2008年02月の記事


今日の体重
 今日の体重は44.0kg、体脂肪率は22.7%。
 最近何だか抵抗力が落ちてた理由が判明。
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うむ
ただいま整理中。
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今日の体重
 今日の体重は43.8kg、体脂肪率は21.9%。

 一日二食だけにして水分を(僕にしては)大量に摂取すると体重が留まり易くなるみたい。
 昨日と今日は寝坊したので朝ご飯抜きで、喉が痛いので休み時間の度に水分を飲めるだけ摂ってました。
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苦髪楽爪
 時間が欲しいなぁ。と、切実に感じております。

 面白そうな調べ物の題材を教えていただいて調べ出したのはいいのだけど。
 今までにきちんと教わったことの無い分野の調べ物なので、今自分が調べてるやり方がどうも大きく回り道をしてる気がしてなりません。
 大まかにいえば僕の専門の分野と同じ分野にあるのだけど、時代と方向性がずれてるので調べ方が違うようなのです。
 取り敢えず、特定人物の年譜と著作を把握して、人物辞典とも比べて見て、特定人物が載っていそうな研究書を探して読んで、関連論文をCiNiiや辞典から探せるだけ探して読んで…とやってから特定人物の著作物に知りたい事項が載ってないか虱潰しに見てるんですが。
 どうも何かが抜けてる気がします。

 調べ物に費やせる時間が欲しいなぁ。
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本末転倒
 調べ物をしていたのだけど頭がこんがらかって来たので整理する為に少し書いてみます。

 芭蕉門下に斯波一有という人が居まして、芭蕉が門人に宛てて出した書簡中に二箇所ほどその名前が出てくるのです。

 一つめは元禄元年12月3日、芭蕉45歳のとき伊勢の門人益光に宛てた礼状の中で、返事の遅れたのを詫びたあたりに「勝延丈・又玄子・一有子可然奉頼候。」と「一有」の名が他の伊勢在住の門人と共に挙がっています。
(該当箇所は日本古典文學大系46『芭蕉文集』所収「書簡」だと369頁5行目)

 二つめは元禄7年6月24日、杉山杉風に宛てた返事の中で『別座舗』を上方の俳人 才丸が高く評価していたんだと一有が酒堂に語っていた事が書かれています。
(該当箇所は日本古典文學大系46『芭蕉文集』所収「書簡」だと489頁12,14行目)
 『別座舗』は芭蕉晩年の門人 子珊が杉風・桃隣とともに編纂した句集で、芭蕉が書いたこの書簡は杉山杉風から『別座舗』と共に送られた書簡への返事です。
 「才丸」は才麿、谷八郎右衛門ともいい、談林派だった頃からの芭蕉の友人(かな?)。
 「洒堂」は「浜田酒堂」で、前の号は「珍夕」。

 不可思議なのは二つめの書簡中の「一有」を、解釈書によっては芭蕉と他門の俳人としてる点。
 斯波一有は妻の斯波園女と同じく芭蕉の門人だったと思うのだけど。何故他門としてるんでしょう?
 二つめの書簡では「大坂にて伊勢より出で候一有と申す俳諧師かたにて」とあり、その頃既に斯波一有・園女夫妻は伊勢から大阪に居を移して居たから、その「一有」は「斯波一有」の筈なのに。
 斯波一有は最初こそ俳諧は伊勢談林派に属していたものの、芭蕉と交遊した後に門人になり、死ぬまでの間に他派に移ってない筈。門人になってから大阪に引っ越してるから元禄7年時点では確実に門人なんですけどねぇ。何か僕の調べが足らないのかもしれません。

 他に「一有」という号で俳人と面識のあった可能性のある人は「岡西惟中」しか思い付かないんですけど。
 けれども、「岡西惟中」は因幡国出身で伊勢出身じゃないから、おかしい。
 やっぱり「一有」は「斯波一有」である筈。

 もしかして、解釈書で本当は芭蕉門下の「斯波一有」を他門としてるのは、他門であった「岡西惟中」と混同してるからなんでしょうか。それならそれで混同を正すのが面倒臭いなぁ。
 それとも二人を芭蕉が取り違えていたとか?
 う~ん。
 「岡西惟中」の年譜でも確かめてみますか。

追記:
 延宝8年2月に惟中は 『破邪顕正返答』を刊行して随流著『誹諧破邪顕正』を批判しています。
 随流の『誹諧破邪顕正』は京談林派の高政編『誹諧中庸姿』を批難した書で、これ以降 惟中(談林派)と随流(貞門派)は互いを批判(and誹謗)する書を刊行し論争しました。
 延宝8年の時点ではまだ惟中は俳諧と関わっていたみたい。
 もし惟中が「一有」という号を使っていたならば、芭蕉の手紙に出てくる酒堂と話した「一有」を解釈書が他門とするのは、その「一有」を惟中のことと捉えたから。
 もしも元禄7年6月24日の芭蕉書簡中の「一有」が惟中のことであった場合、芭蕉が「伊勢より出で候一有と申す俳諧師」と書簡に書いたのは芭蕉門下の斯波一有と談林派の惟中の出身地を芭蕉が混同してしまっていた所為かも知れません。

 惟中の書の写本や影印版を見ているのだけど、まだ惟中が「一有」と号した書は見当たりません。
 何処にもなければ惟中の号を一有とするのは「惟中」と読みが似ていた「斯波一有」と混同したのだと推定出来ます。
 何処かに一箇所でもあれば、「斯波一有」と「岡西惟中」は同じく「一有」という号を持っていたといえます。

追記2:
 西暦と年号の確認に使ってた本の西暦が間違ってました。
 計算が合わなかった原因はこれか。
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今日の体重
 今日の体重は41.8kg、体脂肪率は21.6%。

 固形物、特に肉の塊が喉を通らないのがいたいなぁ。
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うむ
 電話を二時間以上してしまった。
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今日の体重
 今日の体重は42.8kg、体脂肪率は23.0%。

 喉の腫れと嘔吐感が酷くて下を向くと、うっかり何かが飛び出そうになります。
 白い紙に大量に並んだ黒い文字見てても、何かが逆流してきます。ディスプレイで見ても白背景はアウト。

 明日の用事を済ませば、風邪は兎も角胃痛の原因が一つ減る筈。
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今日の体重
 今日の体重は43.2kg、体脂肪率は23.6%。

 変化は特に無いけれど、風邪を引いたので今日はよく水分を摂りました。
 まぁ、水分と一緒に糖分も大量に摂ってるのであんまりよくないのでしょうけども。
 風邪が治ったら水だけに切り換えた方がいいんでしょうねぇ。
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今日の体重
 久し振りに量ってみたのはいいんですけど。厠に行く前と後で量ってみたら1kgぐらい違ってました。
 水分だけで約1kg。今日は珍しく大量に水分摂取したので其の所為なのかも。

 行く前の体重は44.4kg、体脂肪率は24.3%。
 行った後の体重は43.2kg、体脂肪率は23.4%。

 去年の12月ぐらいから色んな人に「やつれた」と言われ続けているんですが、本当に窶れていた時程には低体重じゃないので一安心。
 もっとも「やつれた」と「やせた」はイコールじゃないんですけどね。

 てか、水分を出しただけなのに体重が1kgも減ってしまうのなら、一日に1kg以上水分を摂り続けていないとやばいんじゃなかろうか。
 ああ、だからモデルさんとかは毎日水を大量摂取するのでしょうか。
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うむ
 今日は実に…うわぁ。思い返すと反省すべき点が多過ぎる。

 一日置いてから投稿しようとした文章見返して人に見せれない部分省みてから公開します。
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虚虚実実
 「Aが実はA´(ダッシュ)で、Bが実はB´とB´´を合わせたものであっただとか、そんな重箱の隅を突くような研究に何の意味があるんですか」
 上記は今日僕に質問しに来た(筈の)学生さんの科白。
 今将に重箱の隅を突きまくってる僕の耳には痛い科白です。

 てか、あの学生さんは、虚学の分野を研究して院に進みたいと僕に相談してた筈なんだけど…。
 意味がありやなしやと考えてる時点で、その人にとってはもう意味が無いのかも。
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寒降雪奢
 今朝は起きて外を見たら山が白く染まってました。
 雪を見ていたら次の漢詩を思い出しました。

   府城雪後作

  濃土近年看雪少
  今冬改觀變州疆
  簷氷數尺垂銀穂
  溪水横分泛玉漿
  野老始知春澳沐
  農夫只道歳豐穰
  愚蒙未得推天意
  唯愛衙前潔白光

 上記は元慶七年の冬に美濃国で島田忠臣が大雪の後に詠んだ漢詩です。
 書き下すと次のようになります。

  濃土 近年雪を看ること少なく
  今冬 觀を改めて州疆を變ふ
  簷の氷は數尺にして 銀穂を垂らし
  溪の水は横分して 玉漿を泛ぶ
  野老は始めて知る 春の澳沐なるを
  農夫は只だ道(い)ふ 歳の豐穰なるを
  愚蒙にして 未だ天の意を推り得ず
  唯だ愛す 衙前潔白の光を

 この漢詩の現代語訳は次のような感じです。
 「美濃の国では近年は雪を見ることが少なかった。しかし、今年の冬に降った雪には国の様子が変わってしまった。のきのつららは数尺もの長さになって銀色の穂を垂らして、溪の水は両分され玉漿のような雪を浮かべている。田舎の老人は始めて春に雪が解けて雪解け水が川に豊かに流れるわけを知った。農夫はただ大雪の年には豊作になることばかりをいう。私は愚かで道理にくらいから、いまだに天意をはかりかねている。ただ役所の前の清らかな白い光を愛でるのみである。」
 この現代語訳は僕の解釈なので、誤って解している部分がありますが、大体こんな感じです。
 訳の中で「田舎の老人」や「私」としたのは忠臣自身のこと。
 忠臣が京の都から遠く離れた美濃国(現在の岐阜県)に赴任し、それまでに見たことのない量の降雪に驚いたのは想像に難く有りません。

 ところで、上記に全然関係ないんですが。
 明日がバレンタインだってのすっかり忘れてたので、薔薇もチョコレートも何も購入しておりません。
 やばい。
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うむ
 雑誌に掲載される文章の手直しが終わらず。
 先生にメールで送る度に謝りたくなります。

 逃げ出したいけど向き合わなくちゃ。
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謝天謝地
 最近、メール送る度に「ごめんなさい」とパソコンのディスプレイに向かって言っている気がします。
 いや、気がしますじゃなくて実際周囲に人が居てもうっかり口に出てるんですけども。
 さっきも研究室に居たのにうっかり口から出てました。

 先生ごめんなさい。

 迷惑掛けたい訳じゃないんですよ。お忙しいのも多少は察してはいるんですよ。
 出来れば謝るんじゃなくて感謝の言葉を伝えたいのだけど、謝らなくちゃならないことが多過ぎて。

追記:
 う~ん。言わなきゃ良かったかも。
 先生ごめんなさい。
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うむ
契約書がやっと一セット書けた~。

後二セット…。
何で全部記入は手書き必須なんですか。
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慈母敗子
 もやもやしたので書き留め。

 小さい頃、絵具を捨てられた事がありました。捨てたのが母なのか父なのかは覚えていませんが、捨てられた事がショックで、両親に対して反抗的な態度を取り、怒りを言葉にして喚き散らしました。
 その後は、絵を毎日描く事はなくなり、描くことに没頭しなくなりました。
 今にして思えばあれは新しい絵具を大量に買って貰った直後で、古いものはもう要らないと思われていたのでしょう。

 幼い頃には模型を作る事にも嵌ってました。
 プラモデルみたいに組み立てるものではなく、発泡スチロールや木材を自分で切り出して一から建物や乗り物のミニチュアを作ってました。作るのが楽しくて仕方ありませんでした。
 模型が二桁以上溜まった頃、親に言われて模型を捨てました。
 写真に撮って遺しておくからいいよね、と母に言われて納得して捨てたのだけど、捨てた後は模型を作らなくなりました。
 今にして思えば写真に遺したのは、絵具の件があったからだと思います。

 小学生の頃に父に習って作ったBASICのプログラムを入れたフロッピーもいつの間にかなくなりました。
 大量にあったNEC PC9801を数台だけ残して処分した際に一緒に捨てられたのだと気付いたのは中学生の頃でした。
 気付いてからはBASICを弄っても以前のようには楽しくなくなり、中学の授業以外でBASICに触れようとしなくなりました。

 薄くて高い冊子を作ることや買うことに夢中になっていたこともありました。
 思春期だったからか自分の趣味を人に知られるのが恥ずかしくて、手に入れた作品の大半は要らなくなったサイエンス雑誌に隠しボロボロの段ボール箱に入れて物置の隅に置いてました。
 ある日、物置に置いた段ボール箱が雑誌束と共になくなってました。
 廃品回収に出した大判のサイエンス雑誌の束に薄い冊子が挟まっていたことに、母は今でも気付いていないと思います。(そう思いたい。)
 今はそういう冊子について熱をこめて活動することがなくなりました。

 数学の問題のプリントの束を捨てられたこともありました。
 それまで揮わなかった数学の成績が急激に上がり、偏差値が一気に10以上増えて70を超えて、数学の問題を解くのが面白かった頃のプリントでした。プリントには国公立大の二次試験頻出問題が載っており、僕はそのプリントに一つの問題につき数通りの解法を記していて、物忘れの激しい僕は数ヶ月毎にその問題を解き直して復習してました。
 他人から見たら僕の汚い字が書き散らしてあるただの紙束だったのでしょう。
 プリントに印刷されている数学の問題も、国公立の二次試験の過去問の数値を変えただけで、オリジナルのものではなく、過去問を集めた問題集を見ればほぼ同じ問題が載っていました。特別なものではありません。
 けれど、僕にとっては大事なものでした。
 今でも数学の問題を解くのは楽しいし、解法に至る道筋を塾で子どもに教えるのも楽しいのだけれど。そのプリントの問題を見直して解いていた頃程の愉しさはありません。

 こうやって書き連ねてみると、何だか愛着のある物を捨てられてばかりのように見えてしまうけどそうでもなくて。
 僕が幼稚園の頃に初めて糸を通した針と、その針で初めて縫って作ったぐちゃぐちゃの刺繍を母は今でも捨てずにとっています。僕が刺繍に嵌っていた時に作った壁掛けやハンカチやカバーの類も、捨てられることなく飾られています。
 小さい頃の僕が山から拾ってきた木の葉や石なんかも、捨てずにまだ実家にあります。
 PC9801もまだ屋根裏に数台あります。
 初めて半田鏝を使って作った電子回路キットも保存されてます。
 掛け軸に仕立ててある、場所を取ってしまう大きさの僕の拙い書道作品も、母のウォークインクローゼットの片隅に保存されていました。
 黒魔術の書籍や、SF小説、推理小説も、書斎や僕の部屋から屋根裏にその置き場所を変えはしたものの、捨てられはしてません。
 僕にとっては思い入れのあるものでも、母や伯母にとっては得体の知れないものもかなりあるだろうに。

 「自分にとって大事なものだから捨てないで欲しい」という要望を何がどう大事なのか全く伝えずに、僕が要望の実現を親に期待するのは、親に甘え過ぎていました。
 もし、「自分にとっては大事ではないから黙って捨ててしまおう」と親が思っていたとしたら、親子という繋がりに甘えていたのだと思います。
 僕が大事に思うものと、親が「子が大事にしているもの」であろうと把握しているものが微妙にずれていたのが僕らの食い違いの元で。食い違ったのはお互いの認識不足に気付くに至るまで意思疎通が足らなかった故で。意思疎通が足らなかったのは親子だから言わなくても分かるだろうとお互いに甘えていたからで。
 …結局のところ、甘えていたのは僕なのでしょう。

 以上、http://anond.hatelabo.jp/20080205210908を読み、自分の事を思い返してもやもやしてる部分を書き留めてみました。
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寝た間は仏
 よくないことなのでしょうが、椅子の上で眠るのがうまくなりました。
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湯婆購入
 寒さに耐え切れなくなってとうとう湯たんぽを買いました。
 立春に今更という感はありますけれど。

 「湯たんぽ」は全部漢字で書くと「湯湯婆」と書きます。
 「湯たんぽ」の「たんぽ」は、「湯婆」もしくは「湯婆子」の唐音読みからきてるんだそうです。

 中国の宋代の詩人 蘇軾の「致楊君素」という書信にも「送暖脚銅缶一枚 毎夜熱湯注満 密塞其口 仍以布單衾裹之 可以達旦不冷」と湯たんぽらしきものが出てきます。
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年忘行事
 今日は節分。歳の数以上に炒り大豆をいただきました。

 今日は「お化けの日」として、舞妓さんや芸妓さんがいつもと違う扮装をして過ごす日だったらしいです。
 そんなのすっかり忘れて梅を見に行ってたので仮装した人を見ずに今日は帰ってきてしまいました。

 お化けの日は厄払いをする為に節分会に厄年の女性が仮装したのが始まりだそうです。
 老婆は若い娘のように島田に結って、若い娘は良縁が来るように既婚女性がするように丸髷に結って、その仮装をお化けと称したんだとか。
 同じ節分会の日に花街では芸妓さんが趣向を凝らして仮装してお座敷を巡るようになっていったのだそうです。
 京の芸妓さんじゃなくても、水商売に従事する人は仮装してお客さんを楽しませる「お化けの日」のイベントを節分の時期に設けているらしいです。

 綺麗どころのお化け、見てみたかったなぁ。
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迷悟不二
 期日を延ばしていただいたのに、迷った挙句、気に入っているからなんて理由で課題に沿わないレポートを提出しました。
 一応二つ書いて良い方を提出したのだけど、良い方なんだけど…う~ん。先生ごめんなさい。

 迷いと悟りは本来同一のもので、迷うという事は悟りつつあるという事の筈なんだけど…。
 本当に僕が悟れるのは一体いつなんでしょうか。
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伝言
 公開しているオンラインブックマークでこの日記のみブックマークするのはお願いですから勘弁してくださいまし。
 非公開やローカルのものでしたら何も申しません。
 日記を更新する度に数千字を超える感想をメールで伝えてくださる奇特な知人が居りますので、その人が飽きるまではこの日記をその人に見せたく有りません。
 その人のことは嫌いでは無いし、交流を断ち切るつもりもありませんが、ただ、長い長い感想を貰う度に胃が痛くなるのです。

 この記事そのうち消します。
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