幕領化政策で経営・警備の人心安定を象徴 東蝦夷地伝承の文化財―後―
シラヌカ=幕領化政策で経営・警備の人心安定を象徴 東蝦夷地伝承の文化財―後― by Hirotsugu Sato
260830  白糠旧運上所図 国後ゟ  Modiyfy.jpg
寛永20年記載のオランダ船船長記録と同時期の松前家記録。それによるとクスリ以東が大名家交易対象地であるのに、トカチ・シラヌカは家臣給与地の対象地となっていました。
これを反映してか寛文9年に起きたシャクシャインの戦いでシラヌカに派遣された交易船で13人の犠牲者(『津軽一統志』)、また「松前之図」にある、犠牲者や遭難船の数では「シラヌカ 蠣崎蔵人 船 人数14人 クスリ 前田九郎左衛門 人数 8人」とあるのです。
時に 前田九郎左衛門なるものは蠣崎蔵人とともに白糠におけるアイヌとの交易権を認められていた藩の有力家臣のひとりということで、追補されてクスリで遭難したものか、難しいところです。

幕府がユウフツと並び、まずシラヌカの地を重視したのは、ここに述べた背景があった故かもしれません。選ばれたユウフツの地は勇払川―千歳川―石狩川を通じ、太平洋岸と日本海岸をむすぶ地点です。
シラヌカには3点のルートがありました。

一は茶路川―利別川を経由して十勝川―石狩川につながるトカチ。イシカリへの道(「利別道」としておきます)。後述するも、そもそもトカチアイヌ民族はこの「利別道」を経て、トカチアイヌ生活圏に連なっているのです。
二に庶路川―迂遠別川―阿寒川―網走川(幕府は「網走山道」とします)で、太平洋岸とオホーツク海岸を結ぶ道です。
三に釧路川―斜里川(幕府は「斜里山道」としました)を経て、これまた太平洋岸とオホーツク海岸を結節する道です。八王子同心にとって、この斜里山道は、その任期中に修復に務めた幕府記録も残されている道です。ユウフツ・シラヌカ共に、江戸経済圏の東蝦夷地と、日本海経済圏に依る西蝦夷地、また中国大陸とつながる北蝦夷地=樺太への分岐点。

特にシラヌカであれば箱館~国後・択捉への千島方面に加え、西蝦夷地のイシカリ、同・カラフト、つまり三方向の経営と警備の枢要地としての性格を体現する地です。