「思惟の疎水」「爛漫の嵐山」 形容されて然るべし京の桜100403
「思惟の疎水」「爛漫の嵐山」 形容されて然るべし京の桜100403.

2010年の4月1日は金曜日に伊谷空港へ。2日土曜日で3日は日曜日。それは当たり前のことであるも。

「還暦記念に集まる!!」「京の桜を見ずして、北海道の桜を語るな」。そうした触れ込みであったと、記憶。

京都在住、高校時代の同級生のお誘いがあって、夫婦二人で上京する計画をつくりました、です。

母が逝った年の新年からは江戸の正月、上方の新年を体験してもらうこと、含めて。
 すると広島在住の独身娘がかけつけた時のことで。
 永く姑、小姑、ムラ姑に囲まれることの連れ合いを、ねぎらうことも重ねて。

 修学旅行以来と申す、彼女のおともで<哲学の道>を歩くことに。
 そこに見た桜は、西田幾多郎博士の嘆じた<思惟の桜>。
 「哲学の道の桜」では、少々、修飾語が当たり前すぎるのでは、と。
 (写真 中)



 3日日曜日。
 同級生を招き、集いを計画してくれた同級生は、嵐山に案内をしてくれまして。
 昼食に渡月橋右岸の割烹料理屋を選んでくれた。窓越し眺めた桜。それは「爛漫の桜」にふさわしく。見応え十分。
 (写真 上)

 桜を背景に、カップルの<式前写真撮影>。
 実に晴天の撮影日和。花嫁の装いを超えるかの<爛漫の嵐山>。爛漫と書いて、紅葉を連想しては<通>とも、<粋>とも申しがたいのでは。

 そう思わせる、2010年4月、京落の桜、爛漫のシーン。

編集 ペン : 京の桜は雅さが加わりますね。これは桜と言うより街並みの効用かと思います