基幹企業の下請け中小企業、大手利益いずこに 独&日の中小企業体質テレ朝系251213‐後‐
基幹企業の下請け中小企業、大手利益いずこに 独&日の中小企業体質テレ朝系251213‐後‐

そう言って・・・・・。
7)「直接海外へ輸出を行う中小企業の割合」と掲げ、日本21%程度、独70%近くで「立地の違いはありますが、3倍以上、というのはかなり大きな差異」展開。
8)結果、「自分たちで生産、輸出まで行い、買いたたかれることもなく、利益を大きくあげることが可能」。
9)従って「生産性も高くなる、というわけ」。

ひとまず、次のように結ぶ。
10)「高い技術のモノを安く、ではなく高品質なものを高価格で売る」「それが今うまくいっているというのがドイツ」と。

確かNHKETVの教養TEXT。京都大田区の企業経営者たちが寄りあつまり、情報交換と検討会。
「モノも、図面がなくとも部品の一部から、製品モデルを創りあげる」。
池上氏が申す「日本の中小企業も技術は大変高いですから」を、裏づける話、か。

しかし中小企業の多くは元請けの、“価格支配&納期厳守”に強く支配されつづける。
ために<独自の技術開発&利益の投資への振り替え”どころか、従業員の処遇改善もママならぬ。
そうでは、ないか。ならば「技術は大変高い」と、評価されてばかりでも当事者は当惑。ではないか。
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基幹企業の下請け中小企業、大手利益いずこに 独&日の中小企業体質テレ朝系251213‐前‐
 基幹企業の下請け中小企業、大手利益いずこに 独&日の中小企業体質テレ朝系251213‐前‐

 テレビ朝日系が池上明のドイツ現地取材結果をネットに配信していた。12月13日21時の配信で「池上彰が現地取材!ドイツってどんな国?」。
 ネットの内容は「日本経済はなぜドイツに抜かれた!?池上現地取材で知る「日本の常識は世界の非常識」
 読んで見るに。「ドイツは日本に比べ『生産性が高い』というわけ」と。

 比較の観点を、いくつか。
 1)「ドイツは日本と同じくらいの面積ですが人口は1億人に満たない国」
 2)「しかしGDPでみると世界3位」。「日本より人口が少ないのに上なんです」。
 3)「つまりドイツは日本に比べ『生産性が高い』というわけです」。

 池上氏は「ドイツの生産性が高い理由」を続けて、述べる。
 4)(独の生産性が高い)理由の一つに中小企業の存在があります」。
 5)(日本もドイツも中小企業に支えられている、は)変わりありませんが、日本ではまだまだ大企業の下請けが多いというイメージ」。   
 6)「でもドイツは違います」。
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景観に治山・治水の観点で伐らず=ブナ林守る伝説&知恵 新潟 番屋山251208-1-
 景観に治山・治水の観点で伐らず=ブナ林守る伝説&知恵 新潟 番屋山251208-1-

新潟県三条市と会津盆地を中継する位置に、番屋山 標高=932.2メートル。
 「吉見平」「八十里越え」「雨生ケ池 まごいかいけ」などの名所が続く。
 この番屋山には永く、禁忌=タブーがあるの、だと。
 禁忌=タブーの内容。そこを理解するヒントは、途中の石祠の神社=「雨生 まおい 神社」。

 築造にクギ、ツガイ、カンヌキらが、用いられず。タブーは「金属類の持ち込み」である、と。
 この神社では「雨生神社の大蛇祭」が営まれる、と。大蛇、すなわち「大神」のことと。

 山頂から弥彦山、角田山が臨める、「ニッポン百低山」で紹介された。
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「深く習熟非常に熟練」も「衰退が始まる兆候」か 物語に爛熟250912
 「深く習熟非常に熟練」も「衰退が始まる兆候」か 物語に爛熟250912

 「らんじゅく 爛熟」を辞書で引くに、三点の記載。
 1)熟しすぎること: 果実などが熟しすぎて、腐敗し始める状態。
 2)物事の極限までの発達: 社会や文化などが最大限に発展し、これ以上は成長しない、   あるいは衰退が始まる兆候が見える状態。
 3)物事を深く理解し熟達すること: ある分野において、深く習熟し、非常に熟練している状態。

鎌倉仏教の範疇で創始者の一人は師釈=祖師方の論釈を<自身独自の読み>で、印度哲学を成長から爛熟に止揚した。
 仏事で読まれる回向 えこう 句=「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」文は、論釈の代表者たる中国唐代、善導「観経四帖疏‐玄義分」の一文。
 通釈は「願」の主体が自身にあると解し、「願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」、と。

 そこを祖師は、「願」の主体は「阿弥陀仏」として、読み替える。

 「阿弥陀如来が、永い修行の結果、あらゆるものを浄土に往生させて仏とするための手段、すなわち念仏を私たちにお与えくださった」
 「みなでその教えに出逢って、阿弥陀如来のはたらきにおまかせして、浄土に往生させていただき、さとりを得させていただきましょう」。

 その意味に読み替え、立論している。
 1224年を主著執筆から800年。後継者は日本有数というより、本邦歳台の教団組織に誘導した・
 「らんじゅく 爛熟」=3)物事を深く理解し熟達すること: ある分野において、深く習熟し、非常に熟練している状態。そこに誘因。

 が、近年の聞法同行の高齢化と後継者に難点。やはり、次の点に注目するや。
 「らんじゅく 爛熟」=2)物事の極限までの発達: 社会や文化などが最大限に発展し、これ以上は成長しない、あるいは衰退が始まる兆候が見える状態。
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物語は成熟 原始仏教から専修念佛・只管打座・専唱題目250912
 物語は成熟 原始仏教から専修念佛・只管打座・専唱題目250912

釈迦(B.C563年~B.C483年説&B.C463~B.C383年説)
◎口承期

死の翌年 第一結集(教団の長老たち)
約100年後 第二結集
第三結集(アショーカ王の時代 B.C268年即位、在位36年くらい)
第四結集(クシャーナ朝:カニシカ王 A.D130年頃~170年頃 or 120年頃~162年頃)
◎記録期

竜樹(2世紀中葉 クシャーナ朝時代の僧 大乗仏教理論を大成)
世親(天親と訳 300 - 400年頃)
曇鸞(476年 - 542年7月7日? 南北朝時代の僧 中国浄土教の開祖に)
道綽(唐 618年 - 907年代、中国浄土教で『大経』『観軽』解説書)
善導(613年―681年4月7日 or 4月20日 「称名念仏」中心の浄土思想確立)
源信(942―1017年 日本 985年3月、『往生要集』を脱稿)
源空(1133―1212年 善導著『観無量寿経疏』で専修念仏を 門下に親鸞)。
◎師釈=祖師方がたの論釈 期

道元=釈迦 只管打座 親鸞=阿弥陀仏 専修念佛 日蓮=法華経 専唱題目

法句経 ほっくきょう を代表的経典とする原始仏教と、大乗仏教の到達点の一たる鎌倉仏教。
そこには「個人の悟りを追求」から飛躍し「利他主義を掲げ、生きとしいくるモノすべての人が成仏」と展開。
口承期の物語は、記録期の仏典結集と師釈期たる論釈をへて、専修(せんじゅ)思想に止揚する。
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1974年6月=灯油価格20→40円/Lで、倍価格 その時あなたの身辺では251217
 1974年6月=灯油価格20→40円/Lで、倍価格 その時あなたの身辺では251217

「オイルショック以降(特に1974年5月以降の厚岸町の移り変わりや出来事」
1)1974年5月、みなさんの居住地=自治体名
2)1974年1月、当時の採暖方法、家庭に自家用車(営業用も含む)
3)住居の形態(凡その間取り&戸建て住宅、官舎など共同住宅)
4)漁業経営や農業経営が操業用燃料調達で変化した点
5)時のマチの様子、今に、記憶している状況。
6)公共事業への波及、設計価格変更の動きetc
7)営業タクシーや石油スタンドの営業時間、対応点
8)生活必需物資の価格が上昇、衣食住の対応で記憶している点。
9)モノ不足、買占め・売り惜しみが発生し、自粛と省資源、省エネルギーに漁業資源管理の時代に入る。
10)周辺の湿原など空閑地への土地買占めの動きは。

(説明) 
1973年秋の第4次中東戦争。その波及は翌73年5月になって、顕著となる。
5月31日、道内配布紙の市内版には「灯油1リットル価格を20円から40円に改定」と報じた。
こここが起点となって、地域では様々な動きがみられる。当時、20歳+αの皆さんに、往時の記憶を回想していただきたい。
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251209 物語は成長 伝承・記録・コンセプト豊富化250912
251209 物語は成長 伝承・記録・コンセプト豊富化250912

「物語は成長する」。このキーワードを耳にしたのは、学部の研究室で担当教員との面談の時であった。
 当時、刊行されたばかりの杉浦明平著『戦国乱世の文学』(1965年 岩波新書)の一話。
 その内容が、1950年頃に聴かされていた寓話の一説と、あまりに異なる解釈であったからだ。

 そのとき「物語は成長する」の概念も、発言の起源も確認することはなく、「そう言うことか」。
 そう受け止めてきた。ただ、口承の「日本神話」が「古事記」に結集され、それが「神国大日本」に美化された点は、<『物語>、負の成長』と、受け止めることにしてきた。
 こちらについて後世、上田正昭著『日本神話』 (岩波新書 1970年)が、世に出た。
 本書には「政治的目的のもとに体系化されたもの」を「徹底的に再検討することにより、日本神話の原像を追求」とする、書評もある。

 口承伝承の内容を、象徴的表現と理解する手法もある。そうした点に思い至った。
 かく顧みるに幼児から聞かされてきた「釈迦―(浄土三部経)―七高僧―専修念仏」。
 そう仏典解釈の積み重ねは、「物語は成長する」の一形態と受け止めることに。

 この思想過程を表現する一文。
 掲載の画像=『顕浄土真実教行証文類 総序』、教科書で紹介『教行信証 総序』の一に思い至る。
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楽師・楽生―育てる人材・力量、育つ環境251206「美の壺:千年の響き 雅楽」Fil637
 楽師・楽生―育てる人材・力量、育つ環境251206「美の壺:千年の響き 雅楽」Fil637

 「楽師 がくし」が「楽生 がくしょう」を、一対一で指導する「習礼 しゅらい」を紹介。
 楽生=練習生は話す。そもそも祖父が楽師の家で。
 「私も祖父にすすめられ、幼い時に感動をうけた」「その感動を多くの人に伝えたい」。
 この道に入った、契機を話す。

 ナレーションが入る。
 「明治期に養成制度が設けられ、楽生が一般開放された」。
 記載を開くと「『楽家』と呼ばれる家系で代々受け継がれ」だが。
 「明治期に養成制度が一般に開放された」と。

 話は「楽師」に展開。
 「わたしが15歳のとき、(楽生)君のお爺さんに『篳篥 ひちりき』を習いました」。
 今、楽生を教える立場にあり、不思議な思い。そういうわけだ。

 雅楽。こどもの頃から「五常楽 ごじょうらく」「越点楽 えてんらく」がレコードから流れてくる音を聞いている。
 楽師は、国の重要無形文化財「雅楽」の伝承者となっている。

 雅楽によらず<人材を育てる>。
 育てる人材、その為の力量、育つ環境。それぞれ、どの一を<疎か>にしては・・・・・。
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農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(3)
 農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(3)

 1979年に開館した「幕別ふるさと館」。掲載写真の仮称“(開拓初期の)拝み小屋 復元”の「屋根」部分に注目してみましょう。
 「葦吹き」の屋根を支える梁 はり や支柱には、丸太材が用いられ(下図 黄色〇部分)、居住空間からも露出(上図 同)して、見える。
 実は拙宅の台所も、この構造であった。実は母屋より建物を支える「土台 どだい」の支柱が短い。
 また天井も。母屋が90センチ=3尺に対し、台所は30センチ=1尺しかなかった。

 勾配の上から下に角材の支柱があり、下から上に横板を貼ってあった。
 板の上には「柾目柾 まさめまさ」=ながさ30センチ程、幅は20,10、5センチなどのサイズがあったと記憶する。
 そんな仕上げであった。「吊り天井のない柾葺き屋根」とでも、呼称しておく。

 展示の屋根は柾使用以前に、「ヨシ 葦」を材料としている。
 これから完成させるため、途中の姿として屋根を支える小丸太支柱が見える。 その支柱にヨシの束を縄止めするのだ。

 木炭を製造し生計を立てている民家のなかには、吊り天井のない住宅も見られた。
 ヨシ束を並べ、「(確か)文化柾 ぶんかまさ」と呼ばれる、長尺で板目柾=「ウスカワ」もしくは「折敷 おしき」と呼ばれた包装資材を厚目にした柾で屋根と記憶する。
 ストーブから洩れる煙で燻され、黒々と固められていた。ただ木炭製造の転機を境に、移転を余儀なくされた。

 板目柾は、丸太を効率的に使って製材できるため、一本の丸太からより多くの板が取れて、価格が安い。そうした特性があった。
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農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(2)
 農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(2)

 当時の農業経営者家屋は、入り口を入ると広い土間があった。
 東北地域の「曲や家」や田の字型住宅とは違って、馬を保管する空閑はない。
 「三和土 たたき=敲き土(たたきつち)の略で、土を<叩き固めた>空閑」の面があり、居間や台所にあがるには、「上がり框 あがりがまち=玄関で靴を脱ぎ履きするための<たたき>と、床との間にある部分を指す」に足をのせ、入室した。

 「台所」は前述のとおりとして、以下、「家族の生活」に目配りをしてみる。
 居間の床は、もちろん<板の間>。こども達は採暖器具と台所の間に空間に置かれた「ちゃぶ台」で学ぶ。
 用意された子ども部屋も、専用の机&椅子は1965年を過ぎるあたりから、か。

 長く灯火は「ランプ」。厚岸町尾幌の集落で送電されたのは、1949年のこと。
 それも尾幌駅から南に1200メートル、尾幌駅前と道道厚岸昆布森線をむすぶ道の東西200メートル内外の範囲。
 全村に電力が供給されたのは10年後の1959年となるはずで、二段階に分かれていた。

 それでも床の間のある部屋や、大勢の客が集まって会議を開く部屋には「畳 たたみ」でおおわれ、天井も「吊り天井」が配置されていた。 
 戦中・戦時には、建具をはずすと「大広間 おおひろま」に変わり、出征者の歓送のため。
 結婚式も葬儀も、法要らの「非日常」を営まむ空閑として用意されていた。
 ちなみに結婚式とその後の祝宴が「家」で営まれるは1955年ほど。葬儀は1970年ほどまでと、記憶。

 道東の農業経営者家屋には、家畜飼育空間が間取りの中にない。
 もとより馬は飼育され、畑作農業の作業や、冬季の木材搬出で<日銭>を稼ぐ有力な財源。
 故に、この点について考察した報告があるかも。

 しかし未見につき推測するに、以下の点を示しておくことに。
 1)何より飼育頭数が多い、ために飼育小屋は別に設けている。
 2)家屋と飼育小屋の仕様を検討するに、確かに違いが。厳寒を人さまが凌ぐと、家畜への処遇では差が。
 3)家畜を飼育する面積は人間の住む面積を凌ぐうえに、そこを同一仕様で賄うにはコストがかかりすぎて負担に堪えられず、かと。

 多くの過程は北側に面し「納戸」が配置されている。照会したことも案内されたこともない。
 家族の「寝室」にあて、また、寝具や来客用什物(膳、茶碗、重箱などの彫塑品)保管の空閑。
(掲載図は
 「日本建築史 農家の平面形式」 https://note.com/ura410/n/n0c67f6758211 251205 09:15閲覧)
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