名物・名所に人手と祈り 「特別天然記念物 杉の大杉 高知県大豊町」261005
 名物・名所に人手と祈り 「特別天然記念物 杉の大杉 高知県大豊町」261005
261005  注連縄00  01  02 飫肥 杉の大杉 NHKKIMG.jpg
 四国・高知県大豊町の「特別天然記念物 杉の大杉」は樹齢3000年。
 高さ60メートルの巨樹は「出世杉」の異名をとり、不可思議な霊験があるとされる。
 幹に注連縄、「特別天然記念物 杉の大杉」の石標、石製祠に八坂神社拝殿も見える。

 太古の昔に須佐之男命(すさのおのみこと)が植えたという伝説。
 大スギは、南大杉、北大杉と呼ばれる二株からなっており、根元で合着していることから、別名、夫婦杉とも。
 南大杉は根元の周囲が約20メートル、樹高が約60メートル。北大杉は根元の周囲が約16.5メートル、樹高が約57メートル。いずれ「夫」にして、いずこ「婦」たるや。

 大スギ 巨大しめ縄交換 長さ30メートル 氏子ら手作り。
 直径約30センチ、長さ約30メートルの「手編みのしめ縄」は、毎年10月下旬、氏子総出で取り組まれる。
 台風で落下してしまうこと、も。地元集落は過疎高齢化の課題を抱えながらも、この‟大杉さん”を守る。
 地域の名物「どぶろく」や、落ちた枝をいかした木工品を通して、全国のみなさんとつながりを広げたい!、とも。

 名物・名所に人手と祈り、である。着目せねば。
コメント (0)

徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話―結―」
 徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話―結―」
 (とくしまけんじんいじゅうとあかん 2009年2月15日放送用)
261003  140111  徳島県移住と阿寒04&地理院図 地域学地域史HP.jpg
●明治40年の「徳島団体」移住のあと、こんどは昭和初期に仁々志別にきていると、いうことですが。

徳島のどこから?ということは不明ですが、昭和3年にも徳島県人が、仁々志別川流域に移住しています。
時代によって徳島県人の移住は入植地がかわります。中心街=舌辛川と阿寒川との合流点に移住してきたことにはじまりますね。明治30年代初頭のことでした。
ついで40年になると、奥地の飽別川や徹別川と阿寒川の合流点に入植地が移っています。昭和初期になると支流の仁々志別川流域へと変化しています。

●前回は香川県、今度は高知県と德島県の移住の話でした。

 明治維新後、徳島から北海道への移住といえば、静内に入った稲田家家臣団(明治4年)にはじまり、上富良野に明治40年に団体移住してきた例もあります。
 そもそも江戸時代から、北海道と徳島はむすばれていました。四国での阿波藍の栽培に北海道産のニシン〆粕が、貴重な肥料源であったということです。

 輸送にあたった、高田屋嘉兵衛も実は阿波藩の淡路出身(淡路は現在でこそ兵庫県に属していますが)です。
 実は計画倒れにおわるのですが、明治25年7月、徳鳥県知事は県民20万人を北海道に移住させるという計画を作ったとされています。
 その数は、当時の県民70万人の、実に3分の1弱という数になりますから、実現したとすればにたいへんな計画です。それだけ基幹産業たる藍業の衰退で、県の産業経済の停滞と不振が実に深刻であったことを、物語っています。

●ワンポイント 前回は砂糖が打撃、今回は藍産業の不振が移住の引き金です。藍は染色。背景に江戸時代に木綿が庶民に広く普及し、保温・意匠、染色、加工の利便性から木綿の衣類は幅広く利用されます。本日紹介した「徳島県人移住と阿寒」。その背景には、木綿とむすぶ染料としてかかせない「阿波藍」に生じた価格変化も、引き金の一つとなっていました。
コメント (0)

徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話―転―)
 徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話―転―)
(とくしまけんじんいじゅうとあかん 2009年2月15日放送用)
 
●初期の開拓の様子ですが、どのように伝えられていますか。
明治30年にそろって土地の払い下げを求めた高知の方は翌31年、徳島の方は
32年に阿寒へやってきます。
261003  140111 徳島県人 阿寒移住 前田正名ー3-.jpg
『阿寒町史』には、徳島から24歳のときにおいでになった方の回想記がのこされています。アイヌの方に「シャモは度胸がい」と、冷やかされた話です。
小屋をつくるために兄弟二人でヨシを刈っていたら、突然、アイヌのヒトが鉄砲をもって登っていったということで。その、理由が「作業をしていたそのすぐそばに大熊がいた」というわけです。現在の阿寒中学校付近での出来事です。

●徳島からの移住は、その後もつづきますか?。
明治30年初頭に移住された方は、香川県との境に近い位置からから現在の阿寒町中心街にはいります。三好郡は香川との県境の北部、吉野川にそった徳島自動車道沿いに位置する
 同40年ころになると、徹別(てしぺつ)川や飽別(あくぺつ)川との合流点、つまり49線とか56線という北部地区への移住です。那賀郡は那賀川流域で県の中央部。

こちらは小川茂平という方が率いてきた移住です。
小川という方は、県南東部から明治21年に、十勝の池田に来た方です。一度、故郷にもどり、明治40年に34戸をまとめて、団体移住で入植します。《徳島団体》と呼んでいます。

時代がくだりますから、阿寒でも奥地の方に開拓地をもとめることになります。
こちらの移住では、一面、《ナラ林》という話が残っています。
一帯はナラの原始林。木材が太い大木《たいぼく》ばかりで、家を建て、燃料を確保するのに、《やっと細い木をさがしあて、利用する》というわけです。
ただ、「地理的条件がよくなかったため、徳島団体は四散」したと、いうことです。
コメント (0)

 徳島県人移住と阿寒 徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 ―2― )
 徳島県人移住と阿寒 徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 ―2― )
  (とくしまけんじんいじゅうとあかん 2009年2月15日放送用)
 261003  140111 徳島県人 阿寒移住 前田正名ー2-.jpg
●初期の開拓の様子ですが、どのように伝えられていますか。
明治30年にそろって土地の払い下げを求めた高知の方は翌31年、徳島の方は
32年に阿寒へやってきます。
『阿寒町史』には、徳島から24歳のときにおいでになった方の回想記がのこされています。アイヌの方に「シャモは度胸がい」と、冷やかされた話です。
小屋をつくるために兄弟二人でヨシを刈っていたら、突然、アイヌのヒトが鉄砲をもって登っていったということで。その、理由が「作業をしていたそのすぐそば
に大熊がいた」というわけです。現在の阿寒中学校付近での出来事です。
 
●徳島からの移住は、その後もつづきますか?。
明治30年初頭に移住された方は、香川県との境に近い位置からから現在の阿寒町中心街にはいります。三好郡は香川との県境の北部、吉野川にそった徳島自動車道沿いに位置する
40年ころになると、徹別(てしぺつ)川や飽別(あくぺつ)川との合流点、つまり49線とか56線という北部地区への移住です。那賀郡は那賀川流域で県の中央部。
こちらは小川茂平という方が率いてきた移住です。小川という方は、県南東部から明治21年に、十勝の池田に来た方です。一度、故郷にもどり、明治40年に34戸をまとめて、団体移住で入植します。《徳島団体》と呼んでいます。
時代がくだりますから、阿寒でも奥地の方に開拓地をもとめることになります。
こちらの移住では、一面、《ナラ林》という話が残っています。一帯はナラの原始林。木材が太い大木《たいぼく》ばかりで、家を建て、燃料を確保するのに、《やっと細い木をさがしあて、利用する》というわけです。
ただ、「地理的条件がよくなかったため、徳島団体は四散」と、いうことです。
コメント (0)

徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話ー1ー)
徳島県人移住と阿寒 FMくしろ「釧路歴史探訪 146話ー1ー)
(とくしまけんじんいじゅうとあかん 2009年2月15日放送用)
261002  100225  徳島団体と阿寒入植.jpg
●今回は隣の徳島県からの移住ということになりますが、現在の阿寒町に来る時期は明治30年代ですね。
 土地払い下げの申請書から探してみました。

 明治30年7月17日には徳島県三好(みよし)郡三庄(さんしょう)村大字中庄(なかしょう)村の方が、舌辛原野17線で3万5050坪(約10.5ha)の土地払い下げを申請しています。
 10月9日には高知県長岡(ながおか)郡五台山(ごだいさん)村字五台山の方が、舌辛原野13線に1万7950坪の土地払い下げを求めています。 
 ※五台山は現在の高知市
 德島の方は現在の北新町で阿寒中学校付近に、高知の方は下舌辛というか旭町付近に土地を求めたことになります。※三庄は東みよし町 さんしょうしょうがっこう 

●国有地を肺下げてもらえるといっても、北海道まで来た理由はどこにもとめられるのでしょうか。
 『阿寒町史』は、阿寒町が本州諸県から移住してきた理由として、
 ①本州の狭い土地より北海道の広い土地で働きたい、
 ②田畑がせまく生活困難、
 ③内地で小作しているよりも、北海道で土地持ち農家をめざすなど11の移住理由を、拾い上げています。

 さきほど德島の方がいちはやく、土地払い下げをうけたケースを紹介しました。
 德島といえば伝統工業に《阿波藍=あわあい》と呼ばれる染料があります。明治20年代の後半はその、藍生産が外国産化学染料に押され、不振になっています。
コメント (0)

政府官僚、殖産興業、阿寒国立公園に名声〝前田正名ゆかりの地” 指宿郡山川町新生町「薬草園広場」261001
維新政府の官僚、殖産興業に挺身、阿寒国立公園うみの親〝前田正名ゆかりの地” 指宿郡山川町新生町「薬草園広場」261001
261001  051104 薬草園&案内板 山川町 前田正名関係.jpg
父・前田善安が、鹿児島 島津家の漢方医で、のちの指宿郡山川町で、前田正名は誕生とされる。
指宿郡山川町新生町35番地に「薬草園広場」として継承し、大名家の設けた薬草園3地点の一。
そこに【種名】=リュウガン; 【学名】= Dimocarpus longan; 【科名】=ムクロジ科; 【属名】=ムクロジ属の一樹が残る。

1986年5月、そのリュウガンの梢を見上げて写真を撮影したのであるが、そのポイントを探りあてた経過は、今ひとつ、あいまいなままなのだ。
島津家が設けた薬草園。
一に「山川薬草園」 指宿市山川新生町35−14
 二に「佐多旧薬園」 南大隅町佐多伊座敷3639番地。
 三に「鹿児島市吉野町2472(吉野小学校内)」

 「山川薬草園」は、島津氏設けた「最も古いのが,万治2年(1659)に開設された山川」(「山川薬園跡及びリュウガン」 指宿まるごと博物館)とする。
コメント (0)

東京五輪の翌年&日本経済の踊り場 1965年、暮らしと街並みYouTube260930
 東京五輪の翌年&日本経済の踊り場 1965年、タイムスリップ 日本の1965年 あの頃の暮らしと街並みYouTube配信から260930
260930 1965年 日本 10題ニュース YouTube.jpg  HP.jpg
1)12月18日 日韓条約が締結される。
  韓国併合条約らの失効、外交関係樹立で李承晩ライン撤廃、戦時賠償に終止符の立場採るも。

2) 7月1日 名神高速道路が開通する。
 日本初の本格的高速道路、人の往来&モノ輸送を高速化し都市とも結合、高度経済成長の支え.

3)5月28日 山一証券が経営危機に陥る。
 日銀、金融特需発動、大井証券&山陽特殊製鋼の倒産にも波及、口座保有者が会社に駆け付ける恐慌状態。

4)10月1日 国勢調査で日本の人口が9827万人を記録する
 コンピュータ集計が登場、総人口99,209,137人と1億人に迫る、地域人口分布の不均衡解明で各調査員の担当する調査区ごと=小地域統計のはしり。

5)6月12日 家永教科書裁判が始まる。
 『高校日本史 三省堂』記述が暗すぎる 国家の教育権と表現の自由&公共の福祉、教科書検定制度。

6)9月14日 大阪で万国博覧会の開催が決まった。
 1970年3月14日~9月13日まで、入場者総数は6,400万人以上。2月条約加盟、9月メルボルンしのぎ開催決定。

7)10月24日 ホンダ自動車がF1グランプリで優勝する。
 場所はメキシコGP、オートバイメーカーが4輪モータースポーツの最高峰にチャレンジ、挑戦2年目の初優勝。

8)4月 ソニーが家庭用ビデオデッキCV2000を発売する。
 価格19万8000円 当時としては驚異的な安さでた世界最初の家庭向け、ベータ方式。

9)4月3日 黒沢明監督が映画赤ひげの公開が始まる
 原作者をして「原作よりいい」 興行的に大ヒット日本映画の興行収入ランキング1st,
海外でもいくつかの賞を受賞

10)10月6日 テレビのカラー映像でジャングル大帝が放送を開始する
   『漫画少年』連載の手塚治作品、フジテレビ系で放送開始。後に輸出され米国を初めとする世界の多くの国で放送52回。

 https://youtu.be/BoA9oVkuTVU?si=Do4WFAswworSlwb5
"タイムスリップ 日本の1965年 あの頃の暮らしと街並み" を YouTube で見る
コメント (0)

 「善悪を区別せず僕の罪さえ活用し救いに」 遠藤周作「深い河」前編 NHKETV260921
 「善悪を区別できぬ、僕の罪さえ活用し救いに向けていく」 遠藤周作「深い河」前編 NHKETV260921
260921  深い河 日本人に嘘をいわない 井上&遠藤 深い河NHKETV  5001.jpg
 「風の会」主宰者の井上洋治牧師と作家 遠藤周作が自らの人生を投影した「日本人にとってのキリスト教」。
 なにが、「日本人に嘘をつかぬ基督教」「日本人の心にあう基督教を考えたいんです」と、言うことになるのであろうか。
 NHKETV「こころの時代〜宗教・人生〜  没後30年アンコール2回シリーズ 」=
 遠藤周作 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」で紹介の部分。そこをアレンジして掲載画像で。

 一にその部分の記録が見つからぬ煒のだが、「神が来い、来いと呼んでくれているのです」(後で原典を開き、確認しておくも)。
 二に、ゼロか1かの二進法でとらえず、あいまいに受け止める。
 三に、東洋思想的受容と異端視の瀬戸際にあるも<日本人の心にあう基督教を>と西洋思想に身を置く。

 こころの時代〜宗教・人生〜  没後30年アンコール2回シリーズ
 遠藤周作が自らの人生を投影した登場人物を交差させ、という生涯のテーマの集大成として書き上げた『深い河』。その魅力と思想を探る。(NHKETV 260921)
コメント (0)

日本人である自分の心に嘘つかずキリスト教を 遠藤周作「深い河」前編 NHKETV260921
 (井上神父は)日本人である自分の心に嘘をつかないで、キリスト教をとらえなおし 遠藤周作「深い河」前編 NHKETV260921
260921  井上神父&遠藤周作 深い河NHKETV.jpg
 (出演の山根道公氏)
 遠藤さん自身が「(小説『深い河』=主人公の大津には)モデルがいて 井上洋治神父なんだ」と、。一緒にフランスに行ったという。

 (井上神父は)日本人である自分の心に嘘をつかないで、キリスト教をとらえなおしていく。
 その姿が大津と井上神父と重なるところ。

 (出演の若松英輔氏)
 遠藤さんも井上神父さんも、一人は文学の世界で、一人は宗教の世界で。

 あの二人がいたおかげで、宗教と文学が本当に響き合える、何かになった。

こころの時代〜宗教・人生〜  没後30年アンコール2回シリーズ
遠藤周作 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」 放送日Eテレ9月21日(月) 午後10:50  
【出演】C・若松英輔(初回放送日 2023年8月25日(金))

遠藤周作が自らの人生を投影した登場人物を交差させ、「日本人にとってのキリスト教」という生涯のテーマの集大成として書き上げた『深い河』。その魅力と思想を探る。

遠藤周作が臨終に際し「自らの棺に入れてほしい」と願った遺作『深い河』。それは、彼が作家として終生追い求めた「日本人にとってのキリスト教」「宗教の本質とは何か」という最大のテーマへの最終回答となった。遠藤文学との出会いによって人生が変わったと語る山根道公さんと若松英輔さんの対話による読み解き、俳優・加瀬亮さんの朗読によって、遠藤周作が『深い河』に込めた現代の人々に向けたメッセージを探ってゆく。(初回放送日 2021年10月31日(日))
コメント (0)

受忍論=非常事態で犠牲は「一般の犠牲」だ 「受忍の国」BSTSS1930 
受忍論=非常事態で犠牲をうけでも「一般の犠牲」と受け入れる 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円 「受忍の国」BSTSS1930
260927  階級別軍人恩給額 BSTBS250310  7001.jpg
 1931年に始まった15年戦争。45年8月15日のポツダム宣言受託をもって戦争は終わったわけではない。
 戦争は戦地で、職業軍人によってのみ、展開するモノではない。
 大都市空襲、沖縄戦、中小都市空襲、広島・長崎の被爆。本土が戦場に、市民が死傷し、国の命令に真摯に従ったしみんほど、犠牲となり、財産も人名も失った。

 軍人に対する恩給制度。精度設計を議論する審議会15委員委には陸海軍の大将&中将が各2名。旧恩給事務を篤かった厚生省官OBも指名された、と。
 結果、兵士年間恩給は149万円、大将には855万円は2024年度の支給額。
 公務員の初任給10。4万円ほどの時代、東條英樹家に支払われた遺族年金は400万円超、と。首相時代の年間56万円+大将支給分をあわせ、その遺族支給分という計算方s気。

 なぜ民間人に補償がゼロ円か。「戦争という非常事態のもとで、何らかの犠牲をうけても、それは國をあげての戦争による『一般の犠牲』として、受忍しなければないらいもの」。
 1968年、在外資産補償訴訟法 最高裁判決で、司法は「受忍論」を持ち出して原告の賠償請求を棄却した。
 1979―80年。厚生省が諮った原爆被爆者対策基本問題懇談会で、時の橋本竜太郎厚生相は、述べる。

 「(政府は)国家補償という文字を使うことに非常に神経を使っておりました」「非常に厄介なのが名古屋のグループ、(東京の)下町のグループであります」
 その趣旨は原爆被爆者に国家補償をすると、それが東京や名古屋で大都市空襲被害をうけた国民にも補償をすることになる」「それでは国家財政がもたない」。

 原爆被爆は被爆者に対する医療費補助の社会保障施策であって、国家賠償ではない。
 軍人に手厚くしておかねば、いざというとき、軍務を引き受けなくなるから、多額の年金。
 民間人は大なり小なり、みな被害者。特に補償はできない。
 そうかも知れぬが、国家が起こす戦争とは、その補償もしなければならぬ代償を伴う、もの。
 そう施政者は理解しておかねえば、ならぬ筈だが。
コメント (0)