「モノだけ残る、生産者だけ残る」250913 女性職人 村上市 いいいじゅーnhk
 「モノだけ残る、生産者だけ残る」250913 女性職人 村上市 いいいじゅーnhk
 
「モノだけ残る、生産者だけ残る」。それは全然別物。
「(それは)死んだ文化と、生きている文化ほどの違い」

 若い女性工芸家志望の女性が語る。「いいいじゅー 鹿児島・村上市」で、番組むすびを前に。
 新たに加わった二人の移住工芸家を追って、舞台は新潟県村上市に。
 江戸時代から続く伝統工業が「村上木彫堆朱」などのブランドを。
 新潟県文化財や国の伝統的工芸品の指定をうけているそうで。

 ネットには「長きにわたり、伝統と技法を守り続けてきた」と誇らしげ。
 「村上市 伝統工芸 モノだけ 生産者だけ」の検索語で開いたページは「職人の爪のあいだ」。
 なかに「“デザイナー”という存在が定着してくるに連れて、職人の発想力が無くなってきている気がしてるんです」と。
 「自分から発想していないんですね」、とも。
 「昔は職人さんたちが年に一度、問屋さんに新作を見せに来たっていう。『こんなん作ってみた!どうやっ!!売ってくれんか?』て」。

 本邦の「モノ造り力量」の劣化、製造過程チェック能力の低下、リコール要求多発。
 傾聴しておくべき至言ではないでしょうか。
 「モノだけ残る、生産者だけ残る」。「それは全然別物」。「(その理由は)死んだ文化と、生きている文化ほどの違い」。

 家具建具。残る作品に<いのち>を読めとれる人がすくなくなっていないか。
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不動への憧れ、不動=山・岩・石、不変=巨樹・巨木超える石 石仏はなぜ彫られ 刻まれた250917
 不動への憧れ、不動=山・岩・石、不変=巨樹・巨木超える石 石仏はなぜ彫られ
刻まれた250917

 路傍の石仏。人びとはなぜ、石仏を彫り、刻み、安置してきたのだろうか。
 《不動を求めるアニミズム》《不動と言えば神様の住む山・岩・石が良い》《巨樹・巨木より、さらに永遠性のある石》。
 墓や碑文にも、同じ考えがあてはまるので、あろうか。

 そこの所を、民俗学者の神崎武宜氏が「悠久の祈り 石仏 美の壺 File610」で示していた。
 「ずっと古い時代、人々は『自然界の至るところに神がいる』というアミニズムと呼ばれる信仰をもっていました」。
 「神様が寄り付くところ、神様が住んでいるところは不動のものがいい」
 「不動のものというと山、日本には山の信仰があります」。

 2022年7月から「遊ぶ、まねぶ・学ぶ、褒める」の語尾を拾い、「釧路北大通をぶぶる 1st ―17th」を開いてもらっている。
 趣旨は「文学作品の舞台を名所化する地域教育プログラム」。
 春採湖畔を題材にすること3度、うち2度は現地探索。

 カリキュラム設定の思想には、「なぜ、石仏は造られてきたのか」。文化の根源に迫る思想もたずねてみたい。
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育っていない<着床力、開発力、提案力> 南紀&伊勢の「さんますし」 北九州の家庭で自家製
 育っていない<着床力、開発力、提案力> 南紀&伊勢の「さんますし」 北九州の家庭で自家製

 はるばる北九州にお住いのお方から「採れたてサンマ」の話題をいただき。
 産地を自認し、産品にブランド化を被せている地域が、<採れたてを、ただ、送るのみ>に、大いなる冷や汗。
 「南紀に旅した時に、新宮の駅前で初めて」口にされた、と。ご自宅で手製を「以来、時々作っています」。

 1)新宮では頭付きでしたが、私は頭を落とし、
 2)腸を出して腹側の小骨をこそげとり、全体に塩をふり四五時間置く。
 3)水洗いして塩を落とし、甘酢に浸けておく。
 4)後はサバ寿司と変わらずです。一度作ってみませんか?。

 まずは「さんま寿司」のキーワードで、ネット検索。
 「さんま寿司 和歌山県」とか「さんま寿司 三重」の項目が目白押し。
 5)まずはその一つ、農林水産省のページに「うちの郷土料理」=「さんまずし 和歌山県」が(掲載写真)。

 負けじと「さんま寿司 三重」は「三重県紀北町 さんま寿司」「さば寿司」。
 あわせてレシピも掲示。注目は、これらをうけて家庭用に暮らしに溶け込ませる姿。
 <本州人の器用さ>を痛感。<なにごとも官にお任せの北海道>では、育っていない<着床力、開発力、提案力>。
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価値観変化&支持力欠落 「時を越え なお青 藍染め 美の壺File618」nhkETV250915
 価値観変化&支持力欠落 「時を越え なお青 藍染め 美の壺File618」nhkETV250915

宮城県栗原市。正藍染め職人は往時の20軒から、今や一軒に。明治に化学染料がもたらされ、マーケットは瞬時に縮小。
 天然=「気温の高くなる一時期、発酵がうまくすすまぬと色が出ない」「3年も色のでなかったことが、ある」。
 「天然」「正藍染め」の切り口で、美の壺その一は 「受け継がれ守られてきた色と柄」。

 マーケットの縮小は染色技法の高度化と深化で切り抜ける道が一つ。
 「(先祖から)言われてきたとおりに施しても色が出ない」「日本人がもっている技術の結晶」。
 「ぼかし模様」で染め上げる「天然=Onli One」を切り口に、美の壺その二は「深く青く美しき日本の色」。

 マーケットの縮小は染色される材質の開拓で、素材の機能性を高め、素材の有効活用をめざす。
 建築用製材としては利用できない材質を巧みに生地や木目を揃え、藍染で付加価値を高める領域で存在感を示す。
 美の壺その三は「主役を引きたてる名脇役」。

 その製品というより、作品。フトコロから浄財を取り出して投資する根源。
 現代人をとりまく<見てくれの繁栄>と、気がつくに<精神的貧困>は、ためらわずに<投資を控える>のかも。
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津波伝説に神事祭祀型&信憑属性 アイヌ民族口承伝承の担保250910
 津波伝説に神事祭祀型&信憑属性 アイヌ民族口承伝承の担保250910
 江戸時代のクスリ場所に5地点に津波の口承伝説、2地点に同一の津波関連地名が残る。
 末尾の記載に注目。

 ①オプタテシケヌプリ=屈斜路湖の北にある藻琴山と南のオプタテシケヌプリ間の伝承
 「そこへ避難していた附近のアイヌは助かったので、それ以来非常に尊い山として尊敬され、祭りの時には必ずこの山に酒をあげることになった」
       (釧路屈斜路 弟子カムイヤ老伝 更科 一九五五年 二八二-二八三p)

 ②虹別の一本木=野付海峡に流出の西別川上流部。
 「この土地をシュネニウシ(一本木のあるところ)といって催事には酒をあげるようになった」(標茶町虹別 前田千太郎伝 
        更科源蔵『北海道伝説集・アイヌ編』(楡書房 一九五五年 二八七p)

 ⑦コイトイ沼の神岩=茶路川と庶路川の間に「コイトイ」
「住民は喜ぶも婆さんの姿は見えなくなり、気がつくと沼の奥に大岩が立っていた。占いの婆が岩に変じたのだと住民はイナウ=木幣をあげ『神岩』と呼んだ」。
 (庶路・神の沢、芦名ヨシの話、佐藤直太郎『続佐藤直太郎郷土研究論文集」 釧路市 一九六八年 四六p)

 ①にある「祭りの時には必ずこの山に酒=献酒」、②「催事には酒をあげる=同」、⑦「住民はイナウ=木幣をあげ(神事祭祀)『神岩』(神体化)と呼んだ。
 ①、②、⑦を「神事祭祀型」と区分しておく。
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釧路&越後むすび目の象徴 釧路市立博物館「改良型川崎船」000422『新潟日報』
  釧路&越後むすび目の象徴 釧路市立博物館「改良型川崎船」000422『新潟日報』

 越後国新潟と釧路の結節は深い。
 農業・漁業・商業・宮大工など技術者。
 特に農業業の移住が基礎になって、商業、船大工・宮大工の技術者が渡道した。
 そのシンボルが、見出しにある「川崎船」。

 沖合4-5里=16-20キロメートル先を後場に、水深200メートルに達する大陸棚をめざし操業した。
 通年生息するタラ、カレイ、おひょうなど付加価値の高い惣菜魚種を対象とする漁業。
 船底を斜めにして水切りが良く、側板の高い大型船で積載容量を高め、風邪を帆にうけて操船する風帆船。

 明治20年ころから越後漁業者が釧路に持ち込んで操業する。
 明治30年代、船大工技術者が移転して操業地の海況にあわせ建造する故に「改良型川崎」の名が。
 初代・平岩初太郎、二代目・平岩一、三代目にして木造船建造に終止符。プラスチック船建造に切り替えた二代目弟一家が、桂恋で造船する。

 「川崎船」。「川崎」の由来。
 長く北見俊夫氏が『海事史研究』No10に記載の、越後国国府=現在の柏崎市の地先にある川崎で発祥としてきたとおもう。
 昨今は福井市川崎を発祥地とする説がネットで流布。その根拠、筆者は承知していない。
 紹介の記事は2000年4月22日に『新潟日報』に掲載。先立ち遠藤孝夫・論説委員を取材案内したのだが。
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50歳代主婦「工夫があれば人は集まる」 地域振興=やはり着想力、開発力、投資力か―ポツンと一軒家 250907HTB―
​​ 50歳代主婦「工夫があれば人は集まる」 地域振興=やはり着想力、開発力、投資力か―ポツンと一軒家 250907HTB―

 番組の終盤。ディレクターに「この学校、今後、どのようにするツマリ?」。
 声を求められた主婦は答えた。「工夫があれば人は集まる」。
 夫は信楽焼大型陶器の工房を廃校となった校舎1Fで開く。2FはCafeで妻が、地元野菜を13種の手料理でもてなす。

 「野菜は煮て食べるが、ほかにも調理方法がある」。そこはインド調理法をはじめとする多国籍料理。
 週に三日ほどの開業で、多い時で日に40人ほど。大半が女性で男性は、女性に連行されての来客がほとんど。
 「茨城から来ました、所要時間は5時間半、来た甲斐がありました、良かったです」。

 円形屋根のこじんまりとした小学校は、廃止になった。昭和32年かに開校、62年ほどの歴史であった、と。
 番組案内「陶芸のアトリエと地産食材を使ったカフェも開き、楽しみながら地域を盛り上げているご夫婦の暮らしぶり」。

 「工夫があれば」。そこに注目。なんと言っても地域おこしは、住民の含み資産。
 その源泉は、着想力、開発力、創造力、そして投資力。そうではないか。
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「山本太吉が伝えた津波伝説」 釧路アイヌ文化懇話会435th  by  佐藤宥紹(城山モシリア学コミッション)
(日時・場所) 9月13日(土)13時~15時 (釧路市中央図書館7階学習室)
(講師)佐藤 宥紹 氏 (城山モシリア学調査会 調査役)

(内容)世紀変わり、アイヌ民族社会の口承伝説に、新しい角度とあらたな評価が示されています。特に津波伝説は、地質学者が地層構造を調べたボーリング調査結果に照らし、蓋然(がいぜん)性を確認した事例が報告されました。
 蓋然性とは、ある事が実際に起こるか否かの確実さを意味し、確率とも置き換えることができます。結果、本道各地に継承され、1940年前後に収集された伝承記録が活かされており、山本太吉エカシ談「津波と春採湖」はその代表例の一つです。字数で170字ほどの記録でも、示す意味と意義は多用です。
 1)評価される要因、2)伝承として継承された意味、3)今日どのように活か
されることが大切なのか、その意義を考察してみては。そう考え、担当させていただきます。
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「心柱に仏舎利が納められていた、それお墓では」「お墓ならばいつまでも・・・」 薬師寺東塔心柱240904nhk
「心柱に仏舎利が納められていた、それってお墓ではないですか」「お墓ならばいつまでも・・・」240904「かぐわしき癒やしの木 ひのき」<美の壺 File614>nhkBS4k

 奈良 薬師寺東棟の修復工事で担当の宮大工棟梁は述べる。
 「心柱に仏舎利が納められていた、それってお墓ではないですか」
 「お墓ならばいつまでも、なんとしても、そのまま残さねば」。

 心柱根元の修復には、ひのきの接続方法が選ばれた。破損部分を丁寧に削り取る。
 削り取った柱と同型に刻んだ柱を接続。伝統の親柱を巧みに活かした。
 その放送=「かぐわしき癒やしの木 ひのき」<美の壺 File614>に注目。

 そんな方が実は少なくなかったらしい。
 掲載下図。丁寧にもその手順に矢印を付して、工程がつぶさに理解できる紹介をおこなっている。
 先んじて、長く活用される「ひのき材」の特性。棟梁は、いみじくも。

 「やまから切って下してくると その木の命は そこでいっぺん終わる」
 「終っているが そのままの状態で生き続けている」
 「決して死んではいない」。

 注目したい。あらたな命を与え、その価値を巧みに保存している。
 「心柱に仏舎利が納められていた、それってお墓ではないですか」「お墓ならばいつまでも・・・」 薬師寺東塔心柱240904nhk
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2.起 北の地上戦=樺太占領、警察官も追われる手配者に250624北海道教育大学
2.起 北の地上戦=樺太占領、警察官も追われる手配者に250624北海道教育大学

ポツダム宣言受託を前に、ソ連軍が侵攻を始めた樺太では<国民疎開>が話題となる。
 しかし巡査長拝命の身とその家族にとっては、自身と家族の安全以前に、住民誘導が先決。
 14日、憲兵の役割りを背負う著者の佐々木武四郎巡査長は、大泊警察署へ派遣される。

 が、朝出頭するに、<正午重大発表、すぐに所轄署に戻れ>と命じられる。
 帰還するに残っていたものは書類焼却の準備。放送、焼却開始。
 一方、ソ連軍の侵攻は速度を速め、8月9日から2週間で樺太在住40万人中、4000人の死者を出す。
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