グリーン・デスティニーの愛の描き方は不毛だが、深い。
炊飯器のスイッチをいれ、最後のハワイ・コナをポットにたっぷりと淹れた。ヘッドフォンを差し込み、PS2にセット。見始めたあとはただ引き込まれた。なぜ、無意識のうちに観ないようにしていたのか、わかったようにも思った。観終わって、まずしたことは飯を盛り紀州産の梅干しを二ヶその上に載せてエビアンをボトル半分ぶっかけて冷まし、冷や飯にしてかきこんだ。
そうした上で、以下は、感想。


唖然とした。
「信は真」を残して飛び降りたイェンは、伝説の若者のように
生還し新しい愛の伝説を生むのか否か。アン・リーはその答えを拒み、
クレジットロールの闇に余韻を託した。
この映画をワイヤーワークに絞って取り上げたすべての批評はとんだ間抜けである。

マトリックスもグラディエーターも、これに比べたら単なる紙芝居。
アジアおそるべしである。タン・ドゥンが作曲を引き受け、
ヨーヨー・マが演奏を引き受けた理由がわかったような気がする。
アカデミーで最後まで争いながらグラディエーターに負けたこともよくわかる気がする。
こういう余地は、欧米のハイソでは絶対に理解不可能なのだ。
神が一人では、あの結末を受け止めることはかなわない。
愛を描きたかった、というアン・リーのインタビューをどこかで見た記憶がある。
アン・リーはたしかに愛を描いた。
しかしこの愛のありようは、いまはまだ届かないのではないか。
ロゴスの欧米にも、子供の国、ニッポンにも…

イェンは、ほんとうはなぜ飛び込んだのか。アン・リーが描きたかった当初のもくろみは、ムーパイとの関係だったのではないか、そんなふうにも読んでみると、映画が与えられた2時間という制約が多くの可能性を殺していることに思い至る。

ブロードバンド時代というのは、こうした興業上の約束事がいつのまにか成文化してしまったような喜劇をすべてぶち壊すことになるのではないだろうか。

そんなことも夢想させられた。