2022年06月の記事


「春採湖夜景」「牡蛎ラーメン」「毛綱建築群」「啄木歌碑群」「釧路湿原・釧路川」 釧路湿原シニア大学9期生220614
「春採湖夜景」「牡蛎ラーメン」「毛綱建築群」「啄木歌碑群」「釧路湿原・釧路川」 釧路湿原シニア大学9期生220614

1)春採湖の夜景
-どこから見ても良いが、六花亭からの眺め-
2)釧路丹頂市場の牡蛎ラーメン
   -お値段も立派だが、満足感あふれる-
3)市内随所にある毛綱毅曠建築群
4)古い時代の名所に啄木歌碑とその設置ポイント
   -多すぎて、大いに悩むが-
5)釧路湿原
    -コンクリートダムのない釧路川-、
   -湿原自体は泥炭地で増水時にはダムの役割を果たし洪水を防ぐ魅力的な湿原。

 与えられた時間は5分。
 「釧路で魅力的と思う場所は」「どこへ案内するとよいか」。
 二つの「問い」に、30名近い5グループが、それぞれの思いを述べた。

 時は2022年6月14日午後。
 所・処(ところ)は釧路市生涯学習センター“まなぼっと幣舞”の一室。
 釧路湿原シニア大学9期生二年次6月第一講座第二コマ。
 JAL新千歳空港支店から派遣されている服部まゆも氏の問いかけに出席者が反応。

 回答提案が瞬時に出てきた。
 「春採湖夜景」「牡蛎ラーメン」「毛綱建築群」「啄木歌碑群」「釧路湿原・釧路川」。
 示した項目が<既にブランド化された側面以外の新観点><示した内容の意味>を明示した<優れモノ>。

 釧路シニア大学は<2年課程大学>と<2年課程大学院>で構成されている。
 前期課程の<大学では地域理解=地域を語ることができる>が目標。
 後期課程たる<大学院では地域貢献=周囲のヒトを孤独のなかに置き去りにしない>を<学びの柱>に据える。

 突然、提案されたワーキングショップ。日頃の問題意識が反映され、対応力は相当なモノ。
 1970年前後。市内随所に「観光客をあたたく迎えましょう」。市民はなにを聴かれても「サー?、そんなとこ、あるかなー」。
 そんなノボリ=幟がはためき、無愛想な市民は今や変わっている。そうしたことではないだろうか。
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赤潮発生源は「ロシア領」=北海道東部「赤潮」  地元の努力で防止しがたい220614
 赤潮発生源は「ロシア領」=北海道東部「赤潮」  地元の努力で防止しがたい220614

 検索欄で「赤潮 ロシア 北大」と入力すると、現在でも多数の項目がヒットする。
 2021年10月20日前後のことで、元はと申すと10月18日、北海道大学広報部が発信元となり、同学水産学部の報告をオンラインしたことを承けての報道である。

主要なURLを示す。最初は情報発信源。
https://www.hokudai.ac.jp/news/2021/10/post-921.html 北海道大学 2021年10月18日
3)甚大な漁業被害もたらす「赤潮」、北大が横断観測に初成功の
道東沖赤潮の横断観測にはじめて成功~漁業被害の原因となる赤潮のメカニズム解明と将来予測の可能性に期待~(水産学部附属練習船うしお丸 助教 飯田高大,水産科学研究院 准教授 芳村 毅)

 大手メディアでは、『日本経済新聞』の電子版のURLがある。
 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO76779190Z11C21A0L41000/
4)ロシア海域から南下か 道東部の赤潮、北大が調査 日本経済新聞

 https://www.asahi.com/articles/ASPBN6F6SPBNIIPE004.html
6)赤潮の原因プランクトン、ロシアから南下か 北海道サケ・ウニ大量死
  朝日新聞電子版 中沢滋人2021年10月21日 8時00分 北大提供の衛星写真3点

 地元『北海道新聞』も勿論、続く。
 https://newspicks.com/news/6283521/  北海道どうしん電子版 2021年10月18日
5)道東の赤潮、ロシア由来か 北大チームが分析:北海道新聞 どうしん電子版
 
 北海道東部。太平洋岸でウニに対する被害が報じられたのは、21年9月のことであった。
 「北海道の最高級ブランド「昆布森のウニ」が赤潮で窮地に…“ウニ一筋50年”の漁師の嘆き」という報道もある。→4/15(金) 10:02配信「ABEMA TIMES」の報じるところ。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/446173f04dd1d2f1ea58dd81838b5cb85b0e9ca1

 赤潮発生当時、厚岸町に赴くことがあった。
 釧路総合振興局は釧路町、厚岸町、浜中町、釧路市などの政策総合調整担当との調整に余念がなかったようだ。
 「海水温が高い」。その動静を見極め、11月末になってようやく「稚苗」の着水に踏み切った。推移を見つめているところであろうか。

 厚岸町ではその昔。牡蛎の養殖が頓挫した。
 「木材の切りすぎ」。そうした指摘にこたえて「魚つき林 うおつきりん」を指導によって植樹した。結果、再生をはかることができた。

 赤潮発生源は「ロシア領」。
 大正末に出現の木材伐採、雨水と川床土の流入、牡蛎死滅。それは地元の努力で回避できた。
 赤潮、ウニ・サケの大量死。それは地球規模での発生。国際問題なのだ。
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大正デモクラシーの投影 映画『わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-』の知識人220611
 大正デモクラシーの投影 映画『わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-』の知識人220611

 紹介をうけていた映画『わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-』を観せてもらった。 二人の知識人が登場する。歌人の土谷文明と安井てつ子・東京女子大学長。

 土谷文明は、千代子の生い立ちを語る場面で登場し、二度目は収監先を訪ねて千代子を翻意させる場面で紹介されていたと、記憶。
 安井てつ子は記者団の質問をうける。「お宅の学校から、多数の逮捕者を出しているが?」と問われ、「たまたま多いだけで、自由な校風のもと、<学生の自主性がたいせつ>」という趣旨の談話を語る姿。

 観る前に、土谷の残した詠歌、三首が記録されている点をネットで読んでいた。
 「こころざしつつたふれし少女(おとめ)よ新しき光の中におきて思はむ」
 「信濃なる故里の山に教え子を思い出す日は泣かまく思う」
 「むかし見し高島小学校を今見れば木垂(こだ)るさくらも年古りにけり」。
 
 安井てつ(1870~1945)について、次の記載が読める。
 「東京女子大学創立の時、49歳で学監に就任、その5年後に新渡戸稲造の後を継いで第2代学長として、1940年までの17年間その任にあたりました」。
 大学側が掲載している。映画は実に昭和4年当時の実話。安井にとって学長就任7-8年目の時ということか。

 大正末-昭和初期の治安維持法施行下。
 厳密な考証と研究過程を問うところではあるも、<大正デモクラシーをくぐり抜けたリベラリスト>の位置と存在を、見る思いがした。
 実に難しい局面。政治のなかに「軍に歯止めの勢力」「軍に忖度する勢力」。人格が良識と知性を失ったとき、聴く耳をもたなくなった。実に人類に対する尊厳も見失う。

 「教え子を戦場に送る、な」。それが観念ではなく、投影される思い描いたシーンであった。
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左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610 
左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610 

 仏教の時世に「三世 さんぜ」の概念があるも。三世とは。 
 「前世・現世・来世(後世)、または過去世・現在世・未来世の 総称」
 「過去・現在・未来の称」
「三際(さんさい)。三生(さんしょう)。三界(さんがい)」とも。

 鶴岡八幡宮は初め「八幡宮寺」でった、と。
 八幡宮寺-永福寺跡-勝長寿院跡をむすぶ三角形の領域。取り囲んで浄土教系寺院群。
 ある意味「源氏系一族菩提」の「東方に位置して(黄色の線でむすぶ)過去世の領域」は「右翼」を担う。

 八幡宮寺-高徳院大仏殿を結んだ「鎌倉の表鬼門と裏鬼門」。航空機の胴体に匹敵。
 政権の安定を裏付け、頭頂部に東国政権のニラミ。広報の尾翼に外寇を睨んで国家の餡安泰を期して「現世」を体現。

 対して紫の線で結節は「臨済宗系鎌倉五山(建長・円覚・寿福・浄智・浄妙寺)」が存する。
 武家社会の信仰をかたじけなくして、座禅と茶道。なにを祈った、か。
 「お互いの心を安らかにし、大きな力を生み出す」とまとめられる。
 往時を思いめぐらすに「戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのもの」とする。

 鎌倉五山。紫の線で結ばれた領域。
 その五寺院は「禅宗寺院最高の寺格。鎌倉末期に北条氏により鎌倉中心の五山制度が制定」。
 こちらは北条政権存続のための「西方に位置する臨済禅=来世」の家臣団紐帯のシステムということなりや。
 
 三大寺社が源氏再興の頼朝主導ですすんだ。航空機で申すと「右翼」に相当。
 中軸に鶴岡八幡宮の「表鬼門=首」が位置し、尾翼に長谷寺&高徳院の「裏鬼門=尾」が占める。北東の東国武将をニラミつつ、南西の相模湾に唐船=外寇に対処の「胴体」を推進。
 金倉五山は源氏政権を継承した北条政権が制定。機体で位置づけると「左翼」を担う。
 
  ある一つの「鎌倉観」。かくなる地域観はいかがであろうや。
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皇后の尊名、呼び捨てとなっては 京都府竹野郡間人(たいざ)村の読み220611
皇后の尊名、呼び捨てとなっては 京都府竹野郡間人(たいざ)村の読み220611

京都の「間人村」。
 なにかで読んで、「なぜ、そう読めるの?」。そもそも、なかなか「読み」を暗記できなかった。
 カニの種名に「ハシウドカニ」というのがあって、漢字では「間人蟹」と書いて、「はしうどかに」と読む例を知ることができた。

 検索サイトに「間人 読み なぜ」と入力。
 探してみると、
 「【京丹後】聖徳太子と縁の深い地、丹後町間人」
 「どうしてそうなった!? 京都府の難読地名「間人」」
 「【間人】あなたは読める?難読地名の読み方と由来」。
 などのタイトルが示された。同じ疑問をもつ人は多い。そういうことで。

 うち、「どうしてそうなった!? 京都府の難読地名「間人」」は[ちちんぷいぷい - 毎日放送]で、2015年1月23日に放送されたらしい。その記載となっている。
 「間人皇后は「はしうど」皇后と読み、聖徳太子の母君のこと」。
 「間人皇后が蘇我氏と物部氏の争乱を避けて丹後に身を寄せ」ていた。
 「(都に戻る時)感謝として自らの名前である「間人(はしうど)」を村に贈り」「この地に自分の名前を付けるように言った」。

 しかし、村人は当惑した。
「住民は間人皇后の名前を呼び捨てにすることを畏れ多く思いためらい」
「皇后がこの地から「退座」したことにちなみ、間人を「たいざ」と読み替えた]
.

「退座」にちなみ「「たいざ」と読み替えた。ここがポイント。
 地名を記憶するに、「貴人退座」の<物語を想起>することが重要。
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左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610
 左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610

 仏教の時世に「三世 さんぜ」の概念があるも。三世とは。 
 「前世・現世・来世(後世)、または過去世・現在世・未来世の 総称」
 「過去・現在・未来の称」
 「三際(さんさい)。三生(さんしょう)。三界(さんがい)」とも。

 鶴岡八幡宮は初め「八幡宮寺」でった、と。
 八幡宮寺-永福寺跡-勝長寿院跡をむすぶ三角形の領域。取り囲んで浄土教系寺院群。
 ある意味「源氏系一族菩提」の「東方に位置して(黄色の線でむすぶ)過去世の領域」は「右翼」を担う。

 八幡具寺-高徳院大仏殿を結んだ「鎌倉の表鬼門と裏鬼門」。航空機の胴体に匹敵。
 政権の安定を裏付け、頭頂部に東国政権のニラミ。広報の尾翼に外寇を睨んで国家の餡安泰を期して「現世」を体現。

 対して紫の線で結節は「臨済宗系鎌倉五山(建長・円覚・寿福・浄智・浄妙寺)」が存する。
 武家社会の信仰をかたじけなくして、座禅と茶道。なにを祈った、か。
 「お互いの心を安らかにし、大きな力を生み出す」とまとめられる。
 往時を思いめぐらすに「戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのもの」とする。

 鎌倉五山。紫の線で結ばれた領域。
 その五寺院は「禅宗寺院最高の寺格。鎌倉末期に北条氏により鎌倉中心の五山制度が制定」。
 こちらは北条政権存続のための「西方に位置する臨済禅=来世」の家臣団紐帯のシステムということなりや。
 
 三大寺社が源氏再興の頼朝主導ですすんだ。航空機で申すと「右翼」に相当。
 中軸に鶴岡八幡宮の「表鬼門=首」が位置し、尾翼に長谷寺&高徳院の「裏鬼門=尾」が占める。北東の東国武将をニラミつつ、南西の相模湾に唐船=外寇に対処の「胴体」を推進。
 金倉五山は源氏政権を継承した北条政権が制定。機体で位置づけると「左翼」を担う。
 
  ある一つの「鎌倉観」。かくなる地域観はいかがであろうや。
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源氏山
臨済宗建長寺派 寿福寺。鎌倉五山の第三位にして鎌倉市扇ガ谷一丁目17番7号に所在。亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさん じゅふくきんごうぜんじ)と号する。

 一帯は「源氏山」と呼ばれたようで、「このあたりは源頼朝の父、義朝の屋敷があったところと言われてます」(鎌倉市教委HP).
 「(寿福寺は)1200年(正治2年)に北条政子が頼朝の遺志を継いで明菴栄西を招いてここに寺を建て始め」とも。
 この寺院から国指定史跡国泰寺跡に第三世住職 霊雲が派遣されている。そこで、筆者は平成7年に一度、訪問した。

 今回、この寿福寺で紹介するは写真にある「源氏山」碑。
 碑題にあたる「篆額 てんがく」が篆書体で書かれているため、理解しにくい。しかし碑文を読むと、すぐに「源氏山」と解することができる。
 同型の碑が鎌倉市内の随所でお目にかかった。その基数、70基が閲覧可能と紹介。
 https://kamakura.press/cal/category/kamakura-hi/ 鎌倉 史跡碑・旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

 碑の建立者は「鎌倉町青年団」とある。建立期は「大正時代から昭和初期」。
 国指定史跡「永福寺邱?蹟=旧跡」は確かに「大正」とあった。
 大正デモクラシーから昭和恐慌期に至る時期の建立。一はそこに関心があった。

 二に地域の古老が発意しての建立。それは理解する。しかし「青年団」=正確には「靑年團」が、発起するというのも注目点。
 三に最重要の一基、ゆずって2~3基を建立とするのはいずれの地にも例がありそう。しかし、その数「鎌倉市内に80ヶ所弱、設置されていると言われていました」。

 その規模は、北海道では思いつかない。
 しかも結構に「偉丈夫 いじょうぶ=からだが大きくてたくましい男」と言うべき、風格のある碑。
 碑に敬意を表して「三解脱門」へ向かう。表に「山門不幸」の駒方札。御堂の前には「御朱印は休みます」。

 このたぎ携帯の『御朱印帖」。せめて当山で一筆。
 そう思ってでかけるも「五大不調 遷化」のお方があっては。
 鎌倉町青年団史跡・旧跡碑迎える「亀谷山寿福金剛禅寺」220525.
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鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524
鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524

 鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524
 「鎌倉大仏」は「こんなに階段を昇る高台にあったか」。地図で測ると標高=12.5メートル。
 高徳院=鎌倉市(鎌倉市長谷4丁目2番28号)は、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院。鎌倉大仏は「国宝銅造阿弥陀如来坐像」で、像高約11.3m、重量約121トン。
 別に「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)と号する」との記載も見られる。

 造像までの過程は一筋ではない。
 どうも契機は、「京都や奈良に倣った都市づくり」と「首都にふさわしい象徴的な建造物」が必要で、「その象徴が、実は大仏」とする考え方があったらしい。
 1)大仏建設は1238(暦仁元)年に開始、当初は木造であったようだ。
 2)「1252(建長4) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられ(完成)」
 3)『東関紀行』には、「1242(仁治3)年に木造の大仏と大仏殿が、3分の2ほど完成」の記載もあるというが、この記載の信憑性を問う見解も示されている。

 本尊=国宝銅造阿弥陀如来坐像は、南南西に面して奉置されたと読める。
 その先に相模湾が広がり、中心の「由比ヶ浜」の西海岸に至るライン上に位置。
 「首都にふさわしい象徴」にして、外寇(がいこう)=国外から敵が攻めてくるを迎えるに対しているかの<たたずまい>。 

 かく拝して、高徳院を後にした。
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アジサイの観賞と由比ヶ浜の眺望 長谷観音で知られる海光山慈照院長谷寺220524
アジサイの観賞と由比ヶ浜の眺望 長谷観音で知られる海光山慈照院長谷寺220524

鎌倉路の紀行も「裏鬼門」の位置に。江ノ電に乗って長谷駅で下車。
長谷寺は十一面観世音菩薩像が本尊。木彫仏で日本最大級=高さ9.18mと尊い。
足下に祈祷を請う拝礼があいつぎ営まれるも、そちらはご遠慮申しあげて。連れ合いの足は次第に痛み出しているが、あと二カ所。

境内から由比ヶ浜の景観を望むことができる。「三方を山に囲まれた要害の地」は東西北。開けた南に二つの海岸線。
「中国からの貿易船が入港」。実は鎌倉。伊豆国で秀逸なミナトの地点。源氏に選択させたもう一方の要件なのだ。
ベンチに腰をおろして癒しながら、往時の賑わいに思いをはせる。

境内のもう一つの楽しみはアジサイ。
三分咲きというところか。満開ではないが確かにその片鱗。ネットを開くと「8日から有料」と。
「相模湾の眺望と共に梅雨に映える40種類2500株のアジサイが織り成すその風情が、鎌倉でも有数の景勝地」。

確かにそのとおり。疲労を取り除いてくれる一刻であった。
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武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.
武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.

鶴岡八幡宮(八幡宮寺)-法華寺跡(頼朝墓・北条義時墓)-国指定史跡永福寺跡とめぐり、残る一は「勝長寿寺跡 しょうちょうじゅじあと」。
 所在地は「鎌倉市雪ノ下四丁目6番20号」付近ということになる(写真)。

 路線バスを降りて、「田楽辻子の道」が横切る小流を過ぎたところで、道路を歩いている方に教えを乞うた。
 スマホを取り出しながら、「確かにこのあたりに、なにかが在りましたですネ-」。
 その方のスマホ確認で、どうも横道一本、進みすぎているらしい。小流の左岸にそった道を行くとよいのだ。
 取り付け道路を340メートルほど歩いたころに、金網で囲った小さな木立があって、そこに三基の史跡跡標、源義朝と家臣の鎌田政清の墓碑が二基、確かに残っていた。

 建立を発願したのは頼朝。
 平家追悼が時間の問題となったという1184年、「源頼朝は、父・源義朝の菩提を弔うため、大御堂ヶ谷の地に寺院の建立計画を開始」と、説明されている。
 別名は「大御堂」。またの名を「南御堂」とも称するそうで、鎌倉時代には「鶴岡八幡宮(八幡宮寺)、鎌倉・永福寺と共に、鎌倉での3大寺社のひとつと言う規模」を誇ったと、される。

 1)「勝長寿院は、源氏の菩提寺に近い格式ある寺院」と言える。
 2)建立後には、大姫(源頼朝の娘)が病気回復祈願で参籠。これに対し源義経の愛妾・静御前が舞を披露することも。
 3)滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会、奉納。
 4)後白河法皇の49日法要を行う
 5)源実朝暗殺後には勝長寿院に葬られ、母・北条政子によって法華堂(五仏堂)が建てられた、とも。

 保護者が居なくなり16世紀に廃寺となったとされる。寺基の地は宅地化がすすんだ。
 遺構はなくなり。木立のなかに「勝長寿院旧蹟」の石碑、ならびに供養塔が立つ。

 「平家に倒された父」。その元で「滅亡した平家の菩提を弔う」。
 二つの間合いには、頼朝が武家社会を形成する過程で犠牲を<やむなくした>に鑑み、、「権力が恐れた『祟り』の鎮魂」の機能もあったのであろうか。
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「映画を見るだけでなく、コミュニケーションの場」 洋画のSHINSEKAI2205604
「映画を見るだけでなく、コミュニケーションの場」 洋画のSHINSEKAI2205604

NHKBS3.「ほんまもんを探して JR大阪環状線」のNHK番組で紹介。
作家 阿川佐和子氏の祖父がデザインを担当したとする演舞場。
演劇・芝居・武揚のみならず、洋画の上映館としても「昭和の風情が残る界わいのレトロ映画館」。

「絶対『ツブれない』の安心感を広めたい。
新型コロナウイルス感染症の蔓延のもとで、映画館の入り口には一工夫。
休館で上映はしていないものの、往時に上映した名作の「上映看板」。もちろん、架空。

「(映画館の昔は)映画を見るだけでなく、コミュニケーションがった」。
館主はふりかえって、番組では架空の上映看板を発注し、看板屋も応じる「遊び心」。
沿線の【新今宮駅】からの話題。「上映のみではない、地域のコミュニケーション」に一票。

番組案内に記載の柱。
【桃谷】スパイス研究家の肩書を持つ歯科医師!こだわりスパイスのカレーを堪能!
【玉造】鎮魂のチンドン。阪神・淡路大震災へのチンドン屋さんの思い。
【天満】大坂のガラス産業発祥の地・天満で作られる切子の世界
【大正】世界中の新聞紙を使ってドレスを作るアーティストが登場!
【新今宮】昭和風情が残る界わいのレトロな映画館へ。
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「源平合戦図屏風 一ノ谷・屋島合戦図」(六曲一双)の半双で、鎌倉国宝館の記載では鶴岡八幡宮所蔵作を列品しているようだ。
 「源平合戦図屏風 一ノ谷・屋島合戦図」(六曲一双)の半双で、鎌倉国宝館の記載では鶴岡八幡宮所蔵作を列品しているようだ。

 第四展示室が「企画展 北条氏展vol.2 鎌倉武士の時代―幕府草創を支えた宿老たち―」の展示場に宛てられていた。
 二つのテーマで構成されている。そう受け止めた。
 1)「度重なる合戦で目覚ましい活躍を遂げ」「(戦時から平時へと移行後は)鎌倉幕府を支える人々の『文』の側面も重要視」を提示。
 2)「武士が持つ和歌や信仰などの『文』の側面にも注目」

 世に「鎌倉殿十三人」とするが、そこは二つのグループで大別される。
 「中原親能(57) 大江広元(52) 三善康信(60) 二階堂行政・・・文筆吏僚」
 「北条時政(62) 北条義時(37) 和田義盛(53) 比企能員 安達盛長(65)
  三浦佳澄(73) 梶原景時    八田知家    足立遠元 ・・・東国武士」

 中原ら文筆吏僚は、「朝廷で実務経験を積んだのち、新天地の鎌倉へ」「頼朝の右筆、京都と鎌倉の窓口、寺社の奉行として能力をいかんなく発揮」。
 文筆吏僚なくして鎌倉幕府の存続はありえなかった、とする。
 (「幕府を支えた京下りの吏僚たち」 鎌倉歴史文化交流館『企画展 北条氏展 北条義時ハンドブック』)

 屋島合戦図では、海上の船に掲げられた扇を射落とす那須与一や、海へ落とした弓を武士の誇りを掛けて拾い上げる源義経などが描かれます。
 源平合戦図は室町時代から江戸時代に至るまで多く制作され、一の谷と屋島合戦の組み合わせはそのなかでも典型的なものです。

 本図では人物を比較的大きく描きながら、群衆や船団の描写を随所に配置して、合戦のもつエネルギーの表現に努めています。なお両隻には狩野吉信の落款、印章がありますが、埼玉県川越市の喜多院に所蔵される「職人尽図屏風」を描いた吉信と同一人物ではないようです。
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「天から役割なしに降ろされた・・・・・」 ピーター・バラカンが出会った「アイヌ文化復興に取り組む若者たち」220531
地域の食堂の窓ガラス。むしろ無造作に書きしるされた一点の掲示があった。
片仮名表記のアイヌ語で「カント オㇿワ ヤク サㇰ ノ アランケㇷ゚ シネㇷ゚ カ イサㇺ」。
若き女性が、アイヌ民族文化の継承を思いいたる契機とした掲示で、「天から役割なしに降ろされた物はひとつもない」と訳された。
そのように番組内容をメモしてある。

ネットでの紹介は、若干、異なっていた。
「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」とあって、番組の「役割」は「役目」と受け止められている。
NHKBS1番組「バラカンが見たアイヌ新世代」。本年4月に放送があって、その後、再放送。5月31日午後、再々放送を見たことになる。

「摩耶さん母子」、それに母方の母堂が出演。ご母堂は「麻木さん」を名乗り、樹皮衣の織り込み姿を見せてくれた。
「別世界で生きてみたい」。摩耶さんは高校を終えたあたりで、コタンを離れた。
離れてみたところであったか、食堂の窓に記載のあった「カント オㇿワ ヤク サㇰ ノ アランケㇷ゚ シネㇷ゚ カ イサㇺ」に接する。

接したのちに、民族文化の奥の深さに気がついて、帰郷する。そうした展開であったと視聴した。
「天から役割なしに降ろされた・・・・・」。前近代、近代を通じて大和民族はアイヌ民族社会に経済的のみならず、経済外的にも従属を強要した。
「アイヌ民族の『種の保存』が危ぶまれる」。識者はそう警告した。そのとき、アイヌ民族は様々な局面で、「天から役割なしに降ろされた物はひとつもない」と、耐えていたものか。

最後に貝澤 雪子(かいざわ ゆきこ)さんのコメントが紹介されたと思う。
「モノであっても人格がある」。その言葉が重い。前近代、近代。そして現代においてなお「経済的のみならず、経済外的にも従属」の気風が残される。
そのように思うからだ。

「天から役割なしに降ろされた・・・・・」 ピーター・バラカンが出会った「アイヌ文化復興に取り組む若者たち」220531
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