2011年03月の記事


さくらほころんだ
淡い桃色が夜目に鮮やかに
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どうもほんとうにダメみたいだな
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“れん”return.
もし連絡がついてロケに出ていなければ久しぶりにメンチカツでも食べないかと、連絡を入れようと思っていたらナガオカがスタジオに顔を出した。奈良ロケの時の辛そうな様子が気になっていた。すこし回復したようだった。修正した最終版を52inchで確認。向かいの“れん”に行くことに。撮影部が麻布十番に移ったこともあり、足が遠のいていたけど、ゲンのいい店なので嬉しかった。メンチカツライス完食。店の前で、相馬さん、ナガオカと別れ、山岡、渡辺とクルマを拾った。ザ・グラヴィスは、まことにスリリングかつスタイリッシュに仕上がった。
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寒いと思ったら
雨が雪に変わっていた。
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奈良の夕日3.22
奈良から京都に向かうロケバスで、信号機の赤と同じ「赤」に焼きつけたような夕日を見た。あちこちで夕日を撮ってきたけど、今日のような禍々しい色の夕日を目撃したのは初体験。スタッフ全員、携帯カメラを起動することもなく呆然と沈んでいく夕日を車内から見守っていた。見つめていたとか眺めていたのではなく「見守っていた」。口をポカンと開け。目を点にして。新幹線のぞみの最終を待つ京都駅のビアホールで黒ビールを飲みながら、盆地なのになぜ地平線ギリギリまで見えていたのだろうと…興奮さめやらず。朝から昼過ぎまでの奈良は、鴬でも鳴き出すような春の気配。その後、一気に真冬のような冷え込みに。
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東京雪
正午で2℃。東京、あちこちで雪。おれはこれから新宿に打合せ。さむそうで行きたくないけど。
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構成3タイトル。夜半になって雨。
20数時間かけリオに着いたと電話。空港は、むっとする暑さだ、とも。とまれ、ぶじ。ホッとした。リオ→イグアス→ブエノスアイレス…田中春男さんと組んで負けたジャイカのコンペの構成プランを思い出した。夜中になって雨。明日にかけて、また冷え込むとか。予定通り、企業篇の構成2タイトルとTheGravisのMAV台本を送った。夕方、散歩したときに桜の蕾がふくらみかけていた。
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あけて、啓蟄。
意外ななりゆきの編集となった。ショートムービーを5タイトル。これが、ツボに。12時にスタジオ入りし7時ころには完成。あとは12時過ぎまでかけて3度ブラッシュアップ。頬つねりたくなるようなふしぎな展開。DJで鍛えたショートムービー三昧が効いたのか?家に戻り、風呂に入り、冷たい茶漬けを一杯。編集中は、あれほど悪かった体調も眠気もきれいに消えている。Gは、渡辺が。リオ→イグアス→ブエノスアイレス。半年が過ぎていた。
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備忘;2010.10.17深夜 あるいは10.18未明
企画意図を書いたのが9月の末日。その2日後あたりで茂木健一郎のツィートがたまたま目に留まった。茂木への興味も共感も、それまでほぼゼロだった。著作は一冊も読んでいない。いくつかの質のいい番組をぐうぜん見たことがあるだけだった。つまり、無関係できわめてニュートラルな状態だった。茂木のツィートがなぜTLに表示されたか覚えていないが、たぶんアトランダムにフォローしたどなたかのリツィートだったのだろう。


テーマは【夕日】あるいは【夕暮れ】だった。南の島でのことが100字余りの文字で書かれていた。フラッシュしたのがボラボラ島の初日。で、フォロー。その日、彼が【連続ツィート】と称して目覚ましのトレーニングがわりに書いた【夕日】にちなんだ10くらいのツィートが並んでいた。1から続けて読んでいくうちに、数日前に書いた【慰藉と再生】がオーバーラップ。

【慰藉と再生】は、もともとがスバルレ・レガシーの帯番組プレゼンのため、数年前にD通と組んで考えたもの。数年がかりの制作期間を想定した企画なので、最初の1ダースだけでも湯治部で手がけようと、力を入れマウナケア篇、アマルフィ篇、prince Edward island篇などのパイロット版シノプシスに没頭。改心のイメージが書けた。が、その気になったところで理由不明のまま潰えた。夕日と日の出を1セットにし Re Born/sunset&sunrise が、企画タイトルだった。

Japanesqueをまずは【カタチ】にすると決めた瞬間に、ひっかかっていたこの構想がすっと浮かんだ。九月いっぱいsunsetとmoonriseにこだわっていたことも大きかったが、最大の理由は捨てたはずの数年前のプランだった。吟味しなおし、sunsetにしぼってからは一気に進んだ。それが30日に飛ばした【ハロー,グッド・バイ】プラン。企画名をHello,Goodbye.にしたのはJapanesqueの【日本情緒】を中和したかったことと、決定権を持つターゲットの年代を配慮し、プレゼンをスムーズに進行させるためだった。


茂木の【夕日論】が孕んだ色彩は、予想をこえてJapanesqueのコンセプトとシンクロしていた。さらにそれから数日の間、間欠的に現れる茂木ツィートに【夕日】だけでなくJapanesqueそのものとの重なりを多数見かけた。立松和平に【天然の日本】の帯を書いてもらった時に共感しあった【原風景イメージ】が、湯治部のJapanesque<digitalJapanesqueの根底になっていたけど、ここに新たな共感者を見いだした、とシンクロニシティを確信。

茂木に何かを働きかけたり、巻き込もうという意図はゼロ。立ち上れるのか、離陸できるのか、出す意味はあるのか、この数年狼少年に甘んじてきたDJの、【リトマス試験紙】を発見した、と思えたのだ。なにしろ願掛けまでしたからね、おれは。少しだけ離れた道を行く人が、あぁ夕日をみてないなぁと呟いてくれている。人生にくたびれた、リタイアしてしまった老人ではなく、鎧兜をを身にまとったバリバリの戦びとが、【夕焼けをみたいなぁ】と、その戦いの真っ最中に呟いている。見るはずもヒマもないはずの者のなかに潜んだ【慰藉と再生】への渇望。戦闘中ゆえに抱えこむことになる【不断の不安と切実な希望】。ここを押さえられるなら、【1点突破全面展開】が見える。なら、おれは、勝った。

意識の底に横たわる共同幻想としての【Japanesque】。わたしたちはどこから来たのか。わたしたちとは何者か。わたしたちはどこへ行くのか。D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?タヒチパペーテの空港に掲げられたP.ゴーギャンの遺作。あの問いへのひとつの解としての【一回性】。【二つとあり得ない瞬間】。【多様性としてのいまこのとき】。一期一会としてのJapanesque。さらにいえば【一期は夢よ。遊びなされや ただ狂へ】というneo-Japanesqueの提示。なのだと、妄想はふくらむばかり。

これが、リアルタイムでこの十日あまりに起きたこと。
記憶に色がつくまえに、備忘として残したかった。

       2010.10.17深夜 あるいは10.18未明
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