蝦夷地幕領化政策で派遣、警備&経営者の人心安定 東蝦夷地伝承の文化財―前―
蝦夷地幕領化政策で派遣、警備&経営者の人心安定 東蝦夷地に伝承の文化財1802―前― by Hirotsugu Sato
260812  御寺建立以前過去帖 国泰寺所蔵 八王子同心.jpg
転じて「原胤篤奉納鰐口」伝承の意味を、3点、説明させていただきます。

江戸幕府は寛政11年正月16日に東蝦夷地のうち浦河より以東、知床までの地を7年間、仮直轄します。
田沼意次期から重ねてきた蝦夷地調査により、本州商人と季節出稼ぎ労働で獲得される蝦夷地の鉱産・俵物輸出、加えて薬草など、その有用な資源で幕府財政を補完する政策を実施することになりました。
厳しい緊縮財政のもと中華蛮夷思想で「近隣・境界」に位置する領域を、異域=異国に領有させぬための施策です。

浦河以東知床までの領域であっても、江戸―蝦夷地間の海上直航路、陸上交通施設整備、対アイヌ民族交易と江戸地廻り経済を支える資源搬出をめざす施策には、多くの投資と通年=越冬生活者を確保する手立てが不可欠でした注2)。
甲府街道の固めとして営農のかたわら街道警備にあたる八王子千人同心には、次三男の急増による人員余剰の局面にあり、将軍家の要請に応じた蝦夷地出願も、その解決の一方法とされていました。
 ※注2 佐藤宥紹「蝦夷地幕領化政策の意義~『休明光記』からみた奥場所の開発 ~ 」(釧路市立郷土博物館紀要第6輯 1979年)
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「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」「海とこれからも 〜石川県 能登島〜」
 「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―後―
260821  イルカと出会う 小さな旅7001.jpg
 能登半島のなかほど、能登島にはおよそ2200人が暮らす、と。 
 「イルカに会える喫茶店」。そう聞いて入った喫茶店には、坂下さとみ(61歳)さん。 イルカが彼女の立つ浜辺に現れたのは40歳の時。シングルマザーで子育て。ために懸命に働いていた。

 ところが2025年の地震で今度は、災難。喫茶店は「足の踏み場もないほどに、皿が産卵」。
 家は「家具も倒れて、みんな粉々に」。避難住宅住まいを、余儀なくされた。
 三度目は災難。さとみさんは「もうOUTやと思って、店をやめる覚悟をしました」。

 1)にシングルマザーながら娘の成長を見届け、2)その娘が生まれたばかりの子を残して、家を出た。
 娘の母また、孫の子育てに没頭することに。子育ても軌道に乗ったところで、大地震。
 そこに、イルカを通じて出会った人からのメッセージが届く。「FaceBookを通じ、連絡先がみつかった」。

 「お気持ちを強く持っていきましょう」。「必ず坂下さんとイルカに会いに行きますから待って居てください」。
 店主は「やらねば」と、3か月後、店もイルカWatchingも再開する。知ったお客様が舞い戻り、イルカに再会、お客たちの大歓声にイルカも応じてくれた。

 しみじみ、語る、二つの勇気鼓舞するセンテンス。
 一に、「勇気をもらったイルカです、この美しい海は」「永遠と人を癒やす力は変わらない」
 二に、「いろんな人、観光が戻ってきて」「元気になるまで、それまで私は倒れないないで、娘や孫の代になるまでに『婆ちゃんは、こんなこと遣っとったんだ』よいうことを、『ウン、バトンを渡すまで』、私の元を守るまで、それが役割りかな」、と。

 結びに、訪問のアナウンサーが一言。
 イルカのお蔭で前を向けた、坂下さんの感謝の気持ち、です(終)。
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「美しい海は永遠と人を癒や」イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―中―
  「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―中―

 能登半島のなかほど、能登島にはおよそ2200人が暮らす、と。「イルカに会える喫茶店」。
 そう聞いて入った喫茶店には、坂下さとみ(61歳)さん。 
 イルカが彼女の立つ浜辺に現れたのは40歳の時。シングルマザーで子育て。ために懸命に働いていた。

 しかし娘は、生まれたばかりの子供を残し、家を出てゆきました、と。
 またまた、孫の育児を独りで、抱え込むことに。
 「家庭環境もいろんなことがあって」「人は一つのことを抱えると、いっぱいです」「それが当時は、3つも4っつも五つもあって」。ここで、イルカに励まされる事、2度目。
260821  KIMG5333  坂下&喫茶店 能登島 小さな旅.jpg
 「そんなとき、『なにを悩んで居るんだ』と、イルカが言ってくれたような気がして」。
 「なんで自分は前をむかないのだろう」とか、「こんなことを考えている自分が、(なにも)考えなくていいんだ」「自分は自分だ・・・し」。
 「前向きな自分に、変化して、行きました」。4年後、イルカに出会った場所に喫茶店を建てる。
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「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」―前―
「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―前―
260821  能登島イルカ 能登島&坂下小さな旅KIMG  7001.jpg
 イルカに3度救われた。能登半島のなかほど、能登島にはおよそ2200人が暮らす、と。
 「イルカに会える喫茶店」。
 掲示に誘われて入った喫茶店には、坂下さとみ(61歳)さん。 能登島で喫茶店を経営している。

 アナウンサーが船で案内してもらうと女将さんの「おはよう」に、ミナミハンドウイルカが姿を見せる。24年前、能登島の海に2頭。突然、姿を見せたのだそうだ。
 そのまま数を増やし、いまや21頭。

これが一度目。坂下さんが初めてイルカと出会ったのは40歳。
仕事帰りに夕日を眺めて居た時でした。「ここに座っていたら・・・、そこに居たのです」「その時は2頭です」「後ろ姿、背びれが見えたので、イルカだって」。
「ウーン、と。2分くらいかな」「その2分は、私にとって忘れられない時間」。「ながい、ながーい時間(だった)」

 彼女はそのとき、疲れていた。
 シングルマザーだった彼女は、温泉旅館の仲居として懸命に働き、二人の娘を育てた、。と。
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甲府で江戸西北の固め八王子同心、蝦夷地で江戸北東を堅固  白糠鎮守三十番神社
 甲府で江戸西北の固め八王子同心、蝦夷地で江戸北東を堅固  白糠鎮守三十番神社
 八王子同心は甲府にあって江戸の西北を固めていました。
260801  掟 国泰寺 将軍家建立寺院02  8001.jpg
初期蝦夷地幕領化=寛政11年正月―文化4年四月は、異域=異国との境界にあった領域を内国化する施策です。
東蝦夷地=江戸経済圏を幕領化し、西蝦夷地=日本海交易圏と北蝦夷地=樺太生活圏への結節を果たす構想で、シラヌカの地点は重要と位置づけられました。

その持つ意味は、江戸の西方を固める甲府と箱根関所に、裏鬼門にあたる増上寺。その東は会津と白河関所に表鬼門の増上寺です。
京都の石清水八幡宮と比叡山延暦寺に相当する体制が、江戸では甲府・箱根関所・芝増上寺。京洛の比叡山延暦寺にあたる会津・白河関所・上野寛永寺に相当すると考えるのが妥当です。

同心をシラヌカに駐屯させた幕府は江戸の東北を堅固するめ、幕吏が北海道指定重要有形文化財の円空作観音像に続き、同心千人頭が三十番神の社を築き法宝物の鰐口を奉納した営みと接続します。
そしてその後に、国指定史跡国泰寺跡を含む将軍家建立の「蝦夷三寺」に先行する信仰形態となりました。故に当該文化財は、同心のみならず蝦夷地の経営・警備にあたる人心の安寧・秩序に資することを志した金石文資料とすることができます。
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噴火で八丈島に避難、帰島試みるもネズミ被害に漂流&行方不明 天明五年青ヶ島噴火
噴火で八丈島に避難、帰島試みるもネズミ被害に漂流&行方不明 天明五年青ヶ島噴火

 「自然環境の厳しいところが、青ヶ島の宝」「これ以上の宝はない」。
 「青ヶ島は上陸したくても、なかなか上陸できない」「神様に選ばれた者ただけが上陸を許される」
260817  要害&見取り図 青ヶ島地.jpg
 伊豆諸島。八丈島から南へさらに70キロメートル。
 「秘境」と言われる青ケ島は、島そのものが外輪山で、なおかつ噴火口をもつ。
 わずかに島の南西部に連絡船の接岸港をつくることが出来たほどの、絶壁。
 天明5 1785年に最大の爆発があり「昼でも暗い日が八日間」。島民全員が八丈島に避難した。

 6年後の寛政元年に名主&島民12人が青ヶ島に調査で赴く。
 寛政4 1792年 前述の名主ら20人が青ヶ島に渡り、うち12人が島に残るも、ノネズミの被害甚大。。名主・三九郎らは八丈島に戻る。
 翌年、青ヶ島に残った者の内5名が八丈島に帰ろうとして行方不明。
 その翌年、寛政6 1794年には食を乗せた船が青ヶ島に向かうも、房州に流される。

 寛政9 1797年 名主・三九郎ら14人が青ヶ島に向かうも、紀州二木島へ流された。名主・三九郎を含めた11人が死亡。
 結局、享和元年 1801年には全員が引揚げ、青ヶ島は再び無人島に帰する。
 (「英雄たちの選択 シリーズ 知られざる島の歴史旅 (2)帰りたい〜火山島・青ヶ島 全島避難の軌跡〜」260817 NHKBS4K.)
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DNA相続の慈母 救済を歓び “釧路市民盆踊り72th”に三度目の参加 釧路湿原シニア大学&大学院260819
DNA相続に燃える慈母が救われる筋道を歓び “釧路市民盆踊り72th”に三度目の参加 釧路湿原シニア大学&大学院260819

午後7時から同8時10分まで、このマチのメーンストリートを交通遮断して催されました。
 釧路湿原シニア大学&大学院は、2,024、25、26年と本年が3度目の出場。
 2021年受講者に、講座担当者は「今年の盆踊りには、全員ででるぞー」。声をかけました。
260819  盆踊り72th  湿原シニア大学&大学院 KIMG  7001.jpg
 なぜ、盆踊り?。用意された講座枠で、話をしたことが・・・・・。
 その歳はなぜか、足並みが揃わぬままに、参加は丹念。その気に誘導された受講者も引不可思議ではあった、かも。
 その時、話した話題。「母性愛は第七感の末那識 まなしき の無意識階層」&「遺伝子相続、これぞ第八感の阿頼耶識 あらしき の深層心理階層」。

 往生した仏弟子の両親。現在の姿はと申すに。
 「父は笑顔で円満至徳」に対し、「母は食べ物ノドが通らず、水を呑むとたちまち火炎になる餓鬼道の姿」。
 なぜの問いに今日、生物分子学者が答えてくれる。「遺伝子は母から娘に継承される」。
 「女性だけでは、次世代を増やせないので、男性が必要」「男は無理して作られた性で、ために免疫力弱い、加えて不摂生を選ぶから、簡単に病没」。

 参加者は20人ほどで、男性は一割。「大学院受講者よりも、大学受講者が多い」と。
 昼間の港まつりには多くの男性が姿を見せた踊りパレード。盆踊りには女性が圧倒的に多かったのも「遺伝子は母から娘に相続される」が、潜在的に意識されていたのかも。

 母は娘に「私の期待に応える立派な遺伝子を」。ために女性は強くなられたが、故に餓鬼道に陥るほどの無理にムリを。
 そこを瀬戸内寂聴師の解釈。『源氏物語 宇治十帖』のむすびは<浄土教思想が女人救済を示して>結ばれている、と。
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時代はやがて「明治」へ=釧路地方、江戸期の遺産 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』890330
 時代はやがて「明治」へ=釧路地方、江戸期の遺産 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』890330
260819  8903030  加茂家干場台帳 釧路町教育委員会.jpg
江戸期の遺産 江戸期の釧路の様子をそれぞれ具体的に見ていると、江戸時代に芽を出しつつ明治にいたり花ひらいたものが少なくないことである。

なんといっても漁場の形成が第一である。
明治になって釧路は函館の経済圏の中で発展したが、このモノの流れもすでに江戸時代においてできあがったシステムであった。内陸の開拓の担い手として東北・北陸の移住者たちの役割が大きいが、これは明治になって急にはじまったものではなかった。江戸時代すでに東北の漁業者たちが自分達の仕事場としてしげくかよってきていたことである。

 つとめて下北地方との結びつきの深さを取りあげておいた。
航空機や青函トンネルはもとより、青函連絡船で行き来する時代にあってさえ、すでに下北は我々にとって遠い、ゆかりのない存在であったかに見える。ところが江戸時代には、釧路-襟裳岬-恵山岬-下北半島は1本の線で結ばれた、ごく身近な地域であった。
 明治の開拓を論ずるときしばしば「屯田兵(とんでんへい)制度」が話題になる。そのはしりは白糠にはいった八王子同心にすでにみられている。白糠・石炭岬の石炭採掘を囚人労働によりすすめるなど、明治にはいってからの北海道開拓の方法のいくつかはすでに江戸期において試みられていた。

 石炭の採掘やコンブの中国への輸出など、鎖国から開国への日本の歴史のダイナリズムにもゆれうごく地域であった。
鎖国体制の中の黒船だってペリーばかりでなく厚岸湾や根室にきたものなどあって〃北の黒船〃として国際社会の緊張を伝えてくれる。北浜の地で学ぶ地域史は、長い時間をかけて形成された日本史の流れを、わずか数百年の間に凝縮して展開させてくれているのかの感がある。

 ともかく、原住民のアイヌ民族は、自然採集経済によりつつ、千島や樺太を通じユーラシア大陸との交渉があった。
全国統一政権の成立や本州商人の蝦夷地進出は、モノの流れを松前・箱館、さらには上方、江戸へと変えてしまった。アイヌ民族にとっては生産と流通の手段も資本も全く異なり、まさに異文化との接触であった。あわせて原住民の固有の文化を否定してしまうことにもなった。かくて交易と漁業と交通の中心地の形成が進められる。明治に引き継がれる臨海部の地域形成が、実は江戸時代から進んでいた。ことさら江戸時代の人々の努力をかたわらにおいてしまうこともあるが、その胎動に気づいていただけたら幸いである。
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豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし かわる河口」 『北海道歴史探訪』
豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし かわる河口」 『北海道歴史探訪』
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日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
 (駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。

豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
 (駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。

豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
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トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
 トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
260801  釧路昔むかし 掲載ページ.jpg
シラヌカ場所を統合 享和2年(1802)に幕府は、独立していたシラヌカ場所をクスリ場所にくみこみ一つの場所とした。また、アッケシ場所との境を東に移し、これまであいまいにされていた、内陸の場所境も明確にするようにした。
 ひとつは幕府が蝦夷地を経営するうえで、交通の整備や生産活動を効果的に行うためのものである。2点目は、これまで経済の単位として利益を生み出す対象にしかすぎなかった地域を、行政の単位として位置づけたことである。

隣接地との境界 クスリとアッケシの場所の境は、享和元年(1801)まで釧路町・昆布森の西にあるアチョロベツ川にあった。この年、仙鳳趾より東へ一里十九丁ニ十間さきのモウセウシに移した。現在の厚岸町と釧路町の町境である。その理由はアッケシ場所の面積が広いのに、アイヌの人数が少ない。それでは、道路工事、荷物輸送の距離がなくなり、人夫が不足でこの負担がたいへん、ということになった。役人や警備の藩士が頻繁に来るから荷物輸送にかりだされる機会の距離も増える。場所境をアッケシ側に無理やり移し、場所の面積をせまくしたのである。
 クスリとシャリの境は文化年間(1804~18)にケネワッカヲイというところに決められた。クスリとシャリの道をつくるため、クスリ、シャリ、ネモロのアイヌが動員された。ところが、この3者の中で、クスリのアイヌの勢力がすこぶる強い。クスリのアイヌは道路工事の範囲を縮小するため、それまでの場所境であるヲタウニから20丁くらいクスリよりのケネワッカヲイ(中標津町計根別のあたり)に強引に移したという。
 (「場所境の選定と国泰寺設置」 ホッカイネット『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
  https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-4.html )
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