2026 08/16 10:57
Category : 地域
八王子同心二題 その足跡&農業と道路つくり 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816
八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。

なぜこの場所が選ばれたのか。
蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。
白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。
農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
(1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
(4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。
阿寒で硫黄・明礬をとった。
原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
り 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816
八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。
なぜこの場所が選ばれたのか。
蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。
白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。
農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
(1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
(4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。
阿寒で硫黄・明礬をとった。
原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。
なぜこの場所が選ばれたのか。
蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。
白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。
農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
(1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
(4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。
阿寒で硫黄・明礬をとった。
原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
り 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816
八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。
なぜこの場所が選ばれたのか。
蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。
これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。
白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。
享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。
文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。
農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。
(1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、
(4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。
大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。
阿寒で硫黄・明礬をとった。
原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。
道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。