本末転倒
 調べ物をしていたのだけど頭がこんがらかって来たので整理する為に少し書いてみます。

 芭蕉門下に斯波一有という人が居まして、芭蕉が門人に宛てて出した書簡中に二箇所ほどその名前が出てくるのです。

 一つめは元禄元年12月3日、芭蕉45歳のとき伊勢の門人益光に宛てた礼状の中で、返事の遅れたのを詫びたあたりに「勝延丈・又玄子・一有子可然奉頼候。」と「一有」の名が他の伊勢在住の門人と共に挙がっています。
(該当箇所は日本古典文學大系46『芭蕉文集』所収「書簡」だと369頁5行目)

 二つめは元禄7年6月24日、杉山杉風に宛てた返事の中で『別座舗』を上方の俳人 才丸が高く評価していたんだと一有が酒堂に語っていた事が書かれています。
(該当箇所は日本古典文學大系46『芭蕉文集』所収「書簡」だと489頁12,14行目)
 『別座舗』は芭蕉晩年の門人 子珊が杉風・桃隣とともに編纂した句集で、芭蕉が書いたこの書簡は杉山杉風から『別座舗』と共に送られた書簡への返事です。
 「才丸」は才麿、谷八郎右衛門ともいい、談林派だった頃からの芭蕉の友人(かな?)。
 「洒堂」は「浜田酒堂」で、前の号は「珍夕」。

 不可思議なのは二つめの書簡中の「一有」を、解釈書によっては芭蕉と他門の俳人としてる点。
 斯波一有は妻の斯波園女と同じく芭蕉の門人だったと思うのだけど。何故他門としてるんでしょう?
 二つめの書簡では「大坂にて伊勢より出で候一有と申す俳諧師かたにて」とあり、その頃既に斯波一有・園女夫妻は伊勢から大阪に居を移して居たから、その「一有」は「斯波一有」の筈なのに。
 斯波一有は最初こそ俳諧は伊勢談林派に属していたものの、芭蕉と交遊した後に門人になり、死ぬまでの間に他派に移ってない筈。門人になってから大阪に引っ越してるから元禄7年時点では確実に門人なんですけどねぇ。何か僕の調べが足らないのかもしれません。

 他に「一有」という号で俳人と面識のあった可能性のある人は「岡西惟中」しか思い付かないんですけど。
 けれども、「岡西惟中」は因幡国出身で伊勢出身じゃないから、おかしい。
 やっぱり「一有」は「斯波一有」である筈。

 もしかして、解釈書で本当は芭蕉門下の「斯波一有」を他門としてるのは、他門であった「岡西惟中」と混同してるからなんでしょうか。それならそれで混同を正すのが面倒臭いなぁ。
 それとも二人を芭蕉が取り違えていたとか?
 う~ん。
 「岡西惟中」の年譜でも確かめてみますか。

追記:
 延宝8年2月に惟中は 『破邪顕正返答』を刊行して随流著『誹諧破邪顕正』を批判しています。
 随流の『誹諧破邪顕正』は京談林派の高政編『誹諧中庸姿』を批難した書で、これ以降 惟中(談林派)と随流(貞門派)は互いを批判(and誹謗)する書を刊行し論争しました。
 延宝8年の時点ではまだ惟中は俳諧と関わっていたみたい。
 もし惟中が「一有」という号を使っていたならば、芭蕉の手紙に出てくる酒堂と話した「一有」を解釈書が他門とするのは、その「一有」を惟中のことと捉えたから。
 もしも元禄7年6月24日の芭蕉書簡中の「一有」が惟中のことであった場合、芭蕉が「伊勢より出で候一有と申す俳諧師」と書簡に書いたのは芭蕉門下の斯波一有と談林派の惟中の出身地を芭蕉が混同してしまっていた所為かも知れません。

 惟中の書の写本や影印版を見ているのだけど、まだ惟中が「一有」と号した書は見当たりません。
 何処にもなければ惟中の号を一有とするのは「惟中」と読みが似ていた「斯波一有」と混同したのだと推定出来ます。
 何処かに一箇所でもあれば、「斯波一有」と「岡西惟中」は同じく「一有」という号を持っていたといえます。

追記2:
 西暦と年号の確認に使ってた本の西暦が間違ってました。
 計算が合わなかった原因はこれか。