2026 09/16 13:15
Category : 記録
十勝菜豆、外需輸出を支えた釧路港 海と陸の豆流通を結ぶシステム2610101

十勝菜豆―十勝で生産される隠元豆にエンドウ豆の総称。
鉄道輸送され、釧路港からアジア大陸及び直接、ヨーロッパの戦闘対象地に輸出された。
外国需要に対応した貨物取り扱いの流れ。
搬入される貨物は、十勝川河口の大津から移転してきた三上貞治運送店が取り扱う。
問屋の原田商店を通じ、まずは選穀 せんこく 作業に、移される。
「選穀 せんこく」=収穫した穀物や豆から、良質な粒だけを選び分ける作業のこと。主に種子用や高品質品の生産。
釧路港でその記録があるのは高橋駒吉選穀場。
「選穀とは「選穀は、穀物・豆類などから、未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物(石・枝など)を取り除き、良い粒だけを残す作業」では、あるも。。
不良粒=未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物を取りのぞいた上に、等級=価格の分別を行った。
作業は収穫期から始まる性格があるから、常時の雇用ではなく、季節的な臨時雇用。
貨車からの荷下ろしに、輸出用の船積にも「ヒトの手」が必要で、前者は女性、後者は男性に、斡旋する職業紹介所は不可欠。
もちろん、豆の等級・選別・質保証に北海道庁出張所の質保証=監督が、モノ申す。
女性、それも若手を採用しようとすれば当然、必要な子育て支援。「保育所」も配置。
一方、大豆は食用油・肥料の豆粕・醸造業(味噌・醤油・納豆)、小豆は和菓子業界にその地位を築いてゆく。
菜豆の急激な外国需要に対応する汽船輸出、大豆・小豆・手亡・菜豆の国内向け列車移出。
原田康子著『海霧 うみぎり』、その最終章を理解するうえで不可欠。海陸輸送結節の港マチならではのシステム。
十勝菜豆―十勝で生産される隠元豆にエンドウ豆の総称。
鉄道輸送され、釧路港からアジア大陸及び直接、ヨーロッパの戦闘対象地に輸出された。
外国需要に対応した貨物取り扱いの流れ。
搬入される貨物は、十勝川河口の大津から移転してきた三上貞治運送店が取り扱う。
問屋の原田商店を通じ、まずは選穀 せんこく 作業に、移される。
「選穀 せんこく」=収穫した穀物や豆から、良質な粒だけを選び分ける作業のこと。主に種子用や高品質品の生産。
釧路港でその記録があるのは高橋駒吉選穀場。
「選穀とは「選穀は、穀物・豆類などから、未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物(石・枝など)を取り除き、良い粒だけを残す作業」では、あるも。。
不良粒=未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物を取りのぞいた上に、等級=価格の分別を行った。
作業は収穫期から始まる性格があるから、常時の雇用ではなく、季節的な臨時雇用。
貨車からの荷下ろしに、輸出用の船積にも「ヒトの手」が必要で、前者は女性、後者は男性に、斡旋する職業紹介所は不可欠。
もちろん、豆の等級・選別・質保証に北海道庁出張所の質保証=監督が、モノ申す。
女性、それも若手を採用しようとすれば当然、必要な子育て支援。「保育所」も配置。
一方、大豆は食用油・肥料の豆粕・醸造業(味噌・醤油・納豆)、小豆は和菓子業界にその地位を築いてゆく。
菜豆の急激な外国需要に対応する汽船輸出、大豆・小豆・手亡・菜豆の国内向け列車移出。
原田康子著『海霧 うみぎり』、その最終章を理解するうえで不可欠。海陸輸送結節の港マチならではのシステム。
2026 09/15 15:17
Category : 記録
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101

明治26年1月 十勝三等測候所開設 適地適作農業の起点
●十勝雑穀 内需移出時代に
(京都で抹茶と結合の和菓子、300年以上の歴史を経て『老舗』の呼称)
(東京で670余年 和菓子店・塩瀬総本家は日本初の小豆餡と饅頭をもたらす)
明治33年 敦賀港 大和田製油所 大豆圧搾を開始し豆粕生産、副産物に食用大豆油。
大正4年 鈴 木 商 店 =のち豊年製油を傘下に が<べンジン抽出法>特許権を満州鉄道から取得。
大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設。
●十勝菜豆 外需輸出
大正3年7月 第一次世界大戦勃発。
交戦国の生産減退&軍需品その他が必要に。日本は欧州商品の支配力の強いアジア市場のみならず、交戦国の欧州に進出。
交戦国支配力減退を機会に輸入品と競争的な関係にあった諸産業が国内で勃興。
⇒貿易飛躍的伸張&海上輸送力の減退から、国内に海運業と造船業に異常ブーム。
大正4年―5年 刑期は回復に転じ5年にかけ好況。
農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。 真っ先に青豌豆、次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。
◎海運業好況で「船成金」。豌豆で「豆成金」。
◎澱粉成金、船成金にかわって札幌中心に「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場。
大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101
明治26年1月 十勝三等測候所開設 適地適作農業の起点
●十勝雑穀 内需移出時代に
(京都で抹茶と結合の和菓子、300年以上の歴史を経て『老舗』の呼称)
(東京で670余年 和菓子店・塩瀬総本家は日本初の小豆餡と饅頭をもたらす)
明治33年 敦賀港 大和田製油所 大豆圧搾を開始し豆粕生産、副産物に食用大豆油。
大正4年 鈴 木 商 店 =のち豊年製油を傘下に が<べンジン抽出法>特許権を満州鉄道から取得。
大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設。
●十勝菜豆 外需輸出
大正3年7月 第一次世界大戦勃発。
交戦国の生産減退&軍需品その他が必要に。日本は欧州商品の支配力の強いアジア市場のみならず、交戦国の欧州に進出。
交戦国支配力減退を機会に輸入品と競争的な関係にあった諸産業が国内で勃興。
⇒貿易飛躍的伸張&海上輸送力の減退から、国内に海運業と造船業に異常ブーム。
大正4年―5年 刑期は回復に転じ5年にかけ好況。
農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。 真っ先に青豌豆、次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。
◎海運業好況で「船成金」。豌豆で「豆成金」。
◎澱粉成金、船成金にかわって札幌中心に「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場。
2026 09/14 10:45
Category : 記録
2026 09/13 19:54
Category : 記録
2026 09/12 07:28
Category : 催事
2026 09/11 13:18
Category : 記録
東端の港マチ。泥炭湿地縁辺の豆腐業 根室から移り開業「西幣舞五十九番地 小池豆腐店」
旧地名で「西幣舞」&「頓化 とんけし」と呼ばれた地に、3軒の豆腐製造が点在していた。
丘陵地に囲まれた釧路川左岸の旧市街に対して、右岸は海岸砂丘と泥炭湿地に囲まれた新市街が急速に人口増加。

旧市街地が「舟着き場」からの発展に対して、新市街は鉄道で旭川&札幌と結ばれ、発展した。
旧市街地の丘陵地に姿を現す湧水を、新市街の砂丘と泥炭湿地縁辺が居住地化した新市街。
そこは旧市街の「水売り」に、飲用水を委ねていたのであるが。
2度に分け、初めに紹介する「西幣舞五十九番地 小池豆腐店」。釧路新聞社編・発行『わが街の人物地図 1集』を読むことに。
旧地名で「西幣舞」&「頓化 とんけし」と呼ばれた地に、3軒の豆腐製造が点在していた。
丘陵地に囲まれた釧路川左岸の旧市街に対して、右岸は海岸砂丘と泥炭湿地に囲まれた新市街が急速に人口増加。
旧市街地が「舟着き場」からの発展に対して、新市街は鉄道で旭川&札幌と結ばれ、発展した。
旧市街地の丘陵地に姿を現す湧水を、新市街の砂丘と泥炭湿地縁辺が居住地化した新市街。
そこは旧市街の「水売り」に、飲用水を委ねていたのであるが。
2度に分け、初めに紹介する「西幣舞五十九番地 小池豆腐店」。釧路新聞社編・発行『わが街の人物地図 1集』を読むことに。
2026 09/10 08:35
Category : 催事
大般若波羅蜜多経転読 そもそも史跡国泰寺跡「正五九大祈祷」とは 文政十三年正月
史跡国泰寺跡に伝承の『寺務記録 日鑑記 巻二』の記載。
それは「掟 一 天下泰平国家安全之勤行、怠慢あるべからざる事」条の記載に沿って進められる。
法要満散、すなわち勤め終えたのちには、略式の膳が尊前に供えられ、関係者もまた、<もてなし>をうける。

「勝手方出来次第」。南部・大畑あたりで採用された寺院の賄い方担当の男性がしつらえた精進料理の準備が終わる。
「役寮 やくりょう」。住職を補佐する法務員、そうとは申さずに「役僧 やくそう」などと通称される出家僧が、伝来役を勤めるのだ。住職をささえる3名の布陣。
案内をうけた、大名家派遣の役人&場所請負商人配下の重役たちが、国泰寺に参集。
「座附吸物 ざつきすいもの」。今日AIは「会席料理などで〝客が席に着いて最初に出されるお椀物(吸物)を指す言葉。
転じて「席に着いた直後に供される最初の吸物」という位置づけ。信じるかどうかは、さておき。
「入麺口取重詰 いれむぎ・くちとり・じゅうづめ」。
「いれむぎ」は<そうめんを温かいだしで煮た料理>。
これに、大晦日のデザートと元旦から食するはずの重箱入り、オセチ料理を結ぶと良いの、だが。
まだ、まだ、ある。「外に丼物参通、温酒数献相廻し、一汁五菜」。
どんぶりモノ三種にお待ちかね、昼前から「燗酒」は誠にありがたい。
一汁五菜は、おそらく一杯の「粥 かゆ」に「汁 しる」は「スマシ汁」でも付属。加えて五種類の副食。
そういうモテナシながら、そこにはワケも。
前年10月、国泰寺に到着した住職ら一行が、周囲に公式に示した「お目見えの膳」でもあった。
史跡国泰寺跡に伝承の『寺務記録 日鑑記 巻二』の記載。
それは「掟 一 天下泰平国家安全之勤行、怠慢あるべからざる事」条の記載に沿って進められる。
法要満散、すなわち勤め終えたのちには、略式の膳が尊前に供えられ、関係者もまた、<もてなし>をうける。
「勝手方出来次第」。南部・大畑あたりで採用された寺院の賄い方担当の男性がしつらえた精進料理の準備が終わる。
「役寮 やくりょう」。住職を補佐する法務員、そうとは申さずに「役僧 やくそう」などと通称される出家僧が、伝来役を勤めるのだ。住職をささえる3名の布陣。
案内をうけた、大名家派遣の役人&場所請負商人配下の重役たちが、国泰寺に参集。
「座附吸物 ざつきすいもの」。今日AIは「会席料理などで〝客が席に着いて最初に出されるお椀物(吸物)を指す言葉。
転じて「席に着いた直後に供される最初の吸物」という位置づけ。信じるかどうかは、さておき。
「入麺口取重詰 いれむぎ・くちとり・じゅうづめ」。
「いれむぎ」は<そうめんを温かいだしで煮た料理>。
これに、大晦日のデザートと元旦から食するはずの重箱入り、オセチ料理を結ぶと良いの、だが。
まだ、まだ、ある。「外に丼物参通、温酒数献相廻し、一汁五菜」。
どんぶりモノ三種にお待ちかね、昼前から「燗酒」は誠にありがたい。
一汁五菜は、おそらく一杯の「粥 かゆ」に「汁 しる」は「スマシ汁」でも付属。加えて五種類の副食。
そういうモテナシながら、そこにはワケも。
前年10月、国泰寺に到着した住職ら一行が、周囲に公式に示した「お目見えの膳」でもあった。
2026 09/09 12:25
Category : 催事
大般若波羅蜜多経転読 そもそも「転読」定光禅寺龍神堂三尊天祭礼で260907
北海道東部の港マチ。その定光寺竜神堂で営まれる三尊天の祭礼。
いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったときには、掲載画像の「大般若心経転読」の法要が勤修 ごんしゅう された。

掲載画像は「融通念佛宗総本山 大念佛寺 -大阪市平野区」が公開しておられる。
説明に「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみつたきょう)とは」「転読とは」「大般若転読法会のご本尊 十六善神」の解説。
そこでは「大般若波羅蜜多経真読 だいはんにゃはらみつたきょう しんどく 」に対する、「転読(てんどく)は、経題や経の主要な部分を拾い読むこと作法」、と。
https://www.dainenbutsuji.com/schedule/tendoku/
結論から記載するに、転読、そもそもの意味。
「すべての災(わざわ)いや悪を祓(はら)いとり除き、人々の願いをかなえて幸せに導いてほしい」という意味で、
「一人一人の除災与楽(じょさいよらく)を祈る」。
で、作法と差定=さじょう 法要の進行・配役・読経順などをまとめた台本のような文書。
結衆 けっしゅう の僧侶は、「経巻をひもとき、一巻、一巻、転読するたび」に。
「大般若波羅蜜多経巻第(だいはんにゃはらみつたきょうかんだい)第一巻~第六百巻、唐ノ三蔵法師玄奘奉詔訳(とうのさんぞうほうしげんじょうぶしょうやく)」と
大声で唱え、本堂内に並んだ僧侶が一斉に六百巻の経典転読が始まる。
最後に経巻をもって「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と言いながら経巻で経机をたたく。
北海道東部の港マチ。その定光寺竜神堂で営まれる三尊天の祭礼。
いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったときには、掲載画像の「大般若心経転読」の法要が勤修 ごんしゅう された。
掲載画像は「融通念佛宗総本山 大念佛寺 -大阪市平野区」が公開しておられる。
説明に「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみつたきょう)とは」「転読とは」「大般若転読法会のご本尊 十六善神」の解説。
そこでは「大般若波羅蜜多経真読 だいはんにゃはらみつたきょう しんどく 」に対する、「転読(てんどく)は、経題や経の主要な部分を拾い読むこと作法」、と。
https://www.dainenbutsuji.com/schedule/tendoku/
結論から記載するに、転読、そもそもの意味。
「すべての災(わざわ)いや悪を祓(はら)いとり除き、人々の願いをかなえて幸せに導いてほしい」という意味で、
「一人一人の除災与楽(じょさいよらく)を祈る」。
で、作法と差定=さじょう 法要の進行・配役・読経順などをまとめた台本のような文書。
結衆 けっしゅう の僧侶は、「経巻をひもとき、一巻、一巻、転読するたび」に。
「大般若波羅蜜多経巻第(だいはんにゃはらみつたきょうかんだい)第一巻~第六百巻、唐ノ三蔵法師玄奘奉詔訳(とうのさんぞうほうしげんじょうぶしょうやく)」と
大声で唱え、本堂内に並んだ僧侶が一斉に六百巻の経典転読が始まる。
最後に経巻をもって「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と言いながら経巻で経机をたたく。
2026 09/08 12:45
Category : 催事
大般若心経転読 読誦の相は定光禅寺龍神堂三尊天祭礼で260907

くしろ元町青年団2022年2月20日付のネット情報で「毎年9月7日、8日 開催場所 定光寺竜神堂」と記載があった。
別なネット記事では「明治明治27年(1894年)から毎年秋に」とも「今年が50回目のフシメ」と伝えられる「三尊天 さんぞんてん 祭礼」。
いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったことがある。
大道晃仙師が出座され、厳かに「大般若心経転読」で、法要が営まれた。
史料を読み、その記載があること、承知していた。
記載は史跡国泰寺跡に伝承の五世文道代『日鑑記 巻二』の文政13年正月17日の記録。
正月、五月、九月の15日から17日まで、将軍家繁栄と国家安泰を祈祷する法要が、厳かに営まれる。
17日の法要が「満散 まんさん」。つまり功徳成就の法要で、故にひきつづき「半斎献鉢」。
「斎 とき」は昼前の法要後に行う会食や、その席で供される料理を「お斎(おとき)」。
それが「半斎 はんとき」は「食事の量や作法をやや簡略にした接待や儀礼」と、いうことになる。
国泰寺はこのとき、十勝・釧路・根室・国後・択捉の遠隔地には、「奉牌」という修了の札を配るのみだ。
しかし周辺に住む、松前家出張所の役人、それに場所請負商人の患部たちは寺に招かれ、その接待をうけ、つつがなく法要が満了したことを讃え、悦ぶのだ。
くしろ元町青年団2022年2月20日付のネット情報で「毎年9月7日、8日 開催場所 定光寺竜神堂」と記載があった。
別なネット記事では「明治明治27年(1894年)から毎年秋に」とも「今年が50回目のフシメ」と伝えられる「三尊天 さんぞんてん 祭礼」。
いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったことがある。
大道晃仙師が出座され、厳かに「大般若心経転読」で、法要が営まれた。
史料を読み、その記載があること、承知していた。
記載は史跡国泰寺跡に伝承の五世文道代『日鑑記 巻二』の文政13年正月17日の記録。
正月、五月、九月の15日から17日まで、将軍家繁栄と国家安泰を祈祷する法要が、厳かに営まれる。
17日の法要が「満散 まんさん」。つまり功徳成就の法要で、故にひきつづき「半斎献鉢」。
「斎 とき」は昼前の法要後に行う会食や、その席で供される料理を「お斎(おとき)」。
それが「半斎 はんとき」は「食事の量や作法をやや簡略にした接待や儀礼」と、いうことになる。
国泰寺はこのとき、十勝・釧路・根室・国後・択捉の遠隔地には、「奉牌」という修了の札を配るのみだ。
しかし周辺に住む、松前家出張所の役人、それに場所請負商人の患部たちは寺に招かれ、その接待をうけ、つつがなく法要が満了したことを讃え、悦ぶのだ。
2026 09/07 10:59
Category : 記録
『彼我対照 欧州旅行』に読む明治43年 海外視察 湖畔からのメッセージ

前田正名は明治43年6月、横浜港を出港し欧州視察に向かった。時に正名、満60歳2か月、彼にとって第5次の海外旅行にあたる。この旅行の意図・目的はなにか。そこを、本邦帰朝後に現された『彼我対照 欧州旅行』を通じ、読み解いてゆく。
そこには<ポスト殖産興業>。そのように思想構造を位置づけるべきであるのか、つまり<資源を加工し搬出・消費しながら、現今の付加価値を求める殖産興業>が第一段階。そこから<資源を持続・利用し、将来世代に付加価値を伝える殖産興業>への助走。
なぜ、かく転じたか。 明治40、41年と阿寒湖畔に滞在した。国有未開地の払下をうけ、そこで展開した山林経営の敬虔。南国・薩摩国に生を受けた正名が、東の国たる阿寒で四季を通じて滞在し未曽有の厳冬期を体験した後のことである。
正名にとって湖畔のアイヌ民族コタンで生業・生活・文化を形づくる地域で生活を共にしながら、その自然に生きる民族の知恵。あわせて集団をまとめあげているエカシ=長老・老女の生活の知恵を見聞した期間。
政権中枢の官僚を経験し、やがて下野し、全国行脚で各地を訪ねた。北海道東部で洋紙生産することに転じ、ついで個々に払下を受けていた国有未開地を一本化して継承した。まずは寒冷地型農園で頓挫、しかし山林経営で新たな展望を図式化することができた。
齢、すでに還暦。しかしその時に、海外視察を企図した。そう推量するに値する、紀行の冒頭に注目する。
前田正名は明治43年6月、横浜港を出港し欧州視察に向かった。時に正名、満60歳2か月、彼にとって第5次の海外旅行にあたる。この旅行の意図・目的はなにか。そこを、本邦帰朝後に現された『彼我対照 欧州旅行』を通じ、読み解いてゆく。
そこには<ポスト殖産興業>。そのように思想構造を位置づけるべきであるのか、つまり<資源を加工し搬出・消費しながら、現今の付加価値を求める殖産興業>が第一段階。そこから<資源を持続・利用し、将来世代に付加価値を伝える殖産興業>への助走。
なぜ、かく転じたか。 明治40、41年と阿寒湖畔に滞在した。国有未開地の払下をうけ、そこで展開した山林経営の敬虔。南国・薩摩国に生を受けた正名が、東の国たる阿寒で四季を通じて滞在し未曽有の厳冬期を体験した後のことである。
正名にとって湖畔のアイヌ民族コタンで生業・生活・文化を形づくる地域で生活を共にしながら、その自然に生きる民族の知恵。あわせて集団をまとめあげているエカシ=長老・老女の生活の知恵を見聞した期間。
政権中枢の官僚を経験し、やがて下野し、全国行脚で各地を訪ねた。北海道東部で洋紙生産することに転じ、ついで個々に払下を受けていた国有未開地を一本化して継承した。まずは寒冷地型農園で頓挫、しかし山林経営で新たな展望を図式化することができた。
齢、すでに還暦。しかしその時に、海外視察を企図した。そう推量するに値する、紀行の冒頭に注目する。