「西行法師」
『 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃 』

 西行は生前につくったこの歌のとおりに、桜の咲いていたその日(旧暦の2月16日)に亡くなったとされています。
ちなみに今年の旧暦2月16日の望月(満月)の日は明後日の3月8日です。
 
 ところで、歴史小説作家の陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」と言いましたが、その点については誰しも異論がないところです。

 古い時代には、著作物は権力者におもねることで生き延び、歴史を作る勝者側に配慮することで後世に名を残します。
そのため、正史においても勝者の都合の良いように脚色されるのは当たり前で、敗れた側(悪役)をより暴虐非道に描くのは至極当然です。

 平家や平清盛についてもそうです。
鎌倉時代に成立した「吾妻鏡」や「平家物語」なども自ずと権力側(源氏)に配慮したものになり、敗者側の平氏に対しては批判的にならざるを得ません。
そうしたことの影響で現代の平清盛のイメージも出来上がっています。敗者側であるが故に資料も少なく、悪者との評価ゆえに人気がなく、それ故に感情移入がしづらいというのが今までの清盛像です。

 NHKTVの大河ドラマ「平清盛」は娯楽作品であり、フィクションです。
荒唐無稽の挿話や必要以上の対比、「ありうべからざる」場面もいちいち目くじらを立てるほどのことでもありません。

 ちなみに、大河ドラマに北面の武士(院御所の北面に詰め、上皇の身辺を警護した武士)として登場する佐藤義清(さとうのりきよ)は後の西行で、同世代の清盛が同時期に北面の武士に任じていたことは史実のようです。

 ずいぶん後の話で、清盛の悪評の一つですが、清盛は反対勢力の一掃を狙い、南都(奈良)の興福寺や東大寺を焼き討ちにします。
西行(出家後の義清)は晩年に東大寺再建の勧進(寺院建立・修理のための寄付を募ること)を行うため奥州藤原氏のもとへ向かうのですが、旅の途中で鎌倉に立ち寄り源頼朝と面会したと吾妻鏡に記されてるそうです。

 その際、頼朝は、弓馬の達人として名が知られていた西行に教えを乞います。そしてその翌年から鎌倉で流鏑馬(やぶさめ、疾走する馬上から的に矢を射る儀式)が奉納されるようになったそうです。