2026 08/18 11:05
Category : 地域
豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし かわる河口」 『北海道歴史探訪』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
(駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。
豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
(駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。
豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
(駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。
豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。
(駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。
豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。
https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』