanesqueの最初の夜、満月を撮れたらと、願を掛け、その願は叶い、歳月が溶けた。もうしわけなかったとふり返りながら、ほかに道がなかったと、納得する己がいる。東北道を北に走りながら出たばかりの「月の砂漠」を繰り返し聴き涙があふれ続けたこと、唐突に思い出す。まだ、何もはじまっていなかったはずの、夏だった。どう選んでも、悔いしかないのだとわかっていた。でも道は、たしかにいくつもいくつもあり得たのだ。選べなかったのか、選ばなかったのか。結果、行き止まりとなるほかに、なかったのだ。ディレクション。選択し続けることを仕事に選びながら、肝腎の選択を、なしえず。受容するほかに、ないのだ。悔いは、奇妙なほどに、皆無。ここまでよく来られたと、も、思う。
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到達。
千年相聞、3タイトルのpilot版アップ。DVDに焼いてチェック。スーパーの抜けが悪いのはご愛嬌だが、ま、DVDレベルなのでガマン。文句なし。たぶん、だれも見たことのないあたらしい恋歌。digitalJapanesque。誕生。
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キーワードは[千年]
5日間の秋の休みをdigitalJapanesqueに集中。最終日となった秋分の日に、いくつかリアルで具体的なプランが見えた。
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千年
相聞。
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メモ9.23秋分
何処へ
夢と追憶
慕情vol.3遠くの空へ
+
only1シリーズから
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no.17 “ゆふべのながめ”
夕暮はいかなる時ぞ目にみえぬ風の音さへあはれなるかな

和泉式部  (続集) 詞書のある四十六首の歌群
「つれづれの尽きせぬままに、おぼゆる事を書き集めたる歌にこそ似たれ ひるしのぶ ゆふべのながめ よひのおもひ よなかのねざめ あかつきのこひ これを書き分けたる」

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/izumi.html
「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず」(『紫式部日記』)。
「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(保田與重郎『和泉式部私抄』)。
「恋を歌い、母性を歌う和泉式部の歌には、女性の身体のあり方と結びついた女性特有の心が炸裂している。古代女性の教養や賢慮、政治・社会・宗教によってさえ差別され、自己否定を強要される女性の心性・分別とはかかわりなく、和泉式部は、女性の生理に根ざす生のあり方を純直に追求した。女性であることによって、女性であるための制約を乗りこえる精神の自由を、かの女は花咲かせた」(近藤潤一『女歌拾遺』)。
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日は入日
清少納言
日は入日 入りはてぬる山の端に 光なおとまりて赤う見ゆるに 薄黄ばみたる雲の棚引きわたりたる いとあわれなり - 236段
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再録“花鳥風月”
●松岡正剛「花鳥風月の科学」中央公論社より抜粋

この本は花鳥風月を中心とした日本文化のなかの重要な十のテーマをとりあげ、それ
をいろいろな角度から照明をあててみようというものです。
それとともに、日本文化のなかのいくつかのイメージの起源と変遷を探り、そのイメー
ジが分母と分子に分かれていく多様なプロセスを追いかける目的をもっています。ま
た、花鳥風月にちなんだ科学的なイメージのアリバイについても、多少の応援団を繰
り出します。
なぜこのようなことを試みるかというと、われわれ自身が日本の歴史文化がつくって
きたイメージの発生現場がわからなくなっているように思われるからです。また、そ
の使い方がわからない。そこで多少の筋道をつけてみたい。それが第一の理由です。
第二には、日本について、われわれは適切な言葉で説明する勇気を失ってしまってい
る。とくに海外に向けて卑屈になりすぎたり、居丈高になりすぎている。これは日本
文化の特色を説明できるグローバルで鮮明な論理が極度に不足しているためだと思わ
れます。
一方でグローバルなイメージが氾濫し、他方ではローカルなイメージが不足する。む
ろん、その逆のこともある。この調整はなんとも難儀なことなのですが、何かひとつ
ながりの手がかりがあれば試みられないこと出もないような気がします。私は、その
手がかりを「花鳥風月」という、いかにも日本的で一般的な言葉に求めてみたのです。


花鳥風月とは日本人のコミュニケーション様式のためのソフトプログラム、あるいは
ユーザーインターフェイスだったのではないか。いったい何のための花鳥風月のコミュ
ニケーションで、何をあらわす花鳥風月のソフトウェアかというと、たいていは人々
が「景気」を盛りあうためでした。
しかし、昨今は、「景気」という言葉がもっぱら経済用語としてしか通用しなくなっ
ている。もともと景気という概念は山水画などでもつかわれていた用語です。
景気は自然や世間のうねりにも日々の生き方にも見え隠れしていた動詞であって、そ
れを丹念に掬ってみるとき、花鳥風月のしくみが有効なプログラムとしてつかわれて
きたわけでした。どうしたら景気を感じられるのか、それを工夫することが花鳥風月
を重視する本質だったのです。

日本の社会制度や風俗文化あるいは言葉づかいに、海外の要素がどのように混入して
いるかという研究もむろん大事です。しかし、万葉集の言葉づかいに大陸半島からの
影響を指摘できたとしても、それだけでは万葉社会文化の意味の説明にはならないよ
うに、海外要素指摘主義というのも、どうもしっくりしない。だいたい日本のみなら
ず、どんな国の社会文化だって海外からの文物導入と影響をうまく生かしてきたので
す。
観音菩薩は古代ペルシャの、万葉集は古代朝鮮「郷歌」の、初期修道院のしくみは東
ゴート王国の、千夜一夜物語はインドの「パンチャタントラ」の、株式会社の前身コ
ンパニアはイスラム経済システムの、マイセンの陶器は中国や九州の、新聞連載小説
はトルコの、ピカソのキュビズムはアフリカの、アメリカの百貨店にティールームが
できたのは東京の百貨店の、それぞれ文化混入によって成立したのです。ゲーテにとっ
てのドイツは、それ以前のプチ・フランス主義からの脱却を師のヘルダーや友のシラー
とともに成しとげることでした。
そんなぐあいだから、いちいちお里を調べあうだけでは社会文化の本質は見えてはき
ません。とくに日本はコードを輸入してモードに編集するのがたくみな歴史をもって
きたので、日本の問題はおおむね「氏より育ち」にあります。日本はいま国際的にさ
まざまな《問われる時代》というものを迎えていますが、それは必ずしも「氏=コー
ド」が問われているのではなく、「育ち=モード」が問われているのです。


●「花鳥風月の科学」文庫判解説から いとうせいこう

「花鳥風月」を《日本人が古来から開発してきたマルチメディア・システム》として
とらえる。それが本書の最も重要なねらいである。
つまり自然は、いや厳密に言えば外界は、すべて日本人にとってのインターフェイス
であり、そこに一瞬没入するだけで世界はありとあらゆる変化をし、ゆえに「景気」
が立ち上がってくる。むろん、没入した人間もしかりであって、このとき主体も客体
もない。あるのは「景気」ばかりである。
山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月と十章に分かたれてはいても、「花鳥風月」
がマルチメディア・システムである以上、すべての要素は複雑にからみあい、互いに
アクセスをし合いながら、その組み合わせ次第で様相を変え、つまりは我々自身を変
える。
現代哲学でいうところの「生成」にも若干似た概念である「景気」はしかし、「生成」
が持つある種の暑苦しさを逃れ、同時に主体をも「景色化」してしまうという断片化、
みしくは溶融を旨とする。となれば、むしろ最も近いのはインターネットのようなも
のだろう。
松岡正剛の言うマルチメディア・システムはもっと精妙で、科学的で、また気宇壮大
でもあるような仕組みのことである。五感と、それが培ってきた文化の層が一挙に立
ち上がってくるようなシステム。ないしは、一挙に消え去って、あとにはかすかな残
り香だけが漂うようなシステム。それがすなわち「花鳥風月」にほかならないのだ。
人類の脳と身体は、このようにインターネットを越えたネットワーク力やシステム生
成能力をすでにして持っている。逆に言えば、その力の一部がようやく外在化された
のがインターネットなのであり、松岡正剛が本書を通して夢見つづけるのは、《来る
未来に実現するかもしれないような、その人類の力のすべてをマルチメディア化する
科学的装置》ではなかろうか。
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一部引用。記念に
> プレゼンが終わって食事してホッとして睡魔に襲われ、
> 眠眠打破飲んでもうひと頑張りな感じです。

昨日は追い込みでたぶん完徹だったのだろう。
結果はともあれ、こういう瞬間のためにコンペはあるのだ。
ま、結果ももちろん大事だけど。
ホッとした気分がよく伝わる長文のメールを読みながら
こちらもひといき。
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ジャンヌ=緋牡丹お竜
民主党新人の女性議員のインタビューをたまたま見た。ひとりは福田。絶望の縁なのだ、と決意表明。もうひとりは田中。職歴暴露攻撃へのエクスキューズ。福田は、ひたすら凛々しく、まっすぐな眼差しがジャンヌ・ダルク。田中もまた、真っ正面から目をそらさず照れることもおびえることもなく必死に生きてきた、と答え、追撃のコトバを失わせ、見事。肴にしようといきり立っていたマスコミの顔色を失わせていた。たまたまザッピングしていた昼のワイドショー枠だったが、この2人のことが強烈に印象に残った。
ひさしぶりに福島泰樹の「わがジャンヌ」の短歌を思い出す。歌集で出典を調べたが、見あたらず。今夜はひさしぷりに「緋牡丹お竜」でも引っ張り出して観るか。
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加速
弾んだメールが数通。なに、その気になれることがいちばん。それがコンペの第一義。プレゼンの依頼を辞したこと、ちょっと不安だったが、正解。コヤマの人柄か、みんなスジがいい。悪くない。
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虫の声にあらためて
タバコを買いに外に出たら虫の声。クルマも人もみあたらず、なんだか山奥のロケに来ているようだった。ひさしぶりに行った凸版の打ち合せ後、大阪からの連絡を待っている間も、虫が鳴いていた。
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遅れた。また(‥;)
予定というか想定では10時前に書き上がって先方に届いている、はずだった。1時間もあればカタチにできるシークエンスだけを残したつもりだったけど…ぐっすん、である。予約していた病院にむかうギリギリまでいじったが泥沼。とりあえず病院にタクシーを飛ばす。終わってとんぼ返りし朝昼兼食を腹にいれ向かう。携帯に留守電3本。再生せず。渡辺にだけ事情を伝え、2時までにはと。30分オーバー。とはいえ自分で勝手に遅らせた届け時間だが、ぐっすん。ワードに変換がうまくいかずパワポに変更したせい、と言いたいところだけど…ま、ツメの甘さ。すんなり書けるはずが、フラグメントの連続発生で焦った。添付送信後に電話。ひたすらごめんね、と。で、段落。書いてしまえば…。なんだよなあ。
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書いた
紆余曲折ありつつも、予定30分オーバーでアップ。ホッとした。
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逃避ポイント
資料は読めるだけ読んで切り口も明快に見つかっていたつもりだったが、先に進めず停滞。要求されていることが、もうひとつ自分の中で不明なままに時間が過ぎた、そんなところか。ひさしぶりの六本木地下での編集、微修正とはいえ深夜0時をすこしこぼれた。デスクトップでメド無しで没頭していた1日12時間強40日弱のneoJapanesque編集中には無かった疲労をひさしぶりに感じたが、ま、目覚ましがわり、か。肝腎の最初の1行が書けず、一時避難。こういう場所をつくっておいたのは正解だった。文字を書く、ということを、とりあえずは担保できる。書けさえすれば、あとは勢い、待ち。たのむぜ。おれ。
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酒も飲まずに階段でこけた
午後6時間かけてまじめに資料を読む。アタマがくらくらしつつ千鳥足になって家路をたどる。階段でこけ、われにかえる。こんなに丁寧に読んだのは日本郵船以来?
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コンセプトメモ9.3朝
異化される時間。
劇場化される日常。
その瞬間、
ひとは自分の中に秘めたさまざまな
“いまとは異なる時間。世界。人生”
の可能性に直撃されることになる。

だれにもいつでもどんなときでも
いまある日常以外の時間や人生や世界が
ここではないどこかに必ず存在する。
ひとはその瞬間と思いがけずに遭遇することで
なぐさめられ勇気づけられ力づけられ
可能性の存在に気づかされることになる。

自分の中にいつもと異なる
もうひとつの時間が
特別な瞬間が
たしかに流れていることに思い至ることになる。
そして、ため息をつきながら
ふたたび日常へと帰って行く。
慰謝され再生するために。

日常生活において“慰謝と再生”を
もっともシンボリックに表現するのは
沈む夕日と
そのきわだつ赤をうけとめ
闇の中でさえざえとかがやく月
そして再び力強く世界を照らし出す太陽である。

一日の=人生の最上の豊饒な結晶としてのsunset。
その豊かさを映し出し静かにふり返らせる
自らではなく光の反射としてのみ存在しつづけるmoon。
慰謝と眠りを根拠に再び生まれる新しい可能性sunrise。

だからsunset&moon&sunrise。
これをdigitalJapanesqueBDのデビュー第1弾としたい。

sunrise を胸の内に宿したsunset を求める
日常の中に潜む極上なひとときmoonlightにたどりつくまでの
さまざまな“道”を描くショートムービーシリーズ。

それぞれの、
一人ひとりの
道のその先につづく
もうひとつの“道”の物語。
それが第1弾デビューのテーマとなる。
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真夏の十六夜月
40倍zoomを初トライした田沢湖湖畔の素材をチェック。
直前のサンセットといい、奇跡のような時間だったのだとあらためて。
http://www.youtube.com/watch?v=kTYaioa9WeU
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ぐすん(x_x)ゞ
今日、こんなメールが。
若い撮影助手の女性から。
台風一過。
凱風快晴は北斎の赤富士で
「凱」は南風、初夏のそよ風を意味するとか。
季節はことなるが、空もメールも「凱風」だった。

> Date: Tue, 01 Sep 2009 16:05:32 +0900 (JST)
> To: 益子自宅
> Subject: あの花火
>
> 去年撮った古河の花火のDVDをじいちゃんばあちゃんに渡していたんですが…あれから一年たった今で
> も、寝る前に毎日見ているそうです。
> 孫がくれたからとか、そういう次元ではなく、花火が大好きでよくテレビでも見ているらしいのです
> が、こんなに素晴らしい花火は初めてみた。毎日見てるけど、毎日新しい。嫌な事あっても、この花
> 火を見ると元気が出てくると80半ばの私のじいちゃんばあちゃんが言っていました。
> 戦争などでこの世界の地獄まで見た人間が言う感想は、嘘偽りのない本当の感情だと思います。
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なにがいきかよ
きがつくときはみんなておくれふきざらし…

と、うろ覚えの斉藤龍鳳を書いてみる。
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