八王子同心シラヌカ移住者記録 『御寺建立以前之過去帳』史跡国泰寺跡蔵
 八王子同心シラヌカ移住者記録 『御寺建立以前之過去帳』史跡国泰寺跡蔵

 「(享和二年)五月十八日 八王子」「一.宗無信士 八木正蔵」。以下、十五名の法号と姓名が記載された、記録。
 史跡国泰寺跡に継承された『御寺建立以前之過去帳』に記載の一節。
 享和二年は一八〇二年、文化元年は同〇四年。その年に物故者となったことを示す。
260801  御寺建立以前之過去帳 八王子同心 白糠太字.jpg
 「八王子」は現在の東京都下、中央本線沿線に位置する都市。
 往時は武蔵国にして甲府街道の<江戸の西の守り>の位置にある。
 江戸時代中期ごろから、生糸や絹織物が盛んに商われ、「桑都 そうと」の異称すらあった地なのだ。

 「桑も栽培できる」。 寛政十一年正月、幕府が蝦夷地太平洋岸の浦河~知床を仮直轄した。
 この政策をうけ、八王子にあった原半左衛門胤率いる同心100名が蝦夷地警備にあたり、それぞれ50人ずつが勇払と白糠に入る。
 しらぬか叢書『白糠町史』は、寛政十二年三月に武蔵国八王子を発ち、同四月下旬か五月の初旬ころ、白糠に到着したとする。

 翌年にはさらに勇払と白糠に各十五名の追加派遣があったというから、総勢各六十五名の入植であるも、たちまち犠牲者を出すことになったのであろう。
 享和二戌年。つまり一八〇二年 イヌの歳二月からの犠牲者が記録に登載されてあったのだ。
 
 史跡国泰寺跡の初代住職は、アッケシに旧暦神無月に着し、翌霜月3日に往生していた。
 このこともあり、『御寺建立以前之過去帳』は二世萬善住職の世に、十勝以東択捉までの地を巡回した時点で、記載され法号が追増されたもので、その典拠記録は明らかではない。

 故に文化年間(一八〇四~一七年)までには記録され、記録継承地に所在の記録たる点は確実である。