4)作家・原田康子作品の舞台&創出地 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力240217
4)作家・原田康子作品の舞台&創出地 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力ABCD26題―2-240217

 本日は「釧路の街の魅力」と題してお話をさせていただいています。
スライドの二枚目には、「Ⅲ.目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群」と書いて置きました。釧路港を軸にした港マチで、三つ目の柱に据えた物語の世界に目をむかます。キーワードは、世に「北方文学」とか、「文学の北方性」と申す領域があります。
そこを<少しナナメ>に構えることになりますが、そこは「日いずる地=日の本」領域で、少し冒険をしてみたい。そのように考えました。
根室国の知床半島の付け根に羅臼町という自治体があります。このマチは「目梨郡」、つまり「アイヌ語 メナシ menash 東の」に、「目梨」の漢字をあてています。

●スライド2は「<日出る港マチ>の文化・知恵・物語」=「物語」に注目します。
私は釧路観光コンベンション協会さんの「観光講座」にもお付き合いさせてもらっています。2015年の観光講座では「24)佐賀県人脈と原田文学」という話をしてみました。
原田康子さんの代表作『挽歌』については、永田秀郎さんに『「北海文学」の航跡 作家原田康子「挽歌」のナビゲーション』(言海書房 2003年)があります。また盛厚三さんに『挽歌物語<作家原田康子とその時代>』(釧路市 2011年)が発表されています。
そこで私は、原田さんの晩年の作品になってしまった『海霧 Umigiri』(新潮社 2002年)に注目しています。

●スライド2にある「24)佐賀県人脈と原田文学」の話です。「海霧」で愉しむ方法?。
原田さんの『海霧』では、一番、最初に釧路駅に集合してもらいました。『海霧 Umigiri』の最終章に、「」。
まだ、幼かった康子さんが東京から釧路に初めて帰ってきた時の一節が記載されています。それで「お帰りなさい、康子さん」というわけで、私たちは旧釧路停車場跡に迎えに行きました、ですよ。その足で、川上町にあった原田留五郎宅に向かいました。
川上町の旧旭小学校前にあったお宅こそ、原田さんの実家。そこから「教育大学釧路校の位置へ通学したんだよネ~」、と。「釧路ぶぶる1st 原田康子作品の舞台&創出地 220714」


●原田康子作『海霧 Umigiri』を手にしながら、マチなかを歩く。そんな試みを。
ハイハイ。彼女が学んだ釧路市立高等女学校へは、その時は出来上がって間もない「初代久寿里橋を渡った、はず」。とかなんとか、そこはそれぞれ勝手に想像しながら、歩くのですよ。そんなこと試みてみました。2022年7月14日午前のことです。
なんでまたそんな、突飛なことを。実は前段があるのです。その年、6月4日に釧路市立中央図書館で木村浩章さんと私で、小松伸六さんに因む講演会がありまして。そこで私から、「地域に文学マップ」や「映画のロケーション地」を紹介する図面は、発行されている。しかし、その図面は観光客向けと決め込んでいて、市民はさっぱり利用しない。そういうお話を私はさせていただいたのです。
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5)釧路駅へ厚内駅付近で終章『海霧』 目梨<menash  東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力240217
5)釧路駅へ厚内駅付近で終章『海霧』 目梨<menash 東方>文学・舞台・作家群=釧路の街の魅力ABCD26題―2-240217

●22年6月4日の講演会に来ていた市民有志が「地図と本を手にマチ歩き」始めました。
催し事業は「ぶぶるファースト」という名前です。マチを歩くの歩くを「遊ぶ」に置き換えて、「遊ぶの末尾も<ぶ>」。「本から学ぶの末尾で<ぶ>」。最後は「よく遊び、よく学ぶ自身に最大級の褒めるの<る>」。
皆さんに言われます。「文化、文化というだけでは、サッパリ経済効果がない」。そうお叱りを受けますから、遊び、学ぶのあとはもう、盛大に自身を褒めるための経済投資で盛大に「御馳走をたべましょう」「おカネを惜しむな」というわけですね。

●そうして23年11月16日に「ぶぶる11th」を迎えました。この時、どこ歩いた?。
23年11月16日午前、米町公園駐車場に集合して南大通八丁目、七丁目と10人ほどでまわりました。お目あては『海霧 Umigiri』上巻です。そこに登場する平出幸吉 ひらいでこうきち、島義勇 しまぎゆう、武富善吉 たけどみぜんきち らの事績をたどるツアーです。
釧路市には「明治四二年 電話帳」が記録に残っています。『海霧 Umigiri』上巻の主人公たる平出幸吉を模す原田惣吉の名は電話帳には出てきません。しかし、佐賀県人脈につらなる福富甚吉 ふくどみじんきち 武富善吉らの住まい地は記録があります。

●観光講座2024.今は「釧路の街の魅力」中「24)佐賀県人脈と原田文学」の話です
『明治四二年 電話帳』にはまた、前述の武富家が経営し釧路銀行の所在地は判明します。電話帳には住所の記載があります。そこでその細かな住宅所在地の地番を、こんどは町名と地番を記載した地図を取り出して、一つずつその位置を現在の街並みのなかで記録していく作業を現地ですすめました。
南大通八丁目に「武富小路」、その先に「武富私道碑」があります。そこで『海霧 Umigiri』に登場する「北洋商会」。実体は広業商会 こうぎょうしょうかい という会社のお話をさせていただくのです。


●昨年11月実施の『海霧』上巻の舞台を歩くツアー。作品鑑賞と対象地点の見聞した。
 最後は弥生二丁目の本行寺まで足を伸ばし、そこで福富甚吉 ふくとみじんきち 家の話をさせてもらいました。小説を読んだだけでは、たどりつくことのできないポイントを確認し、現在はなにも標識やサイン置かれていない地点に、目印を付す基礎をなす作業。そうしたことを市民参加で取り組んで見る。小さな実験が、今、始まった。そういうことではないでしょうか。
 釧路の街に、そしてその周辺に築きあげられてきた、さまざまな物語。そこに移住者から定住者に成長し、しかも財をなした足跡をたどってみる愉しみ。地域に名所をつくる作業として拡大してまいりたい。私はそう考えているところです。
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6)牡蠣・無化肥牛乳・青魚 クール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力―3-240217
●6)牡蠣・無化肥牛乳・青魚 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217

●スライド3rdは「Ⅱ.寒暖差育む本来の旨さ、本当の美味しさ」です。食観光の話題。

 ここでは、地域食材について誰でもが「本当のおいしさ、本来の旨さを」説明できるようになりたいものです。生産者を励ましつづけ、消費者が付加価値を活かすことができるように、味覚を鍛えたいモノと考えます。

 野付郡別海町尾岱沼の「ホッカイエビ」は今や、北海道東部を代表するブランド品になりました。旬の時期に<新鮮な非冷凍で>。我が家はそんな恵まれたことはできず、釧路和商さんにあるお店で冷凍品を買ったことがあります。
 広島から家族でやってきていた<娘夫婦一家をもてなす>ためでした。鮮やかな北海エビをみて、娘の連れ合いと息子は、飽きずにたべて「旨いと独り占め」です。
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風帆船漁でアマモと共生 ホッカイシマエビ 〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力 240217 
●7)風帆船漁でアマモと共生 ホッカイシマエビ 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217

●野付のホッカイエビ。風帆船で引く網とあわせ、確かにブランド化した点は悦ばしい。
そのことに味をしめたか、慶ぶ風情に誘われて、連れ合いは翌年の暮れにも同じ店で「(今度は)厚岸産 ホッカイエビ」を贈りましたですよ。ところが、娘から連絡が来ました。「釧路で食べた時の、味がしない」。
当時、野付産ホッカイエビと他産地のホッカイエビでは、500円の価格差があり、野付産に高い評価がありました(同じ規格のパッケージでほぼ同じ重量でも、野付産は500円高価であった、そういうことです)
割安品を贈った拙宅連れ合いは、以後、贈ることやめています。ホンの一個人の感想ですが・・・・・。

●この時間は「寒暖差育む本来の旨さ、本当の美味しさ」です。寒暖差と旨みの関係を。
ここで考えてみましょう。このところ、旨みの根源について明示すことが試みられるようになりました。地域食材の生き残りをかけて、独自の取り組みがすすみます。
24年2月24日朝の放送です。京都郊外、大原の里で「大原野菜」の旨みを、日本料理の専門家が中東久雄さん次のように述べていました。
「(大原野菜は)うるおいがあって、乾燥しすぎず野菜にとって過ごしやすい環境」で、育つ。と。それで「寒暖差があることで、肥料にまさる旨味さが育つ」と伝えています。
「本来の旨さ、本当のおいしさ」。そこのところを消費者は求め、生産者も心がける。それにとどまらず、「本当においしく食べる、食べさせる知恵」もまた、重要なカギを握っています。
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8)腐植土の効用 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217 
8)腐植土の効用 東国のクール産み出す〝本来の旨さ、本当のおいしさ”=釧路の街の魅力ABCD26題―3-240217

 スライド3rdには、「腐植土の効用」のタイトルで囲み記載が紹介されています。
 そこで注目されるのが植物プランクトンや発酵微生物の働きではないでしょうか。
 その囲み記載の内容は、気仙沼市で牡蠣養殖業を営む畠山重篤さんという方が『森は海の恋人』本から抜き出しています。赤太字の記載に注目しておきましょう。

 「植物プランクトンは、基本的には二酸化炭素、水、太陽の光で増えるが、その他にチッソ、リンなどの養分が必要である。
特にチッソは、たんぱく質を作るのに欠かすことができない養分である。ところが、植物プランクトンは、先に鉄を体内に入れておかないと、チッソを取り込めない構造になっている。さらに鉄は、クロロフィルなどの光合成色素の生成に深く関わっているというのだ。

 スライド3rd「腐植土の効用」を読み続けてみます。どんな点が見えてくるのか。

 では、鉄はどこから、どのように供給されているのだろうか。沿岸域の鉄の供給源は森である。鉄が海に届くには水に溶けなければならない。ここで森の腐葉土が重要な役割を担っている。腐葉土はそれ自体植物にとって最良の肥料であるが、山の岩石や土に含まれている鉄を水に溶かし、植物プランクトンが吸収しやすい形に変える役目をしているというのである。

 私たちが「本当のおいしさ、本来の旨さ」を説明できることに努めませんか。加えて、来訪のお客様には地域に戻り、伝えてほしい点です。それは、暮らしのなかで<森と川と海が水でつながるモノ>で、あることです。そのうえで「地球の再生に役立てていただくこと」も、喫緊の課題であると考えているのです。
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9)折合哲学 財政難下の政権事業 域内定期Prog  釧路の街の魅力ABCD26題―4-240217
●9)折合哲学 財政難下の政権Projec 域内定期Prog  不可能、可能にしたプロジェクト=釧路の街の魅力ABCD26題―4-240217

●スライド4枚目は「Ⅰ.不可能を可能に<地域の知恵>集積」となっています。ここからの話題は?。
 この時間、「釧路の街の魅力」を考え、提案させていただいています。
 釧路の魅力を「目に見える形では、『“英国Scotland”似の景観&風土』」と示しました。
 また、「そこに込められた意味を『<日出る港マチ>の文化・知恵・物語』」と考えました。

 そのうで、「《魅力》の表現をアルファベット26文字に等しい26項目を考えました」。そのように申しあげています。
 加えてその《26項目》を三つの体系に位置づけてみたところです。
 そこで最後の提案は、わが地域には、「不可能を可能に<地域の知恵>集積」、つまり先輩たちの貴重な、また、ひたむきな努力と提案と投資があって、今日の<釧路の魅力>が組み建てられてきた。
 そこのところに、焦点=フォーカスを宛ててみる。そこを結びの話題にします。

●スライド4枚目は「不可能を可能に<地域の知恵>集積」。そこに11項目あります。
 昨年は釧路湿原をツアーで歩かれると聞き、「5)地域発展を期待、土砂除去せず新釧路川開削」の話をさせていただきました。
 本年は1934年=昭和9年12月、「阿寒摩周国立公園」指定されて90周年にあたります。

 そこで今回、ここからは「3)「阿寒を帝国公園に」請願、前田正名の構想力」という話をさせていただきます。
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10)阿寒の帝国公園化 不可能、可能にしたプロジェクト=釧路の街の魅力ABCD26題―5-240217  
 10)阿寒の帝国公園化 不可能、可能にしたプロジェクト=釧路の街の魅力ABCD26題―5-240217

ここからはスライド5枚目を取り上げます。
かつて『阿寒国立公園の三恩人』という本を書かれた種市佐改 たねいちさかい さんは、「「(阿寒国立公園の恩人に)前田正名は当然にふれねばならない」「しかし今つの日にかどなたかの手で」。そのように記載されています。

1●2024年は阿寒摩周国立公園が指定後90周年を迎える、と。昭和9年12月に指定。
 地域では「阿寒国立公園の指定に前田正名が貢献している」と、伝えられています。また前田家が「(阿寒は)伐る山ではなく観る山だ」と語り伝えらえてきた。そのように聴いている市民は実に多いのだと考えます。
 そこで私は、いろいろと調べてみました。その結果は、年度末には出版物になります。今日はその一部を申しあげておきます。
 前田正名は1921年=大正10年8月11日に福岡で死去します。その年の5月かと思うのです。衆議院記録を精査中ですが、前田は「阿寒を帝国公園となす」という題名で衆議院に請願書を提出しています。
2●当時の阿寒国立公園指定にむけ前田正名は帝国議会に「請願」という形で陳情をした。
前田は最終段階で、「阿寒を帝国公園となす」という題名で請願書を帝国議会に送った。そしてその後に亡くなっている。この点を私は、中国の思想家・孟子 もうし の語になぞらえて、「阿寒を次世代に残すため」に発するべき、「天の時」来 きたる るの思いで、あった。そう考えてみました。
 その「天の時」を発するにあたり、時の政府に「ノ―」と言わせぬためには、三つの要件が必要ではなかった、か。前田はそう考えたのではないかと思うのです。その三点です。
3●前田は議会に請願するが、政権や議会にノ―と言わせぬために考えた三カ条。
 一に「A)国際的視野に立ち提案」すること。二に「B)学問的見地で根拠・評価を獲得」しておくこと。三に「C)“神々の神威”と『神々怒らせず、愉しませる』神域、つまり=人知を超えた“折り合い聖域”に、阿寒湖及びその周囲の湖畔林を位置づける。
 どうしてそこまで考えをおよぼしたか。特に、若き日の前田にとって、自身の人生や哲学・思想や、自身が立案し、提案した政策について<政権のノー><エリートの壁>を実感というよりも、もっと強く<はねつけられた>人生&生涯であった。

 
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11)阿寒の帝国公園化 不可能、可能に=前田正名の構想力 釧路の街の魅力ABCD26題―5-
●11)阿寒の帝国公園化 不可能、可能に=前田正名の構想力 釧路の街の魅力ABCD26題―5-240217

●釧路川大洪水は何が原因で発生したのか。今、どんなことが指摘されていますか。
釧路川大洪水には二つの要因があります。
一に森林をくまなく皆伐した結果としての<大地の保水力低下>、二つ目に<開発の行き過ぎと追いつかない治水未整備>が被害を発生させてしまいました。
この時、正名は東京に居たわけです。が、釧路川流域や阿寒川流域で起きていたこと。しかも釧路川に流れ込んでいた阿寒川が独立した河川となったことも含めて、聞かされていたはずです。正名ここに及び、改めて「自然の威力」。その凄まじさに接したと言うことです。

●話を「阿寒を帝国公園」請願、正名の構想力と題してすすめてもらっています。
 ここまで阿寒が帝国公園、のちの国立公園に指定をうけるその一歩は、正名の請願にあったのだとお伝えしてきました。
 前田正名翁の語録。その第一は「阿寒を帝国公園となす」になります。
 ところがこの語以上に著名なのキャッチフレーズがあります。それを正名の語録第二とします。それは「(阿寒の山は)伐る山ではなく、観る山」の家訓です。
 そして正名の語録第三は、「人為による開発を制限して将来世代も同じ感動を楽しむ」なのです。ひょっとして、このキャッチコピーは、おなじみでないかも知れません。
 正名の語録第四は、「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」です。
●「伐る山ではなく、観る山」も「財産はすべて公共事業の財産」も耳にする語句です。
前田正名翁は時に満70歳。古希の年齢で、永年にわたり思いめぐらしてきたであろう、四つの語録は「おぼろげながらの「発意」が「確信」に転ずる」満70歳。
そう申しあげて良いのではないか。しかも、自身はこれまで『今の日本を豊かにする』施策」に努めてきました。しかし、今は違う!!。「未来の日本のために<次世代にも感動を楽しませる>に転換」する決断。先の四つの語録にくわえ、最後の<未来の日本のために>の転換」こそ、重要です。この項目を含めて大正9年=永年の「発意」が「確信」に転した時。そのように整理をさせていただきました。
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11)阿寒の帝国公園化 大正5年春採公園計画=発意、確信に 釧路の街の魅力ABCD26題―6-240217 
 11)阿寒の帝国公園化 大正5年春採公園計画=発意、確信に 釧路の街の魅力ABCD26題―6-240217

 ●大正9年~同10年にかけ、自身70歳から71歳の<齢 よわい>に至り、到達した心境。まず、そのように推測することから話を始めておきます。
 請願書を提出するに至る「国際的にも、学問的にも阿寒の自然は尊く」「次世代を楽しませるためには国民に<神様の領域>を意識」してもらわねば。
 それは<強い決意であった>のですが、その確信と決断は、スライド6に示す「大正9=1920年」に起きた、三つの出来ごとにより、決定的となりました。
 そこに書かれている点は、前田家がすすめてきた<開発事業の見直し>であることが第一点。二点目に、「(自身が)善かれとすすめてきた『今の日本を豊かにする』施策」よりも、『未来の日本のために<次世代にも感動を楽しませる>に転換』する決断です。
●大正9年8月に釧路川大洪水があり、ほかに阿寒川で水力発電開始等重要事項が。
 ご指摘の二点。どちらも深く関係しています。
 大正9年は一に水力発電がはじまりました。太平洋炭礦=坑内掘炭や、冨士製紙釧路工場=製紙業が操業を開始しました。発電でモーターを動かし、軌道輸送=交通の近代化で製品を運ぶ大きな変化です。
また、阿寒湖畔や釧路川の木材主産地→斜里・樺太移転、木材輸送は流送から軌道交通に転じました。釧路地方で永く続いた「木材ブーム」が終わります。さらにはご指摘の「釧路川大洪水」。
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12)阿寒の帝国公園化 治山・治水から「伐る森」離陸 釧路の街の魅力ABCD26題―6-240217 
12)阿寒の帝国公園化 治山・治水から「伐る森」離陸 釧路の街の魅力ABCD26題―6-240217
 
●釧路川大洪水は何が原因で発生したのか。今、どんなことが指摘されていますか。
釧路川大洪水には二つの要因があります。一に森林をくまなく皆伐した結果としての<大地の保水力低下>、二つ目に<開発の行き過ぎと追いつかない治水未整備>が被害を発生させてしまいました。
この時、正名は東京に居たわけです。が、釧路川流域や阿寒川流域で起きていたこと。しかも釧路川に流れ込んでいた阿寒川が独立した河川となったことも含めて、聞かされていたはずです。正名ここに及び、改めて「自然の威力」。その凄まじさに接したと言うことです。
●話を「阿寒を帝国公園」請願、正名の構想力と題してすすめてもらっています。
 ここまで阿寒が帝国公園、のちの国立公園に指定をうけるその一歩は、正名の請願にあったのだとお伝えしてきました。
 前田正名翁の語録。その第一は「阿寒を帝国公園となす」になります。
 ところがこの語以上に著名なのキャッチフレーズがあります。それを正名の語録第二とします。それは「(阿寒の山は)伐る山ではなく、観る山」の家訓です。
 そして正名の語録第三は、「人為による開発を制限して将来世代も同じ感動を楽しむ」なのです。ひょっとして、このキャッチコピーは、おなじみでないかも知れません。
 正名の語録第四は、「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」です。
●「伐る山ではなく、観る山」も「財産はすべて公共事業の財産」も耳にする語句です。
前田正名翁は時に満70歳。古希の年齢で、永年にわたり思いめぐらしてきたであろう、四つの語録は「おぼろげながらの「発意」が「確信」に転ずる」満70歳。
そう申しあげて良いのではないか。しかも、自身はこれまで『今の日本を豊かにする』施策」に努めてきました。しかし、今は違う!!。「未来の日本のために<次世代にも感動を楽しませる>に転換」する決断。先の四つの語録にくわえ、最後の<未来の日本のために>の転換」こそ、重要です。この項目を含めて大正9年=永年の「発意」が「確信」に転した時。そのように整理をさせていただきました。
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