農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(2)
 農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(2)

 当時の農業経営者家屋は、入り口を入ると広い土間があった。
 東北地域の「曲や家」や田の字型住宅とは違って、馬を保管する空閑はない。
 「三和土 たたき=敲き土(たたきつち)の略で、土を<叩き固めた>空閑」の面があり、居間や台所にあがるには、「上がり框 あがりがまち=玄関で靴を脱ぎ履きするための<たたき>と、床との間にある部分を指す」に足をのせ、入室した。

 「台所」は前述のとおりとして、以下、「家族の生活」に目配りをしてみる。
 居間の床は、もちろん<板の間>。こども達は採暖器具と台所の間に空間に置かれた「ちゃぶ台」で学ぶ。
 用意された子ども部屋も、専用の机&椅子は1965年を過ぎるあたりから、か。

 長く灯火は「ランプ」。厚岸町尾幌の集落で送電されたのは、1949年のこと。
 それも尾幌駅から南に1200メートル、尾幌駅前と道道厚岸昆布森線をむすぶ道の東西200メートル内外の範囲。
 全村に電力が供給されたのは10年後の1959年となるはずで、二段階に分かれていた。

 それでも床の間のある部屋や、大勢の客が集まって会議を開く部屋には「畳 たたみ」でおおわれ、天井も「吊り天井」が配置されていた。 
 戦中・戦時には、建具をはずすと「大広間 おおひろま」に変わり、出征者の歓送のため。
 結婚式も葬儀も、法要らの「非日常」を営まむ空閑として用意されていた。
 ちなみに結婚式とその後の祝宴が「家」で営まれるは1955年ほど。葬儀は1970年ほどまでと、記憶。

 道東の農業経営者家屋には、家畜飼育空間が間取りの中にない。
 もとより馬は飼育され、畑作農業の作業や、冬季の木材搬出で<日銭>を稼ぐ有力な財源。
 故に、この点について考察した報告があるかも。

 しかし未見につき推測するに、以下の点を示しておくことに。
 1)何より飼育頭数が多い、ために飼育小屋は別に設けている。
 2)家屋と飼育小屋の仕様を検討するに、確かに違いが。厳寒を人さまが凌ぐと、家畜への処遇では差が。
 3)家畜を飼育する面積は人間の住む面積を凌ぐうえに、そこを同一仕様で賄うにはコストがかかりすぎて負担に堪えられず、かと。

 多くの過程は北側に面し「納戸」が配置されている。照会したことも案内されたこともない。
 家族の「寝室」にあて、また、寝具や来客用什物(膳、茶碗、重箱などの彫塑品)保管の空閑。
(掲載図は
 「日本建築史 農家の平面形式」 https://note.com/ura410/n/n0c67f6758211 251205 09:15閲覧)
コメント (0)

農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(1)
 農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(1)

 玄関から障子や板戸を開くと、居間があり、家族が暮らしていた。
 1950年、農業経営家庭の家屋、その第一の特徴であった。
 仕切り戸に接するように暖房用排気筒。世に「煙筒 えんとう」。

 その隣には「湯沸かし ゆわかし」。つまり「薪ストーブの排気筒を通じて得られる熱量で水をあたためる」設備。
 薪ストーブの前には、主が座り、時々、ストーブの扉を開いて燃料薪を追加。火勢を落とすことなく、採暖を安定して維持することが役目であった。
 背後に燃料となる「薪 まき」を補給する箱が置かれている。

 ストーブを配置する空閑は、「土間 どま」と呼ばれ、床を掘り下げて設置された。
 熱の上昇を、最大限に身体で感ずることのできる構造。
 冷え切った足を、ストーブのヘリ=縁まで伸ばし、あたためることも出来た。

 西を背に主。北側に夫人が着座。子どもたちは南の<窓ぎわ>を背に座るが、そこは客人の座席。来客があると、夫人の席の背後に用意されている、<ちゃぶ台>を囲む。
 ちゃぶ台は、食事を摂る場所にして、食間は<勉強机>。

  南向き玄関の「つきあたり」=直進した位置に、多くは台所と呼ばれる炊事場。
 七輪の置かれた台の横に「流し ながし」と呼ばれる食材の洗い場。その隣には1斗の水が有に入る「水桶」。そこには70センチほどの柄がついた「柄杓 ひしゃく」があった。
 
 (参考)
 田の字の間取りは日本の住宅の原点とも言われています。古民家の多くは農村にある茅葺き屋根の農家住宅で、広間型の間取りから発展し田の字型へと変わっていきました。
 (掲載図含め https://kominkai.net/nouka-madori/#google_vignette  古民家探訪 251204 pm20:15)
コメント (0)

戦争・地球環境、各自の思い 仲代・石橋・福田康夫251203
 戦争なくす各自の思い 仲代・石橋・福田康夫251203

 11月8日亡くなった俳優の仲代達矢(92)。
 是非とも演じて置きたかったのが反戦劇。「命がある間にこれだけはやっておきたいことの一つ」と定めていた、と記事に(『東京新聞』 2025年11月20日 06時00分)。
 NHK番組かで、反戦に地球環境のためには、みんがが一人ひとりが〝自身に出来ること”と〝取り組むこと″。

 前石破首相は12月2日 ニッポンん放送の番組で、所感を述べた。
 「政府が軍部に対する統制を失ったため」「政治が軍事に優越する『文民統制』の重要性を強調」。
 「日米開戦前に総力戦研究所が『日本必敗』と予測」「斎藤隆夫元衆院議員の『反軍演説』に触れ」、「冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視」
 結果、「国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはならない」と総括、と。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/4566055841d313bc94ceb6f4c42af2c310d41cb0

 元総理の福田康夫氏。自身の戦時疎開体験を元に。
 「国と国が対立すると、国民の間にそれが広まっていくんですよね」。
 「時間が経てば経つほど、それが大きな輪になってしまうと、なかなかこれを修正するのが難しい」。「戦争なんかさせてはいけない」。「国民にね、というような思いを」

 「その思いを政治家がしっかり受け止めて、政治家自身が戦争を起こさない方策を日々考えていなければいけない
 「(政治家には)そういう責任があるんじゃないでしょうか」。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2320249?display=1
コメント (0)

1)釧路のマチの魅力=“英国Scotland”似の景観&風土<日出る港マチ>の文化・知恵 by 佐藤宥紹
 1)釧路のマチの魅力=“英国Scotland”似の景観&風土<日出る港マチ>の文化・知恵・物語 釧路観光ボランティアの会240217 by 佐藤宥紹

 釧路観光ボランティアの会が主催する「釧路観光講座」。
 2日間、2コマずつの講座、3日目に貸し切りバスでツアーする日程の2日目
 「釧路のマチの魅力」で講座を担当するように、依頼があった。

 「釧路のマチの魅力」の意味を、「“英国Scotland”似の景観&風土<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」と設定した。
 三点の柱を用意。1)「不可能を可能に<地域の知恵>集積」
 2)「<寒暖差>育てる本来の旨さ、本当の美味しさ」
 3)「目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群」と設定。 

 当日、出席が不可能となったので、どなたが読み上げても、理解していただける。
 26項目の項目を並べて、「聞き手」&「解説者」。その台本を作ってみた。
 今回、その全容を本欄で、アップしてみることにした。

 講座の担当も、受講の参加市民も高齢ながら、実に、精力的。
 対象地を歩け、歩け、で踏破。講座受講者から、ガイド要請に応じた方はおられぬようながら。
 立春からわずかの季節に、例年、この講座は開かれている。ご参加を。
コメント (0)

2)光は東方より <日出る港マチ>の文化・知恵・物語==釧路の街の魅力ABCD26題―1-240217
2)光は東方より <日出る港マチ>の文化・知恵・物語==釧路の街の魅力ABCD26題―1-240217

●さて、今回は「釧路の街の魅力」というテーマで話してもらいます。
「釧路の街の魅力」というと、釧路市を訪れる長期滞在者の方から、次のキーワードを聴かされています。それは、
「(釧路地域は)英国のスコットランドの景観やたたずまいにそっくり」と言う言葉です。そこで私が考えた「釧路の街の魅力」。それは「“英国スコットランド”似の景観&風土」です。「景観には『雰囲気』を」、「『風土』は『たたずまい』の意味」を込めておきます。そうですね。
ここでは「風土」を「ふうど」と簡単に表現しないことにしましょう。「風」には「他の地点からやってくる人、他の地域からもたらされた情報」の意味を込めます。

●「釧路の街の魅力」、その第一は「“英国スコットランド”似の景観&風土」ですね。
そうですね。まず「風」には「他の地点からやってくる人、他の地域からもたらされた情報」の意味を込めます。次に「人」には、「そこに住まいしている人、住まいしているヒトが作り上げた情報」の意味を、注ぎ込んでおきたいのです。
道東のというか、釧路地方のというかその景観はスコットランドに似ている。くわえて地域が作りあげている人情、風情、文化、文学作品や美術作品。それらモロモロが、「たたずまい」として表現してみたいと思うのです。
厚岸ウィスキーが誕生しました。スコットランドと厚岸。ウィスキーで結ばれる。良いではないですかー、いかがでしょうか。

●一枚目のスライドに「<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」とも記載しています。
ここまで申しあげてきた「“英国スコットランド”似の景観&風土」は、釧路を訪れる方の目に映った事柄です。つまり《視覚=目に見えるモノ、コト、ヒト》を通じた「形=カタチ」に相当する領域ではないでしょうか。
そこで次に、「“英国スコットランド”似の景観&風土」が示す《意味=地域の帯びて居る特質》ということに話を移しましょう。
《意味=地域の帯びて居る特質》。それはなにか。私は「<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」だ。そう申しあげようと思うのです。みなさん、いかがでしょうか。
コメント (0)

3)光は東方より <日出る港マチ>の文化・知恵・物語=釧路の街の魅力ABCD26題―1-240217  
3)光は東方より <日出る港マチ>の文化・知恵・物語==釧路の街の魅力ABCD26題―1-240217

●元日の日の出は根室半島の納沙布岬が、一番、「初日」の時刻が早いけど、大胆でわ。
大げさのように思うでしょうが、そうではないのです。1346年に書かれた「諏訪大明神絵詞 すわだいみょうじんえことば」という本があります。それには「蝦夷が千島」は三グループに分かれて居ます。本は北海道島の二番目に「日の本 ひのもと」と申す地域があって、日高・十勝・釧路・根室にあたる地域には、「日の本」、つまり国号=日本のオリジナル地点は、のちの「日高・十勝・釧路・根室の国ですよー」。そう言っておるのです。

●今、日勝釧路根というも、釧路港は地域一番の重要港湾、早く言った方が勝ち!!。
景観・風土が英国スコットランドに似ているなら、濃霧に包まれた釧路港は英国のロンドンに相当し、市内の春採公園は「英国式公園」として設計されています。そうなのですよ。
昨年の観光講座で私が担当させていただいたのは、「港マチ文化のたたずまい=『岩保木水門』」であり、「新釧路川開削」の話でした。水門も、新釧路川の話も、共に「釧路港の発展と港湾文化」の話ということです。港町って、ヒト・モノ・情報が行き交う実に文化性を豊かに産み出す存在ではないでしょうか。永年の投資によって生み出された文化資産を、「釧路観光」に存分に活かしてみたいのです。

●「<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」のテーマに「知恵」「物語」のKeyWordも。
お手元の印刷教材、最初の一枚に「釧路の街の魅力 ABCD26題」とも、書いておきました。今回は「釧路の街の魅力」、私の気がついた数。それを26項目と考えアルファベット文字数の26項目にまとめて、みました。
きっと、いやまだあるよ。あれも、これも、と。私は思います。市民自身が「愉快な愉」と書いて楽しめる、外から来訪のお客様にも「音楽の楽」と書いて楽しんでいただくためにも、その項目を増やして行きたいのです。アルファベットの次は、イロハ48文字、いやいや「百人一首」の数まで、確認することができたら、素晴らしいです。

●「百人一首」の数まで増やしたい」ですか、でわ、次のスライドに話を移しましょう。
コメント (0)

4)作家・原田康子作品の舞台&創出地 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力240217
4)作家・原田康子作品の舞台&創出地 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力ABCD26題―2-240217

 本日は「釧路の街の魅力」と題してお話をさせていただいています。
スライドの二枚目には、「Ⅲ.目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群」と書いて置きました。釧路港を軸にした港マチで、三つ目の柱に据えた物語の世界に目をむかます。キーワードは、世に「北方文学」とか、「文学の北方性」と申す領域があります。
そこを<少しナナメ>に構えることになりますが、そこは「日いずる地=日の本」領域で、少し冒険をしてみたい。そのように考えました。
根室国の知床半島の付け根に羅臼町という自治体があります。このマチは「目梨郡」、つまり「アイヌ語 メナシ menash 東の」に、「目梨」の漢字をあてています。

●スライド2は「<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」=「物語」に注目します。
私は釧路観光コンベンション協会さんの「観光講座」にもお付き合いさせてもらっています。2015年の観光講座では「24)佐賀県人脈と原田文学」という話をしてみました。
原田康子さんの代表作『挽歌』については、永田秀郎さんに『「北海文学」の航跡 作家原田康子「挽歌」のナビゲーション』(言海書房 2003年)があります。また盛厚三さんに『挽歌物語<作家原田康子とその時代>』(釧路市 2011年)が発表されています。
そこで私は、原田さんの晩年の作品になってしまった『海霧 Umigiri』(新潮社 2002年)に注目しています。

●スライド2にある「24)佐賀県人脈と原田文学」の話です。「海霧」で愉しむ方法?。
原田さんの『海霧』では、一番、最初に釧路駅に集合してもらいました。『海霧 Umigiri』の最終章に、「」。
まだ、幼かった康子さんが東京から釧路に初めて帰ってきた時の一節が記載されています。それで「お帰りなさい、康子さん」というわけで、私たちは旧釧路停車場跡に迎えに行きました、ですよ。その足で、川上町にあった原田留五郎宅に向かいました。
川上町の旧旭小学校前にあったお宅こそ、原田さんの実家。そこから「教育大学釧路校の位置へ通学したんだよネ~」、と。「釧路ぶぶる1st 原田康子作品の舞台&創出地 220714」


●原田康子作『海霧 Umigiri』を手にしながら、マチなかを歩く。そんな試みを。
ハイハイ。彼女が学んだ釧路市立高等女学校へは、その時は出来上がって間もない「初代久寿里橋を渡った、はず」。とかなんとか、そこはそれぞれ勝手に想像しながら、歩くのですよ。そんなこと試みてみました。2022年7月14日午前のことです。
なんでまたそんな、突飛なことを。実は前段があるのです。その年、6月4日に釧路市立中央図書館で木村浩章さんと私で、小松伸六さんに因む講演会がありまして。そこで私から、「地域に文学マップ」や「映画のロケーション地」を紹介する図面は、発行されている。しかし、その図面は観光客向けと決め込んでいて、市民はさっぱり利用しない。そういうお話を私はさせていただいたのです。
コメント (0)

5)釧路駅へ厚内駅付近で終章『海霧』 目梨<menash  東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力240217
5)釧路駅へ厚内駅付近で終章『海霧』 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力ABCD26題―2-240217

●22年6月4日の講演会に来ていた市民有志が「地図と本を手にマチ歩き」始めました。
催し事業は「ぶぶるファースト」という名前です。マチを歩くの歩くを「遊ぶ」に置き換えて、「遊ぶの末尾も<ぶ>」。「本から学ぶの末尾で<ぶ>」。最後は「よく遊び、よく学ぶ自身に最大級の褒めるの<る>」。
皆さんに言われます。「文化、文化というだけでは、サッパリ経済効果がない」。そうお叱りを受けますから、遊び、学ぶのあとはもう、盛大に自身を褒めるための経済投資で盛大に「御馳走をたべましょう」「おカネを惜しむな」というわけですね。

●そうして23年11月16日に「ぶぶる11th」を迎えました。この時、どこ歩いた?。
23年11月16日午前、米町公園駐車場に集合して南大通八丁目、七丁目と10人ほどでまわりました。お目あては『海霧 Umigiri』上巻です。そこに登場する平出幸吉 ひらいでこうきち、島義勇 しまぎゆう、武富善吉 たけどみぜんきち らの事績をたどるツアーです。
釧路市には「明治四二年 電話帳」が記録に残っています。『海霧 Umigiri』上巻の主人公たる平出幸吉を模す原田惣吉の名は電話帳には出てきません。しかし、佐賀県人脈につらなる福富甚吉 ふくどみじんきち 武富善吉らの住まい地は記録があります。

●観光講座2024.今は「釧路の街の魅力」中「24)佐賀県人脈と原田文学」の話です
『明治四二年 電話帳』にはまた、前述の武富家が経営し釧路銀行の所在地は判明します。電話帳には住所の記載があります。そこでその細かな住宅所在地の地番を、こんどは町名と地番を記載した地図を取り出して、一つずつその位置を現在の街並みのなかで記録していく作業を現地ですすめました。
南大通八丁目に「武富小路」、その先に「武富私道碑」があります。そこで『海霧 Umigiri』に登場する「北洋商会」。実体は広業商会 こうぎょうしょうかい という会社のお話をさせていただくのです。


●昨年11月実施の『海霧』上巻の舞台を歩くツアー。作品鑑賞と対象地点の見聞した。
 最後は弥生二丁目の本行寺まで足を伸ばし、そこで福富甚吉 ふくとみじんきち 家の話をさせてもらいました。小説を読んだだけでは、たどりつくことのできないポイントを確認し、現在はなにも標識やサイン置かれていない地点に、目印を付す基礎をなす作業。そうしたことを市民参加で取り組んで見る。小さな実験が、今、始まった。そういうことではないでしょうか。
 釧路の街に、そしてその周辺に築きあげられてきた、さまざまな物語。そこに移住者から定住者に成長し、しかも財をなした足跡をたどってみる愉しみ。地域に名所をつくる作業として拡大してまいりたい。私はそう考えているところです。
コメント (0)

6)牡蠣・無化肥牛乳・青魚 クール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力―3-240217
●6)牡蠣・無化肥牛乳・青魚 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217

●スライド3rdは「Ⅱ.寒暖差育む本来の旨さ、本当の美味しさ」です。食観光の話題。

 ここでは、地域食材について誰でもが「本当のおいしさ、本来の旨さを」説明できるようになりたいものです。生産者を励ましつづけ、消費者が付加価値を活かすことができるように、味覚を鍛えたいモノと考えます。

 野付郡別海町尾岱沼の「ホッカイエビ」は今や、北海道東部を代表するブランド品になりました。旬の時期に<新鮮な非冷凍で>。我が家はそんな恵まれたことはできず、釧路和商さんにあるお店で冷凍品を買ったことがあります。
 広島から家族でやってきていた<娘夫婦一家をもてなす>ためでした。鮮やかな北海エビをみて、娘の連れ合いと息子は、飽きずにたべて「旨いと独り占め」です。
コメント (0)

風帆船漁でアマモと共生 ホッカイシマエビ 〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力 240217 
●7)風帆船漁でアマモと共生 ホッカイシマエビ 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217

●野付のホッカイエビ。風帆船で引く網とあわせ、確かにブランド化した点は悦ばしい。
そのことに味をしめたか、慶ぶ風情に誘われて、連れ合いは翌年の暮れにも同じ店で「(今度は)厚岸産 ホッカイエビ」を贈りましたですよ。ところが、娘から連絡が来ました。「釧路で食べた時の、味がしない」。
当時、野付産ホッカイエビと他産地のホッカイエビでは、500円の価格差があり、野付産に高い評価がありました(同じ規格のパッケージでほぼ同じ重量でも、野付産は500円高価であった、そういうことです)
割安品を贈った拙宅連れ合いは、以後、贈ることやめています。ホンの一個人の感想ですが・・・・・。

●この時間は「寒暖差育む本来の旨さ、本当の美味しさ」です。寒暖差と旨みの関係を。
ここで考えてみましょう。このところ、旨みの根源について明示すことが試みられるようになりました。地域食材の生き残りをかけて、独自の取り組みがすすみます。
24年2月24日朝の放送です。京都郊外、大原の里で「大原野菜」の旨みを、日本料理の専門家が中東久雄さん次のように述べていました。
「(大原野菜は)うるおいがあって、乾燥しすぎず野菜にとって過ごしやすい環境」で、育つ。と。それで「寒暖差があることで、肥料にまさる旨味さが育つ」と伝えています。
「本来の旨さ、本当のおいしさ」。そこのところを消費者は求め、生産者も心がける。それにとどまらず、「本当においしく食べる、食べさせる知恵」もまた、重要なカギを握っています。
コメント (0)