2025 12/07 05:55
Category : 記録
農業経営者家屋―間取り&生活形態 1950年代―(3)
1979年に開館した「幕別ふるさと館」。掲載写真の仮称“(開拓初期の)拝み小屋 復元”の「屋根」部分に注目してみましょう。
「葦吹き」の屋根を支える梁 はり や支柱には、丸太材が用いられ(下図 黄色〇部分)、居住空間からも露出(上図 同)して、見える。
実は拙宅の台所も、この構造であった。実は母屋より建物を支える「土台 どだい」の支柱が短い。
また天井も。母屋が90センチ=3尺に対し、台所は30センチ=1尺しかなかった。
勾配の上から下に角材の支柱があり、下から上に横板を貼ってあった。
板の上には「柾目柾 まさめまさ」=ながさ30センチ程、幅は20,10、5センチなどのサイズがあったと記憶する。
そんな仕上げであった。「吊り天井のない柾葺き屋根」とでも、呼称しておく。
展示の屋根は柾使用以前に、「ヨシ 葦」を材料としている。
これから完成させるため、途中の姿として屋根を支える小丸太支柱が見える。 その支柱にヨシの束を縄止めするのだ。
木炭を製造し生計を立てている民家のなかには、吊り天井のない住宅も見られた。
ヨシ束を並べ、「(確か)文化柾 ぶんかまさ」と呼ばれる、長尺で板目柾=「ウスカワ」もしくは「折敷 おしき」と呼ばれた包装資材を厚目にした柾で屋根と記憶する。
ストーブから洩れる煙で燻され、黒々と固められていた。ただ木炭製造の転機を境に、移転を余儀なくされた。
板目柾は、丸太を効率的に使って製材できるため、一本の丸太からより多くの板が取れて、価格が安い。そうした特性があった。
1979年に開館した「幕別ふるさと館」。掲載写真の仮称“(開拓初期の)拝み小屋 復元”の「屋根」部分に注目してみましょう。
「葦吹き」の屋根を支える梁 はり や支柱には、丸太材が用いられ(下図 黄色〇部分)、居住空間からも露出(上図 同)して、見える。
実は拙宅の台所も、この構造であった。実は母屋より建物を支える「土台 どだい」の支柱が短い。
また天井も。母屋が90センチ=3尺に対し、台所は30センチ=1尺しかなかった。
勾配の上から下に角材の支柱があり、下から上に横板を貼ってあった。
板の上には「柾目柾 まさめまさ」=ながさ30センチ程、幅は20,10、5センチなどのサイズがあったと記憶する。
そんな仕上げであった。「吊り天井のない柾葺き屋根」とでも、呼称しておく。
展示の屋根は柾使用以前に、「ヨシ 葦」を材料としている。
これから完成させるため、途中の姿として屋根を支える小丸太支柱が見える。 その支柱にヨシの束を縄止めするのだ。
木炭を製造し生計を立てている民家のなかには、吊り天井のない住宅も見られた。
ヨシ束を並べ、「(確か)文化柾 ぶんかまさ」と呼ばれる、長尺で板目柾=「ウスカワ」もしくは「折敷 おしき」と呼ばれた包装資材を厚目にした柾で屋根と記憶する。
ストーブから洩れる煙で燻され、黒々と固められていた。ただ木炭製造の転機を境に、移転を余儀なくされた。
板目柾は、丸太を効率的に使って製材できるため、一本の丸太からより多くの板が取れて、価格が安い。そうした特性があった。