安藤さんの《夕焼けの空》
ぶっ通しで書いたせいか、火照りがおさまらず。昨日届いた安藤さんの手紙に添えられていたコラムを読んでいるうちに、
去年、須賀川のむじなの森でいっしょに眺めた夕焼けのことを思い出した。
安藤さんは小高い盛り土の上に立って見ていた。ぼくは現場事務所2階の踊り場から。
彫刻家安藤は、あの頃真っ黒に日に焼けて荒くれ者の土方のようだった。
《森のひと》を必ず継続させる。
そのことを銘じておきたいから、彼のコラムを写した。
キーを打ちながら、きもちのいい文章というのは、指がつかれないな、と思った。
そういうものだ。







●「夕焼けの空」安藤栄作
  河北新報の連載コラム[計数管]より


 先日、わが家の長男が熱を出して病院へ行った。
カミさんが息子と病院へ入って行った後、
私は駐車場の車の中で待っていた。
助手席では下の子がスヤスヤ寝ていた。
 ふと横を見ると太陽が雲を黄金色に輝かせながら、
ゆっくりと沈んで行くところだった。
その光は、次々とやって来る子供を抱えた親のほおや、
通りの向こうの店の壁を暖かい茜色に染めていた。
皆、自分がその光に輝いていることに気が付いていないふうだった。
 一日をあくせくと動き回って、ふと気付くとそれは始まっている。
何かにささやかれたように振り向くと、私はハーと息を吐いて佇んでしまう。
灰色の雲の輪郭沿いに金色に輝く傾きかけた太陽の光。
空がだいだい色と青とグリーンのグラデーションに染まって、
雲の向こう側で火事でも起きているように揺れている。
流れる雲の切れ間から巨大な光の柱が伸びて、
山の西側の斜面や森の木々の梢や家々の壁を黄金色に輝かせる。
人の顔にもあたって、夏の終わりのような、青春の切なさのような、
初恋のときめきのような、いとおしいような、
失うのだけれど満たされていくような、そんな心を呼びさます。
 なぜなのだろう。私はその状態がとても好きなのだが、
その訳はいまだ説明しきれない。子供のころからそうだったし、
友達と遊び回って大さわぎしていた若い頃もそうだった。
彫刻家として歩み始めた不安の日々の中でもそうだったし、
結婚し、子供ができた時もそうだった。
 ちよっとした心の琴線に触れて思い出したように感じる
個人的な感覚ではない。もっとずっと遠くから知っていたような、
愛されているような、切なさと、穏やかさと、
最初から与えられているような、手放しの喜びのような、あの感じ。
 私たちを包んでいる現実は本当はこっちなんだと思い、
私は無性にうれしくなる。
 私たちは、どんな人間も、気付いていようと、
気付いていなかろうとあの祝福の光を浴びている。