集団就職 その四 集団就職の送出地-移住エリアの差異230111
 集団就職 その四 集団就職の送出地-移住エリアの差異230111

 筆者は1956年に小学校、1959年が義務教育卒業です。釧路国内の、しかも小中併置の教育機関で修学しました。56年、59年のいずれもが集団就職の対象期に位置し、その前期部分に該当する。「金の卵」世代の対象者です。

 4.集団就職の送出地-移住エリアの差異 さきに集団就職その二で、「TEXTに『岩手は日本のチベット』と記載のあった記憶があります」と、書いた。そこで、この記憶ってなんだった、その思いで調べてみた。
 「ニュース映画の題材【「脚光あびる日本のチベット」岩手県】に使われたのが最初です」。そう、記載するネット情報があった。
 (https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12652965.html  質問者:katsuobox.質問日時:2021/11/02 07:24)
 
 その時代を別なネット記事は「戦後、1950~1960年代には」
 「山あいで交通の便が悪いこと」「主な産業が新日本製鉄の釜石製鉄所位しかなく」
 「所得水準が全国でも低いことから、『日本のチベット』と呼ばれてもいました」
 ( https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109387295?__ysp=5bKp5omL55yMIOaXpeacrOOBruODgeODmeODg%2BODiA%3D%3D )

 2010年のことながら、広島市東区で農家世帯で育った方の連れ合いさんと話をした。
 (筆者)「広島は移住県といわれて北海道にも、そしてハワイにも多くの移住者を送り出している」。
 (同)「しかし、代々営農を持続してきたことは、とても恵まれていたのではないか」。

 応じてくれた稲作農家のい末弟を夫にもつ女性は次のように応じた。
 「家を継ぐ跡継ぎはなんとかなるのです、しかし余剰労働力となる非後継者はたいへんです」
 そこで「跡継ぎ者は農閑期にどのようにして経営をつづけるの?」の問いを、その時はしていなかった。

 末弟にあたる一家は、そこは県内に軍都をまじかにもつ<ふりかけ製造業>の工場長職にある家柄。
 実家は長兄がつぐも最後は県内の高校長を務める兼業農家。その娘さんが連れ合いを経て高校教員と兼業している。そう聞いている。
 一時期、30キログラム入りの袋詰め玄米を送っていただき、あわてて精米機を購入したことがある。
 なんでも、実家の姪たちが収穫後贈ってくれるなかから、<お裾わけ>に預かれたものらしい。

 ここでの話題は「集団就職」。
 中国地方の中枢都市たる広島県の県庁所在地。そこの専業農家さんでは、後継者たりとも農閑期の出稼ぎはなかった。
 そこが集団就職対象地にして、1960年代初頭から開始の農業構造改善政策のなかで、7割の農業経営体が残った西日本と半分が離農したとされる東日本の差異ではないか。
 
 次に同じく移住者送出地にして集団就職対象地の専業農家。その農閑期がどうなっていたか。
 1955年前後から、多くの集団就職者=金の卵組を送り出した東北各県では、専業農家の後継ぎが農閑期には首都圏に出稼ぎする。
 <農閑期の出稼ぎ>が、東北各県の農業経営をささえるもう一つの支柱。今、そうした対比を念頭においている。

 本項をむすぶにあたり、1960年代初頭から開始の農業構造改善政策で3割強しか残らなかった北海道東部の余剰労働力はいかに、吸引されたか。
 1970年代。中核都市が<人口ダム池>となって離村の後継者、離郷の漁村漁業従事者を<役場所在地>につなぎとめた。
 その可能性が期待できなくなる時。1985年にバブルがハジケ、1997年には本道を経営拠点とした都市銀行が経営破綻。

 同98年。「試される北海道」のキャッチコピーが北海道内を席捲(せっけん)した。公共投資は圧縮され、生産拠点の海外移転が明瞭となった。