時代はやがて「明治」へ=釧路地方、江戸期の遺産 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』890330
 時代はやがて「明治」へ=釧路地方、江戸期の遺産 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』890330
260819  8903030  加茂家干場台帳 釧路町教育委員会.jpg
江戸期の遺産 江戸期の釧路の様子をそれぞれ具体的に見ていると、江戸時代に芽を出しつつ明治にいたり花ひらいたものが少なくないことである。

なんといっても漁場の形成が第一である。
明治になって釧路は函館の経済圏の中で発展したが、このモノの流れもすでに江戸時代においてできあがったシステムであった。内陸の開拓の担い手として東北・北陸の移住者たちの役割が大きいが、これは明治になって急にはじまったものではなかった。江戸時代すでに東北の漁業者たちが自分達の仕事場としてしげくかよってきていたことである。

 つとめて下北地方との結びつきの深さを取りあげておいた。
航空機や青函トンネルはもとより、青函連絡船で行き来する時代にあってさえ、すでに下北は我々にとって遠い、ゆかりのない存在であったかに見える。ところが江戸時代には、釧路-襟裳岬-恵山岬-下北半島は1本の線で結ばれた、ごく身近な地域であった。
 明治の開拓を論ずるときしばしば「屯田兵(とんでんへい)制度」が話題になる。そのはしりは白糠にはいった八王子同心にすでにみられている。白糠・石炭岬の石炭採掘を囚人労働によりすすめるなど、明治にはいってからの北海道開拓の方法のいくつかはすでに江戸期において試みられていた。

 石炭の採掘やコンブの中国への輸出など、鎖国から開国への日本の歴史のダイナリズムにもゆれうごく地域であった。
鎖国体制の中の黒船だってペリーばかりでなく厚岸湾や根室にきたものなどあって〃北の黒船〃として国際社会の緊張を伝えてくれる。北浜の地で学ぶ地域史は、長い時間をかけて形成された日本史の流れを、わずか数百年の間に凝縮して展開させてくれているのかの感がある。

 ともかく、原住民のアイヌ民族は、自然採集経済によりつつ、千島や樺太を通じユーラシア大陸との交渉があった。
全国統一政権の成立や本州商人の蝦夷地進出は、モノの流れを松前・箱館、さらには上方、江戸へと変えてしまった。アイヌ民族にとっては生産と流通の手段も資本も全く異なり、まさに異文化との接触であった。あわせて原住民の固有の文化を否定してしまうことにもなった。かくて交易と漁業と交通の中心地の形成が進められる。明治に引き継がれる臨海部の地域形成が、実は江戸時代から進んでいた。ことさら江戸時代の人々の努力をかたわらにおいてしまうこともあるが、その胎動に気づいていただけたら幸いである。
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豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし かわる河口」 『北海道歴史探訪』
豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし かわる河口」 『北海道歴史探訪』
260801   鰐口 石崎神社01.jpg 
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
 (駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。

豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
 (駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。

豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
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トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
 トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
260801  釧路昔むかし 掲載ページ.jpg
シラヌカ場所を統合 享和2年(1802)に幕府は、独立していたシラヌカ場所をクスリ場所にくみこみ一つの場所とした。また、アッケシ場所との境を東に移し、これまであいまいにされていた、内陸の場所境も明確にするようにした。
 ひとつは幕府が蝦夷地を経営するうえで、交通の整備や生産活動を効果的に行うためのものである。2点目は、これまで経済の単位として利益を生み出す対象にしかすぎなかった地域を、行政の単位として位置づけたことである。

隣接地との境界 クスリとアッケシの場所の境は、享和元年(1801)まで釧路町・昆布森の西にあるアチョロベツ川にあった。この年、仙鳳趾より東へ一里十九丁ニ十間さきのモウセウシに移した。現在の厚岸町と釧路町の町境である。その理由はアッケシ場所の面積が広いのに、アイヌの人数が少ない。それでは、道路工事、荷物輸送の距離がなくなり、人夫が不足でこの負担がたいへん、ということになった。役人や警備の藩士が頻繁に来るから荷物輸送にかりだされる機会の距離も増える。場所境をアッケシ側に無理やり移し、場所の面積をせまくしたのである。
 クスリとシャリの境は文化年間(1804~18)にケネワッカヲイというところに決められた。クスリとシャリの道をつくるため、クスリ、シャリ、ネモロのアイヌが動員された。ところが、この3者の中で、クスリのアイヌの勢力がすこぶる強い。クスリのアイヌは道路工事の範囲を縮小するため、それまでの場所境であるヲタウニから20丁くらいクスリよりのケネワッカヲイ(中標津町計根別のあたり)に強引に移したという。
 (「場所境の選定と国泰寺設置」 ホッカイネット『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
  https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-4.html )
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八王子同心二題 その足跡&農業と道路つくり 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816
八王子同心二題 その足跡&農業と道路つくり 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816

八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。
260816  釧路歴史探訪 HokkaiNet  自著  Small.jpg
 なぜこの場所が選ばれたのか。
 蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
 これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。

 白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
 享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
 文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。

農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
 (1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
 (4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
 大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。

 阿寒で硫黄・明礬をとった。
 原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
 道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
り 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816

八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。

 なぜこの場所が選ばれたのか。
 蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
 これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。

 白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
 享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
 文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。

農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
 (1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
 (4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
 大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。

 阿寒で硫黄・明礬をとった。
 原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
 道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
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八王子同心シラヌカ移住者記録 『御寺建立以前之過去帳』史跡国泰寺跡蔵
 八王子同心シラヌカ移住者記録 『御寺建立以前之過去帳』史跡国泰寺跡蔵

 「(享和二年)五月十八日 八王子」「一.宗無信士 八木正蔵」。以下、十五名の法号と姓名が記載された、記録。
 史跡国泰寺跡に継承された『御寺建立以前之過去帳』に記載の一節。
 享和二年は一八〇二年、文化元年は同〇四年。その年に物故者となったことを示す。
260801  御寺建立以前之過去帳 八王子同心 白糠太字.jpg
 「八王子」は現在の東京都下、中央本線沿線に位置する都市。
 往時は武蔵国にして甲府街道の<江戸の西の守り>の位置にある。
 江戸時代中期ごろから、生糸や絹織物が盛んに商われ、「桑都 そうと」の異称すらあった地なのだ。

 「桑も栽培できる」。 寛政十一年正月、幕府が蝦夷地太平洋岸の浦河~知床を仮直轄した。
 この政策をうけ、八王子にあった原半左衛門胤率いる同心100名が蝦夷地警備にあたり、それぞれ50人ずつが勇払と白糠に入る。
 しらぬか叢書『白糠町史』は、寛政十二年三月に武蔵国八王子を発ち、同四月下旬か五月の初旬ころ、白糠に到着したとする。

 翌年にはさらに勇払と白糠に各十五名の追加派遣があったというから、総勢各六十五名の入植であるも、たちまち犠牲者を出すことになったのであろう。
 享和二戌年。つまり一八〇二年 イヌの歳二月からの犠牲者が記録に登載されてあったのだ。
 
 史跡国泰寺跡の初代住職は、アッケシに旧暦神無月に着し、翌霜月3日に往生していた。
 このこともあり、『御寺建立以前之過去帳』は二世萬善住職の世に、十勝以東択捉までの地を巡回した時点で、記載され法号が追増されたもので、その典拠記録は明らかではない。

 故に文化年間(一八〇四~一七年)までには記録され、記録継承地に所在の記録たる点は確実である。
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沖縄・広島・長崎被災 ポイント「(天皇)近衛が知らぬなら・・・」 「関口宏の一番新しい」260725 BSTBS
 沖縄・広島・長崎被災回避 ポイント「(天皇)近衛が知らぬなら・・・」 「関口宏の一番新しい近現代史」260725 BSTBS
260812  260725  KIMG4815  近衛上奏文 七重臣09.JPG
 「近衛公爵上奏文」の題名は「敗戰ハ遺憾ナカラ最早必至ナリト存候、以下此ノ前提ノ下ニ申述候」。
 45年2月14日 「近衛上奏文」を耳にした天皇は、近衛に下問五項目、うち三問目と四問目。。

 (御下問)「人事の問題に結局なるが、近衛はどう考へて居るか」。
 (御答)「それは陛下の御考へ……」。
 (御下問)「近衛にも判らない様では中々難しいと思う」。
 (御答)―略―

 (御下問)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。
  臆する部に、時局を停戦に導くための組閣。その人事に簡易して、当時の複雑な背景を示すか。
 近衛も「戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか」。「之も近き将来ならざるべからず」。「半年、一年先では役に立つまいと思ひます」。
 半年、一年先でも、勝機は来ない、

 七重臣で近衛は孤立。主従臣下、この決断の躊躇が沖縄・広島・長崎の大惨事に。
 掲示画像中「近衛上奏文は、親英米派の元外交官・吉田茂らが作成に協力」の事情。
 近衛は吉田邸に一泊して上奏文案を相談、と。しかし邸内の女中&書生はスパイだった、。

 後日、吉田は憲兵隊に拘束され取調。女中&書生はその後、近衛宅で盗聴を続けた。
 吉田の実績。のちにGHQは吉田を軸に、占領政策。と。
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沖縄・広島・長崎に先立ち 45年2月「近衛上奏文」 「関口宏の一番新しい近現代史」260725 BSTBS
 沖縄・広島・長崎に先立ち 45年2月「近衛上奏文」 「関口宏の一番新しい近現代史」260725 BSTBS
260812  260725  近衛上奏文 吉田茂.jpg
45年2月14日、時の総理大臣 近衛文麿は「敗戦は必至なり…」と上奏した。
 まず平沼騏一郎と広田弘毅、次に近衛、後に牧野伸顕、岡田啓介、東條英機が上奏した。
 その順は、2月7日=平沼騏一郎 2月9日=広田弘毅 2月14日=近衛文麿
 2月19日=若槻禮次郎 同日 - 牧野伸顕 (元内大臣) 2月23日 - 岡田啓介 2月26日=東條英機.

近衛は冒頭の主文で「戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる」と。以下、その要因を述べたと、される。
 上奏文の執筆には戦後の総理 吉田茂が関わっているとされている。前段に陛下は、同年1月6日に米軍がフィリピン島を攻撃したことを知り、重臣の意見を求めた。

 東条が独り戦闘継続を主張。近衛のほかは態度を保留した、と。
 沖縄・広島・長崎に先立ち近衛上奏文が・・・・・。
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総理の沖縄・広島・長崎行脚 プレミアムシネマ「日本のいちばん長い日」を視聴260811
総理の沖縄・広島・長崎行脚 プレミアムシネマ「日本のいちばん長い日」を視聴260811
260812  高市 沖縄広島長崎.jpg
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食糧自給率37% 輸入依存体質 物価高騰減税など飛び散らす円安 
食糧自給率37% 輸入依存体質 物価高騰減税など飛び散らす円安260809 
260810 高市政局 円安懸念 USA介入&日銀.jpg
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調べる力 考える力で、創る力を示す くしろ港まつり79th市民踊りパレード
 調べる力 考える力で、創る力を示す くしろ港まつり79th市民踊りパレード
260808  市民踊りパレード くしろ港まつり79th 正面&背中.jpg
 昨8日は市民踊りパレードで、参加団体11団体1100人余の名前。
 そこを気にしながら、これは地域再生を担う、新しい時代のエネルギーか、と。そう思いながら、見つめていました。
 釧路市長 釧路市連合町内会長 釧路市議長 釧路市議会議員団
 三ツ輪グレープ、
 大平洋興発 150人参加、
 孝仁会、
 丹頂の園
 (続くは、長く定番)
 北洋銀行釧路中央支店
 釧路しんくみ
 釧路信用金庫、
 釧路市連合町内会。
 デズニィGlass
 神楽坂なにがし連
 子どもいか踊り2026
 くしろ涼しい夏
 釧路湿原シニア大学&大学院+確認できなかった団体5団体+個人参加者
 漁業者の団体=魚河岸や、単身赴任者ばかりで戦力にならずに姿を消したか、開発建設部や釧路総合振興局等々。

 でわ、釧路湿原シニア大学&大学院って、どんな貢献度かと。
 自身の頭で考え、自分で選んだ言葉で発信し、学び続ける姿。それを背中で示す。
 2024年が民営化して20年、第10期生を受け入れた点を記念して、初参加。
 3年目の2036年は32名の参加があった。

 1970年、魚の水揚げ量 日本一。それを誇った時代、3000人規模に比べると、地味。
 しかし、はるかに地域の未来を支えていく、力強いパレード。
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