トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
 トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年
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シラヌカ場所を統合 享和2年(1802)に幕府は、独立していたシラヌカ場所をクスリ場所にくみこみ一つの場所とした。また、アッケシ場所との境を東に移し、これまであいまいにされていた、内陸の場所境も明確にするようにした。
 ひとつは幕府が蝦夷地を経営するうえで、交通の整備や生産活動を効果的に行うためのものである。2点目は、これまで経済の単位として利益を生み出す対象にしかすぎなかった地域を、行政の単位として位置づけたことである。

隣接地との境界 クスリとアッケシの場所の境は、享和元年(1801)まで釧路町・昆布森の西にあるアチョロベツ川にあった。この年、仙鳳趾より東へ一里十九丁ニ十間さきのモウセウシに移した。現在の厚岸町と釧路町の町境である。その理由はアッケシ場所の面積が広いのに、アイヌの人数が少ない。それでは、道路工事、荷物輸送の距離がなくなり、人夫が不足でこの負担がたいへん、ということになった。役人や警備の藩士が頻繁に来るから荷物輸送にかりだされる機会の距離も増える。場所境をアッケシ側に無理やり移し、場所の面積をせまくしたのである。
 クスリとシャリの境は文化年間(1804~18)にケネワッカヲイというところに決められた。クスリとシャリの道をつくるため、クスリ、シャリ、ネモロのアイヌが動員された。ところが、この3者の中で、クスリのアイヌの勢力がすこぶる強い。クスリのアイヌは道路工事の範囲を縮小するため、それまでの場所境であるヲタウニから20丁くらいクスリよりのケネワッカヲイ(中標津町計根別のあたり)に強引に移したという。
 (「場所境の選定と国泰寺設置」 ホッカイネット『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
  https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-4.html )