集団就職 その四 230113  集団就職を象徴する「集団就職列車」
集団就職 その四 230113  集団就職を象徴する「集団就職列車」。
 その第一便は「昭和29=1954年4月5日青森発上野行き」に始まり、「1975年3月24日、盛岡発の集団就職列車が上野駅に到着」して終わると、されている。
その22年間に日本経済は、1)「もはや戦後ではない」=昭和30年、2)炭鉱閉山と農業構造改善事業=昭和36年前後、3)転型期論争が展開した昭和41―48年、4)本邦高度成長経済が終焉し地方が構造不況期に当面する昭和55年。5)そして高校進学者が9割超の時代を迎えた。
それぞれの時期には集団就職も、<金の卵>たる義務教育卒業者にも、それぞれ変化の局面があったはずだ。

4.集団就職の送出地-移住県の差異 さきに集団就職その二で、「TEXTに『岩手は日本のチベット』と記載のあった記憶があります」と、書いた。そこで、この記憶ってなんだった、その思いで調べてみた。
 「ニュース映画の題材【「脚光あびる日本のチベット」岩手県】に使われたのが最初です」。そう、記載するネット情報があった。
 (https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12652965.html  質問者:katsuobox.質問日時:2021/11/02 07:24)
 
 その時代を別なネット記事は「戦後、1950~1960年代には」
 「山あいで交通の便が悪いこと」「主な産業が新日本製鉄の釜石製鉄所位しかなく」
 「所得水準が全国でも低いことから、『日本のチベット』と呼ばれてもいました」
 ( https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109387295?__ysp=5bKp5omL55yMIOaXpeacrOOBruODgeODmeODg%2BODiA%3D%3D )

 2010年のことながら、広島市東区で農家世帯で育った方の連れ合いさんと話をした。
 (筆者)「広島は移住県といわれて北海道にも、そしてハワイにも多くの移住者を送り出している」。
 (同)「しかし、代々営農を持続してきたことは、とても恵まれていたのではないか」。

 応じてくれた稲作農家の末弟を夫にもつ女性は次のように応じた。
 「家を継ぐ跡継ぎはなんとかなるのです、しかし余剰労働力となる非後継者はたいへんです」
 そこで「跡継ぎ者は農閑期にどのようにして経営をつづけるの?」の問いを、その時はしていなかった。

 末弟にあたる一家は、そこは県内に軍都を間近にもつ<ふりかけ製造業>の工場長職にある家柄。
 実家は長兄がつぐも最後は県内の高校長を務める兼業農家。その娘さんが連れ合いを経て高校教員と兼業している。そう聞いている。
 一時期、30キログラム入りの袋詰め玄米を送っていただき、あわてて精米機を購入したことがある。
 なんでも、実家の姪たちが収穫後贈ってくれるなかから、<お裾わけ>に預かれたものらしい。

 ここでの話題は「集団就職」。
 中国地方の中枢都市たる広島県の県庁所在地。そこの専業農家さんでは、後継者たりとも農閑期の出稼ぎはなかった。
 そこが集団就職対象地にして、1960年代初頭から開始の農業構造改善政策のなかで、7割の農業経営体が残った西日本と半分が離農したとされる東日本の差異ではないか。