2026 09/24 07:05
Category : 記録
国力衰微のとき国内で争うは無意味=「数年の大困難」 前田正名『興業意見 未定稿』260923
若くして経験の海外留学、万国博覧会事務官長で従事した国際感覚、全国府県調査で把握した我が国国力の衰微と脆弱。
征台論と1977年西南戦争は「財政の大困難」を生じた。
のみならず「製産家ヲ倒ス程ノ影響ヲ與エタルニアラズ」といえども、高い経費をかけ「物品ヲ低価ニ売レルニ因ルノミ」と、喝破した。
これでは、次の3点に対応できまい。
1)非常の国用、すなわち非常時の財政出動。
2)貨幣の価値を維持できず、金融信用のみならず、財政健全化にも影響。
3)農業、工業、商業の経営に、資本の蓄積が出来ない。
そこから我が国が国際社会に伍しつつ、地方の地域格差を解消し、農村伝統工業が力量を蓄積するための金融支援。それらを如何に確立するか。富国と殖産興業の起点であった。
若くして経験の海外留学、万国博覧会事務官長で従事した国際感覚、全国府県調査で把握した我が国国力の衰微と脆弱。
征台論と1977年西南戦争は「財政の大困難」を生じた。
のみならず「製産家ヲ倒ス程ノ影響ヲ與エタルニアラズ」といえども、高い経費をかけ「物品ヲ低価ニ売レルニ因ルノミ」と、喝破した。
これでは、次の3点に対応できまい。
1)非常の国用、すなわち非常時の財政出動。
2)貨幣の価値を維持できず、金融信用のみならず、財政健全化にも影響。
3)農業、工業、商業の経営に、資本の蓄積が出来ない。
そこから我が国が国際社会に伍しつつ、地方の地域格差を解消し、農村伝統工業が力量を蓄積するための金融支援。それらを如何に確立するか。富国と殖産興業の起点であった。
2026 09/23 12:42
Category : 催事
2026 09/22 10:09
Category : 記録
2026 09/21 09:57
Category : 催事
桧森神社 幸町七丁目=「神習教春日支教会」跡とする作業仮説261010ぶぶる23th

【命名理由】 旧名西幣舞の一部にして河岸参丁目四丁目は鉄道省所属の仮設水陸連絡場に利用され、中央は札幌鉄道局所属の工場北端は機関庫の所在地たり。
将来仲濱町方面に鉄道省海陸連絡埠頭完成の暁は大部分解放せられんか。
頗る至便枢要の商業地区となるべし。本区には町内団体あり。幸倶楽部と唱ふるに因りて幸町と命く。
因に鉄道用地の中枢は町時代釧路競馬場用地たりしも寄付したる故を以て、その筋より三ツ組金盃を交付せられ、今之を市役所に保管す。
一、此町には神習教釧路春日支教会一、聞名寺説教所がある。
(浪花五丁目)「消防番屋」・・・・・大洋産業(株)
(幸町六丁目)「農検出張所」・・・・幸6ビル(六丁目10番3号)
・・・・増子豆腐店(六丁目6蕃)
(幸町七丁目)「神習教春日支教会」・桧森神社(作業仮説 七丁目2蕃6号)
「和洋裁技芸女塾」・・□□□
「聞名寺説教所」・・・龍玄寺(七丁目3蕃)
(浪花七丁目)「保育園」・・・・・旧小池豆腐店西部
「天理教支教会」・・天理教西幣舞分教会
※「幸倶楽部」・・・・・・・・・探索中
【命名理由】 旧名西幣舞の一部にして河岸参丁目四丁目は鉄道省所属の仮設水陸連絡場に利用され、中央は札幌鉄道局所属の工場北端は機関庫の所在地たり。
将来仲濱町方面に鉄道省海陸連絡埠頭完成の暁は大部分解放せられんか。
頗る至便枢要の商業地区となるべし。本区には町内団体あり。幸倶楽部と唱ふるに因りて幸町と命く。
因に鉄道用地の中枢は町時代釧路競馬場用地たりしも寄付したる故を以て、その筋より三ツ組金盃を交付せられ、今之を市役所に保管す。
一、此町には神習教釧路春日支教会一、聞名寺説教所がある。
(浪花五丁目)「消防番屋」・・・・・大洋産業(株)
(幸町六丁目)「農検出張所」・・・・幸6ビル(六丁目10番3号)
・・・・増子豆腐店(六丁目6蕃)
(幸町七丁目)「神習教春日支教会」・桧森神社(作業仮説 七丁目2蕃6号)
「和洋裁技芸女塾」・・□□□
「聞名寺説教所」・・・龍玄寺(七丁目3蕃)
(浪花七丁目)「保育園」・・・・・旧小池豆腐店西部
「天理教支教会」・・天理教西幣舞分教会
※「幸倶楽部」・・・・・・・・・探索中
2026 09/20 07:00
Category : 催事
19歳Victorデビュー、47歳持病から逝去 男性ラテン歌手・ポール梨木 釧路市役所前庭、ポプラに見守られ育つ2610101
NHK素人のど自慢の公開番組で、釧路湖陵高生が突如あらわれ、合格の鐘を。
その勢いで翌年3月、放送記念日の全国大会でも好成績を残した。
当時、父は釧路駅長。官舎が現在の釧路市庁舎前庭の、背の高いポプラ一樹がその裏庭に植えられていた。

同級生がのちに懐かしそうに語った。
ここがポール梨木の実家でね、たまに遊びに寄ったことがある。彼はその後、レコードデビューしたが、私はその幹の下で仕事に奉じている。
話を聴いて「ポール梨木」で検索すると、当時は確かにプロフィールもネットに豊富であった。
しかし、しかし。ついぞ、その話題を耳にすることも、活字で読むこともない。
最近、姉にあたる住本典子さんが、次の記載を投稿しいている。
●https://www.youtube.com/watch?v=MsYcW-NqLGA 「ポール梨木 ラテンの旅より べサメ.ムーチ」。
住本さんの記載。「ポール梨木の姉です」。
「弟は1962年19歳てビクターレコードからラテン歌手として彗星の如くデビューして将来を期待されましたが持病の喘息の発作が度々起きて1980年47歳で亡くなりました」。
「ヤフーのオークションでレコードを見つけ落札しました。ファンの方がいてくれてとても嬉しく思いました」。
「まだボールの記憶が残っている方に在りし日のうたごえが届く事をいのって投稿しました。」(『ナビゲーションをスキップ ポール梨木ラテンの旅 住本典子』)。
チャンネル登録者数 95人 469回視聴 2024/02/05
併せて二つのURLを。
●https://www.youtube.com/watch?v=voMcq3BA-6s 「ポール梨木ラテンの旅より ある恋の思い出」。
●https://www.youtube.com/watch?v=3693eqFxdeQ 「ポール梨木ラテンの旅より グラナダ唄」
2026年秋、記載のポプラの根元を集合地として、催事を試みる予定。
NHK素人のど自慢の公開番組で、釧路湖陵高生が突如あらわれ、合格の鐘を。
その勢いで翌年3月、放送記念日の全国大会でも好成績を残した。
当時、父は釧路駅長。官舎が現在の釧路市庁舎前庭の、背の高いポプラ一樹がその裏庭に植えられていた。
同級生がのちに懐かしそうに語った。
ここがポール梨木の実家でね、たまに遊びに寄ったことがある。彼はその後、レコードデビューしたが、私はその幹の下で仕事に奉じている。
話を聴いて「ポール梨木」で検索すると、当時は確かにプロフィールもネットに豊富であった。
しかし、しかし。ついぞ、その話題を耳にすることも、活字で読むこともない。
最近、姉にあたる住本典子さんが、次の記載を投稿しいている。
●https://www.youtube.com/watch?v=MsYcW-NqLGA 「ポール梨木 ラテンの旅より べサメ.ムーチ」。
住本さんの記載。「ポール梨木の姉です」。
「弟は1962年19歳てビクターレコードからラテン歌手として彗星の如くデビューして将来を期待されましたが持病の喘息の発作が度々起きて1980年47歳で亡くなりました」。
「ヤフーのオークションでレコードを見つけ落札しました。ファンの方がいてくれてとても嬉しく思いました」。
「まだボールの記憶が残っている方に在りし日のうたごえが届く事をいのって投稿しました。」(『ナビゲーションをスキップ ポール梨木ラテンの旅 住本典子』)。
チャンネル登録者数 95人 469回視聴 2024/02/05
併せて二つのURLを。
●https://www.youtube.com/watch?v=voMcq3BA-6s 「ポール梨木ラテンの旅より ある恋の思い出」。
●https://www.youtube.com/watch?v=3693eqFxdeQ 「ポール梨木ラテンの旅より グラナダ唄」
2026年秋、記載のポプラの根元を集合地として、催事を試みる予定。
2026 09/18 21:55
Category : 催事
男性ラテン歌手 ポール梨木 その成長期見つめた釧路駅長官舎庭のポプラ261010ぶぶる23th

ポール梨木(ポール・なしき)は、1960年代前後に活動した日本の男性ラテン歌手で、ビクターレコードからデビューした人物とされています。(youtube.com)
ポール梨木とは何者か 1962年ごろ、19歳でビクターレコードからラテン歌手としてデビューしたと、家族による証言が紹介されています。(youtube.com)
代表的な録音として、ラテン名曲を日本語カバーしたアルバム「ラテンの旅」などがあり、「ククルクク・パロマ」などを歌唱しています。(mysound.jp)
これらの音源は、コンピレーション「ラテンの饗宴〜ナイトクラブ時代 1959-1965〜」などにも収録され、現在も配信や中古レコードとして一部で流通しています。
活動の特徴と背景 楽曲ラインナップから、ナイトクラブやラテン音楽ブーム期の日本で活動した歌手とみられます。(mysound.jp)
家族の投稿によれば、将来を嘱望されながらも、持病の喘息発作に悩まされていたことが語られています。(youtube.com)
現在は新たな活動情報はほとんどなく、主に過去音源の再評価・コレクター市場で名前が見られる存在です。(diskunion.net)
どんな曲を歌っているか 「ラテンの旅」関連の動画では、「ククルクク・パロマ」「べサメ・ムーチョ」「ある恋の思い出」など、ラテンのスタンダード曲を日本語で歌う姿が確認できます。(youtube.com)
これらは、1950〜60年代の日本におけるラテン歌謡・ナイトクラブ音楽の一端を知る資料的価値もあると評価されています。(mysound.jp)
要するに、ポール梨木は1960年代初頭にデビューした日本のラテン歌手であり、現在は主に当時の録音を通じてその名が知られている人物です。
ポール梨木(ポール・なしき)は、1960年代前後に活動した日本の男性ラテン歌手で、ビクターレコードからデビューした人物とされています。(youtube.com)
ポール梨木とは何者か 1962年ごろ、19歳でビクターレコードからラテン歌手としてデビューしたと、家族による証言が紹介されています。(youtube.com)
代表的な録音として、ラテン名曲を日本語カバーしたアルバム「ラテンの旅」などがあり、「ククルクク・パロマ」などを歌唱しています。(mysound.jp)
これらの音源は、コンピレーション「ラテンの饗宴〜ナイトクラブ時代 1959-1965〜」などにも収録され、現在も配信や中古レコードとして一部で流通しています。
活動の特徴と背景 楽曲ラインナップから、ナイトクラブやラテン音楽ブーム期の日本で活動した歌手とみられます。(mysound.jp)
家族の投稿によれば、将来を嘱望されながらも、持病の喘息発作に悩まされていたことが語られています。(youtube.com)
現在は新たな活動情報はほとんどなく、主に過去音源の再評価・コレクター市場で名前が見られる存在です。(diskunion.net)
どんな曲を歌っているか 「ラテンの旅」関連の動画では、「ククルクク・パロマ」「べサメ・ムーチョ」「ある恋の思い出」など、ラテンのスタンダード曲を日本語で歌う姿が確認できます。(youtube.com)
これらは、1950〜60年代の日本におけるラテン歌謡・ナイトクラブ音楽の一端を知る資料的価値もあると評価されています。(mysound.jp)
要するに、ポール梨木は1960年代初頭にデビューした日本のラテン歌手であり、現在は主に当時の録音を通じてその名が知られている人物です。
2026 09/18 10:32
Category : 記録
大河河口に急峻丘陵⇒風除、釧路湊が海=汽船&陸=鉄道輸送の結節点背景 ぶぶるin 釧路北大通261010

今回は釧路停車場跡で、3点の国土地理院地図を手掛かりに、釧路湊が海=汽船&陸=鉄道輸送の結節点になりえた要因を考える。
3点の国土地理院地図。
左図は「広尾 64.8 メートル地点」。中央図「豊頃大津 2.7メートル地点」。右図「釧路米町 22.8メートル地点」。
釧路港 知人 シリrト 岬が釧路川河口に張り出ている岩石海岸。水深はあるも右岸には遠く、日高山脈の麓まで砂浜海岸が続く。
大津港は、北海道第3位の十勝川河口ながら、釧路川右岸から日高山脈麓まで伸びる砂浜海岸の中心点。水深が浅く大船は沖合に停泊して、積み上げ地間を艀輸送が不可欠。
広尾港は日高山脈の麓の岩石海岸。しかし山脈との背後地は狭く、港域の南に河口をもつ広尾川は、短い。
その広尾川について、公式記録を探すも「東広尾川(18.0キロメートル)と西広尾川(16.4キロメートル)が『青』の手前で合流」の記事がえられた。
「釧路湊が海=汽船&陸=鉄道輸送の結節点背景」で、ひとまずの結論。
河口に発達した丘陵が、風除けとなり、湊の「静穏度 せいおんど =航路、泊地の静穏の度合いをいい、港湾内における船舶の安全かつ円滑な操船、停泊および係留を可能」。 かつ「波の状況を通常、有義波(H1/3、T1/3)によって表す。」、と。
(「用語辞典 JOGMEC JOURNAL」
https://journal.jogmec.go.jp/oilgas/termsearch/list/seso/calmness.html)
古くから指摘。阿寒川を通じて十勝・網走の内陸&釧路川を通じて根室・斜里 の資源を、釧路川河口に集積可能}。
自然・地形にによる自然湊と、築設を通じて近代港湾に至るその道筋は、流域の資源量+水深確保と風除たる丘陵の配置。
そこに求められるものであった。資源には漁業にくわえ林産・鉱産の通年資源搬出が可能。
対して十勝の農産物は、収穫期のみの季節的偏りに支えられていた。三上貞治・藤原二百次、茅野満明氏らがこぞって、十勝川河口の大津から釧路港に移転した要因。
今回は釧路停車場跡で、3点の国土地理院地図を手掛かりに、釧路湊が海=汽船&陸=鉄道輸送の結節点になりえた要因を考える。
3点の国土地理院地図。
左図は「広尾 64.8 メートル地点」。中央図「豊頃大津 2.7メートル地点」。右図「釧路米町 22.8メートル地点」。
釧路港 知人 シリrト 岬が釧路川河口に張り出ている岩石海岸。水深はあるも右岸には遠く、日高山脈の麓まで砂浜海岸が続く。
大津港は、北海道第3位の十勝川河口ながら、釧路川右岸から日高山脈麓まで伸びる砂浜海岸の中心点。水深が浅く大船は沖合に停泊して、積み上げ地間を艀輸送が不可欠。
広尾港は日高山脈の麓の岩石海岸。しかし山脈との背後地は狭く、港域の南に河口をもつ広尾川は、短い。
その広尾川について、公式記録を探すも「東広尾川(18.0キロメートル)と西広尾川(16.4キロメートル)が『青』の手前で合流」の記事がえられた。
「釧路湊が海=汽船&陸=鉄道輸送の結節点背景」で、ひとまずの結論。
河口に発達した丘陵が、風除けとなり、湊の「静穏度 せいおんど =航路、泊地の静穏の度合いをいい、港湾内における船舶の安全かつ円滑な操船、停泊および係留を可能」。 かつ「波の状況を通常、有義波(H1/3、T1/3)によって表す。」、と。
(「用語辞典 JOGMEC JOURNAL」
https://journal.jogmec.go.jp/oilgas/termsearch/list/seso/calmness.html)
古くから指摘。阿寒川を通じて十勝・網走の内陸&釧路川を通じて根室・斜里 の資源を、釧路川河口に集積可能}。
自然・地形にによる自然湊と、築設を通じて近代港湾に至るその道筋は、流域の資源量+水深確保と風除たる丘陵の配置。
そこに求められるものであった。資源には漁業にくわえ林産・鉱産の通年資源搬出が可能。
対して十勝の農産物は、収穫期のみの季節的偏りに支えられていた。三上貞治・藤原二百次、茅野満明氏らがこぞって、十勝川河口の大津から釧路港に移転した要因。
2026 09/17 10:09
Category : 催事
前回「三ツ輪のマーク=栗林・三上・豊島三社の三輪」が学習項目 「三上運送店が十勝菜豆を取扱い出来た必然?」261010

三ツ輪ビル。釧路市錦町5丁目3番に位置する。昭和7年8月の釧路市地名地番改正で現在の行政字名となった。
先行して明治17年に区画された地番では、現在の釧路市錦町五丁目1番が「西幣舞4番地」。
現在の釧路市交流プラザさいわいとNTT釧路支社の敷地に釧路停車場が設けられて、西幣舞は、橋北地区一の起業拠点であった。
『釧路市職業別明細市街図』では、釧路市錦町5丁目3蕃の最西端に「三上運送店」とある。
細かくはその前年12月、三ツ輪運輸株式会社が創業された。図の発行は昭和7年でも、入稿時には旧社名であった。ここはそう、解して置くことにしましょう。
前回の学習項目は、「三ツ輪のマーク=栗林・三上・豊島三社の三輪」」
10月10日催行予定の「遊ぶ・学ぶ・褒める 語尾3語 るるぶ in 釧路市北大通」。
訪問する三ツ輪ビルでの学習項目。今回は「三上運送店が十勝菜豆を取扱い出来た必然のはなぜ?」
答えは「ごめの目」サイトの「伝えたい『蔵』の記憶(115)三上運送合資会社」260305にも。さてさて。
https://gomenome.jp/others/kura_115/
三ツ輪ビル。釧路市錦町5丁目3番に位置する。昭和7年8月の釧路市地名地番改正で現在の行政字名となった。
先行して明治17年に区画された地番では、現在の釧路市錦町五丁目1番が「西幣舞4番地」。
現在の釧路市交流プラザさいわいとNTT釧路支社の敷地に釧路停車場が設けられて、西幣舞は、橋北地区一の起業拠点であった。
『釧路市職業別明細市街図』では、釧路市錦町5丁目3蕃の最西端に「三上運送店」とある。
細かくはその前年12月、三ツ輪運輸株式会社が創業された。図の発行は昭和7年でも、入稿時には旧社名であった。ここはそう、解して置くことにしましょう。
前回の学習項目は、「三ツ輪のマーク=栗林・三上・豊島三社の三輪」」
10月10日催行予定の「遊ぶ・学ぶ・褒める 語尾3語 るるぶ in 釧路市北大通」。
訪問する三ツ輪ビルでの学習項目。今回は「三上運送店が十勝菜豆を取扱い出来た必然のはなぜ?」
答えは「ごめの目」サイトの「伝えたい『蔵』の記憶(115)三上運送合資会社」260305にも。さてさて。
https://gomenome.jp/others/kura_115/
2026 09/16 13:15
Category : 記録
十勝菜豆、外需輸出を支えた釧路港 海と陸の豆流通を結ぶシステム2610101

十勝菜豆―十勝で生産される隠元豆にエンドウ豆の総称。
鉄道輸送され、釧路港からアジア大陸及び直接、ヨーロッパの戦闘対象地に輸出された。
外国需要に対応した貨物取り扱いの流れ。
搬入される貨物は、十勝川河口の大津から移転してきた三上貞治運送店が取り扱う。
問屋の原田商店を通じ、まずは選穀 せんこく 作業に、移される。
「選穀 せんこく」=収穫した穀物や豆から、良質な粒だけを選び分ける作業のこと。主に種子用や高品質品の生産。
釧路港でその記録があるのは高橋駒吉選穀場。
「選穀とは「選穀は、穀物・豆類などから、未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物(石・枝など)を取り除き、良い粒だけを残す作業」では、あるも。。
不良粒=未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物を取りのぞいた上に、等級=価格の分別を行った。
作業は収穫期から始まる性格があるから、常時の雇用ではなく、季節的な臨時雇用。
貨車からの荷下ろしに、輸出用の船積にも「ヒトの手」が必要で、前者は女性、後者は男性に、斡旋する職業紹介所は不可欠。
もちろん、豆の等級・選別・質保証に北海道庁出張所の質保証=監督が、モノ申す。
女性、それも若手を採用しようとすれば当然、必要な子育て支援。「保育所」も配置。
一方、大豆は食用油・肥料の豆粕・醸造業(味噌・醤油・納豆)、小豆は和菓子業界にその地位を築いてゆく。
菜豆の急激な外国需要に対応する汽船輸出、大豆・小豆・手亡・菜豆の国内向け列車移出。
原田康子著『海霧 うみぎり』、その最終章を理解するうえで不可欠。海陸輸送結節の港マチならではのシステム。
十勝菜豆―十勝で生産される隠元豆にエンドウ豆の総称。
鉄道輸送され、釧路港からアジア大陸及び直接、ヨーロッパの戦闘対象地に輸出された。
外国需要に対応した貨物取り扱いの流れ。
搬入される貨物は、十勝川河口の大津から移転してきた三上貞治運送店が取り扱う。
問屋の原田商店を通じ、まずは選穀 せんこく 作業に、移される。
「選穀 せんこく」=収穫した穀物や豆から、良質な粒だけを選び分ける作業のこと。主に種子用や高品質品の生産。
釧路港でその記録があるのは高橋駒吉選穀場。
「選穀とは「選穀は、穀物・豆類などから、未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物(石・枝など)を取り除き、良い粒だけを残す作業」では、あるも。。
不良粒=未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物を取りのぞいた上に、等級=価格の分別を行った。
作業は収穫期から始まる性格があるから、常時の雇用ではなく、季節的な臨時雇用。
貨車からの荷下ろしに、輸出用の船積にも「ヒトの手」が必要で、前者は女性、後者は男性に、斡旋する職業紹介所は不可欠。
もちろん、豆の等級・選別・質保証に北海道庁出張所の質保証=監督が、モノ申す。
女性、それも若手を採用しようとすれば当然、必要な子育て支援。「保育所」も配置。
一方、大豆は食用油・肥料の豆粕・醸造業(味噌・醤油・納豆)、小豆は和菓子業界にその地位を築いてゆく。
菜豆の急激な外国需要に対応する汽船輸出、大豆・小豆・手亡・菜豆の国内向け列車移出。
原田康子著『海霧 うみぎり』、その最終章を理解するうえで不可欠。海陸輸送結節の港マチならではのシステム。
2026 09/15 15:17
Category : 記録
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101

明治26年1月 十勝三等測候所開設 適地適作農業の起点
●十勝雑穀 内需移出時代に
(京都で抹茶と結合の和菓子、300年以上の歴史を経て『老舗』の呼称)
(東京で670余年 和菓子店・塩瀬総本家は日本初の小豆餡と饅頭をもたらす)
明治33年 敦賀港 大和田製油所 大豆圧搾を開始し豆粕生産、副産物に食用大豆油。
大正4年 鈴 木 商 店 =のち豊年製油を傘下に が<べンジン抽出法>特許権を満州鉄道から取得。
大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設。
●十勝菜豆 外需輸出
大正3年7月 第一次世界大戦勃発。
交戦国の生産減退&軍需品その他が必要に。日本は欧州商品の支配力の強いアジア市場のみならず、交戦国の欧州に進出。
交戦国支配力減退を機会に輸入品と競争的な関係にあった諸産業が国内で勃興。
⇒貿易飛躍的伸張&海上輸送力の減退から、国内に海運業と造船業に異常ブーム。
大正4年―5年 刑期は回復に転じ5年にかけ好況。
農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。 真っ先に青豌豆、次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。
◎海運業好況で「船成金」。豌豆で「豆成金」。
◎澱粉成金、船成金にかわって札幌中心に「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場。
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101
明治26年1月 十勝三等測候所開設 適地適作農業の起点
●十勝雑穀 内需移出時代に
(京都で抹茶と結合の和菓子、300年以上の歴史を経て『老舗』の呼称)
(東京で670余年 和菓子店・塩瀬総本家は日本初の小豆餡と饅頭をもたらす)
明治33年 敦賀港 大和田製油所 大豆圧搾を開始し豆粕生産、副産物に食用大豆油。
大正4年 鈴 木 商 店 =のち豊年製油を傘下に が<べンジン抽出法>特許権を満州鉄道から取得。
大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設。
●十勝菜豆 外需輸出
大正3年7月 第一次世界大戦勃発。
交戦国の生産減退&軍需品その他が必要に。日本は欧州商品の支配力の強いアジア市場のみならず、交戦国の欧州に進出。
交戦国支配力減退を機会に輸入品と競争的な関係にあった諸産業が国内で勃興。
⇒貿易飛躍的伸張&海上輸送力の減退から、国内に海運業と造船業に異常ブーム。
大正4年―5年 刑期は回復に転じ5年にかけ好況。
農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。 真っ先に青豌豆、次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。
◎海運業好況で「船成金」。豌豆で「豆成金」。
◎澱粉成金、船成金にかわって札幌中心に「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場。