2021年12月の記事


被害軽減の指標 自然災害伝承碑211231
津波到達点示す石碑(いしぶみ) 自然災害伝承碑211231

 2011年当時、『北海道新聞』の紙面で読んだ。津波の到達高度を示す石碑。先人が錠剤を提供し、汗して築いた一基の碑が「今回もまた住民の命をつないだ」。
 本州で発行されている新聞紙面で報じられた内容が出発点になっていたかも知れないが、北海道内一円で読まれている新聞紙面でも報道された。
 「この地点では、ここまで逃げておくと、助かる」。石碑=いしぶみ は、被災者の遠い未来の世代に残したメッセージ。

 当時の住民に「地震は繰り返すの思い」があったかどうかはさておいて、地震も津波も防ぐことはできないが、人命を守るうえで不可欠。
 そう考え、行動した「知恵」である。催芽を津波のみにとどめないで、洪水・噴火・土石流など含めて、その教訓と被害の軽減をめざす取り組みは広がっている。

 自然災害伝承碑-国土地理院は、次のように規定する。
 「国土地理院では、災害教訓の伝承に関する地図・測量分野からの貢献として、これら自然災害伝承碑の情報を地形図等に掲載することにより、過去の自然災害の教訓を地域の方々に適切にお伝えするとともに、教訓を踏まえた的確な防災行動による被害の軽減を目指します」。
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貞観地震
 1990年時点で、次の点が指摘されていた。
 阿部 壽, 菅野 喜貞, 千釜 章「仙台平野における貞観11年 (869年) 三陸津波の痕跡高の推定」(『地震 第2輯』 1990 年 43 巻 4 号  p. 513-525)。

 紀元869年に発生した貞観地震時の仙台平野では、
 1)海岸から3キロメートルまで津波が押し寄せていた。
 2)津波堆積物=海の砂が津波で運ばれ陸上に残る=津波堆積物を確認することができ、調査の進展で同様の堆積物は各所で発見されるようになった。
 3)同平野では貞観地震のほかにも800~1000年間隔で津波に襲われてきた。
 4)貞観地震による津波は相馬も襲ったことが明らかになった。
 2011年3月11日、後に命名される東日本大震災を誘発した東北地方太平洋沖地震が発生する約20年前に行われている指摘である。

 関心は持続されたか2005年からは、宮城沖地震の調査研究が5年計画ですすめられたそうである。
 5)西暦1500年頃の津波堆積物が見つかった。
 6)貞観津波にる浸水域の広がりも明らかになり、
 7)5)と6)をもたらした巨大津波と津波堆積物分布の広がりを、どのように評価し、
 8)地震防災に役立てるかの結論を得る前に超巨大地震=東北地方太平洋沖地震が発生している。
 9)しかも、貞観地震と(近年も頻発する)宮城県沖地震の震源域がほぼ同一であった可能性も考えられる。
 5)から9)に要約した項目内容は、

 行谷佑一ほか(2010)宮城県石巻・仙台平野および福島県請戸川河口低地における869年貞観津波の数値シミュレーション,活断層・古地震研究報告 第10号
 産総研:活断層・火山研究部門:緊急調査 (aist.go.jp)  

 島崎邦彦「超巨大地震、貞観の地震と長期評価」(『科学』2011年5月号)
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「浦雲泊」=後期アイヌ文化期か 地名成立の時期考211228。
「浦雲泊」=後期アイヌ文化期か 地名成立の時期考211228。

 いつの時期、なにを契機に「トマリ」地名は成立したか。それはそれほど古くまで遡及しないと考えておきたい。
 対本州経済との交易圏が成立して後のことと位置づけてみる必要がありそうである。松前家が「アッケシ」=厚岸に交易拠点を設定した時期は記録にあって、寛永期のこととされている。「クスリ」=釧路川水系もアッケシ=厚岸・別寒辺別水系も、領主家直領地。つまり大名家が対アイヌ民族の交易権を家臣に付与することなく、自ら独占していた。松前からの交易舟を、直接、領主の代理者に相当する家臣を派遣していた。

 時代を経るにつれ、対アイヌ民族に対する交易量は増大していったと考えられている。
 このため、小河川に遡上するサケの乾燥製品。岩礁に生育するコンブの採藻漁業。岩礁に生育する海獣=毛皮交易、ほかにエゾシカ猟やヒグマの内臓も交易対象品であった。
 そのため自然採集・漁撈・狩猟の対象地は拡大していったと、ことになる。事実、宝暦後の一時期に、モシリヤチャシ跡を築造した一族の子孫は、サケ資源を求めて西別川、標津川の上流部にその勢力、具体的にはサケ漁撈の施業地を拡大していたと読むことのできる資料もある。

 釧路川東部の海岸線にあっても、漁撈・狩猟の適地を開発する必要があった。
 コムポモイとされた現 昆布森付近では縄文中期の遺跡が確認されている。他方、厚岸湾に面した古番屋 ふるばんや の地に「古番屋貝塚」が確認されているがその時代は「アイヌ文化期」なのである。この間には遺跡はないが、浦雲泊を含む十町瀬ー跡永賀ー冬窓床には、前節でみたとおりの資源採取可能地が存在し、アイヌ民族にとっての輸送手段たる丸木舟が通行可能な海域であった。その意味で、昆布森・古番屋とは異なる時代に遅れて、着手された労働力投資対象地と位置づける可能性が生まれてくる。
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対本州交易増量が背景か 「浦雲泊」地名の成立211228
対本州交易増量が背景か 「浦雲泊」地名の成立211228。

「冬窓床」「跡永賀」「浦雲泊」
漢字で表記し、記載すると難読地名のなら釧路国釧路郡大字昆布森村、同跡永賀村の海岸線。
そこになぜ「泊」という、本州語にもアイヌ民族の語にもみられる地名で、地域を表現するようになったのであろうか。
 北海道内では自治体名以外にも、行政字(あざな)として相泊(あいどまり 目梨郡羅臼町)がある。ほかにも赤泊(あかとまり 厚岸郡浜中町)、鴛泊(おしどまり 利尻富士町)をあげておく。
 山田秀三氏は「鴛泊(おしどまり」の項目で、「ウシ・トマリ(ush・tomar 入江の・泊地)」説を採用する(天保5年=1834年 今井八九郎図)を採用する。そのうえで箱館奉行所文書にある「オシ・トマリの儀は四、五丁入込候間■にて深さ七尋もこれあり」と、舟着き場としての性能を示す。
 ※今井八九郎は松前家家臣で測量方。蝦夷地沿岸を実地測量し、山田氏の指摘は北海道大学附属図書館所蔵「利尻島図(天保5年測量)」に依拠すると考えられる。
 ※「四、五丁」の「丁 ちょう」は109メートルと計算しておく。
 ※また、「尋」は深さの単位で、「両手を左右に伸ばしたときの、指先から指先までの長さを基準」、通常は「1尋は5尺すなわち約1.515メートル、ないし6尺すなわち約1.816メートル」と計算されてきた。

 本州での「泊」。たとえば現在の神戸港にあたる「大輪田泊」はあまりに著明。ほかにも越後国寺泊、南部国九艘泊(くそうどまり)の名も知られる。前者は和船の出入り湊の性格が強い。しかし後者の「九艘泊」には、「(陸奥湾内は波も穏やかだが)この海域だけは地形の関係からかよく時化ることがあり、波待ち(一時避難)のためにこの漁港を利用した」との伝承すらある。
 
 いくつかの作業仮説を設定することで、この場は考察することにしたい。
 作業仮説の第一。それは、前項で位置づけた「丸木舟にとって操船安全の海域」。そればかりではなく
作業仮説の第二。対本州交易対象品の生業産地化。
 海獣の狩猟地にして、拾い昆布の中間集荷地。丸木舟操舟可能地ゆえの好適条件としての理解。つまり被災を避け、安全に生業を営みかつ集荷を達成できる地としての特性を有する地であたとする解釈である。
 ただ、近世後期の文化年間(1804ー18年)の記録をみても、本州側経済が「冬窓床ー跡永賀ー浦雲泊ー十町瀬」間に「番屋 ばんや 操業集荷の作業施設」を設置していた記録は、今のところ見当たらない。

 作業仮説の三。それは釧路港東部の海岸線において「コンプモイーセンポウシ」間の中継避難港の機能という点である。この間を丸木舟で航行する機会があったか、否か。その点も記録と必然性は考えにくい。しかし、中間避難港の一つとする理解は、本州側にとってもアイヌ民族側にとっても必要な点であったことは想定しておきたい。

 今日、国土地理院電子地形図で読むと、江戸時代に「センポウシ」とされていた現在の「古番屋」の位置は厚岸湾の、外洋とは異なる安定度、静謐度がある。それには劣るも「コンプモイ」と称された昆布森漁港(釧路国)との間にある「浦雲泊」の地。そこはわずかな減災領域、避難海域としての価値と認識を、和船にあっても丸木舟操船にとっても必要な地点であった。それゆえに「泊」は、「コンプモイ=ポロ・トマリ」に対し、「ポン・トマリ」の地勢観が生じたのでないか。
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入り海
「入海」の岩礁でコンブ採藻 浦雲泊・ポントマリ・pon-tomar 211225

 「寄り昆布」
 拾いあつめて乾燥させ、本州側に引き渡す交易対象品となった、コンブ。
 海岸線に発達した岩礁はその資源育成地であった。明治期、そこに本州出身の定住家族に「コンブ干場」が割り当てられた。
 割り当ての単位は一世帯あたり「七百五拾坪」。

 「乾燥昆布」。
 本州側の昆布採藻漁業は、「寄り昆布」にとどまらない。
 洞海型漁船を駆使して海洋に乗り出し、採取した資源を天日乾燥で出荷する。
「浦雲泊・ポントマリ・pon-tomar」の浜には2世帯が割り当てられた。その様子が「加茂家干場台帳」に登載されている。

 「入海」
 台帳に「入海」の記載。「浦雲泊・ポントマリ・pon-tomar」は小湾というより、「入江」とするにふさわしい地形と立地条件。
 断崖が迫る太平洋に面した海岸線にあって、わずかにうかがわせる湾曲の砂浜。附属の岩礁は危険ではあったが、他方では昆布採藻資源を育む地なのだ。
「加茂家干場台帳」。この部分の記載は明治8年には済まされていた。かく考えるのが適当ではないだろうか。
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入江の相似地形、航行記録、居住ならではの自然観 樺太・北知床半島211226
入江の相似地形、航行記録、居住ならではの自然観 樺太・北知床半島211226.
 
 1808年7月 シラヌシから北知床半島の突端まで丸木舟をチャーターして行った第一次樺太探検。
 本州語、アイヌ語で共有の「泊 トマリ tomar」。その意味はいかなる意義を有するか。3点を指摘しておく。
 西海岸の半島は「能登呂半島」。東海岸には北知床半島が発達している。

 入江の相似地形。
 二つの半島の中核に、「大泊=(江戸時代から明治期にかけ)久春古丹(クシュンコタン)」 の地がある。
 その東には中知床半島が張り出しており、天然の要地。
 海洋の静謐=せいひつ 静かで落ち着いている を生み出している。

 航行記録
 間宮林蔵は文化5年7月、この入江を東に向かい樺太東海岸を同島北端に至る調査を試みる。
 能登呂半島西岸の「シラヌシ」を起点に、海岸に沿いながら北知床半島の先端にいたる。
 調査はその半島先端までたどりついたところで、丹念することに。
 当時の資料記載で「夷船」と示されたアイヌ民族の丸木舟 まるきふね による航行は困難と判断された。

 居住者の肉声
 幕府役人の探検調査の一行は、調査の労役も資材も現地調達ですすめられている。調査には多くの困難がともなった。
 丸木舟航行の難儀は本州側の想定を超えるモノがあって、現地居住者は負担に難色を示す。
 その肉声、言わば「ナマの声」が役人の報告書に記載されている。アイヌ民族の人々は口承伝承に生きている。
 その肉声が記録されることはこの時代にはなかなかありえない。本邦役人の記録によるが、そこには「泊 後志国」、「ポントマリ 釧路国」には録されることのない肉声記録に接することができる。
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