「行儀作法」
 現代社会は行儀作法を教わる機会が少なく、それらを関連本などで学ぶ人が多いと聞きます。

 司馬遼太郎は行儀作法に関して、「快適にその日その日を生きたい、という欲求が、人間なら誰にでもある。この欲求を相互に守り、相互に傷つけることをしない、というのが日常生活の元の元となるものだ。だから、群居している人間の仲間で、行儀作法が発達した」と述べています。

 つまり行儀作法は、自分も不愉快な気持ちを持ちたくないように、相手にも不愉快な思いをさせないためのものであり、相手に対する感謝や相手を思う心そのものですね。

 立ち居振る舞いの美しさ、またはそれを教えることを、身を美しくすると書いて「躾(しつけ)」と言いますが、昔はどこのご家庭にも行儀作法を厳しく言ってくれる人がいました。

 たとえば下記のような言い回しで注意されることが多く「三つ子の魂百まで」で自然と身につけることができたように思います。


 「炊きたての米にお汁をかけて食べると、目がつぶれる」

 「敷居を踏むことは、親の頭を踏むのと同じ」

 「御飯を食べてすぐ横になると、牛になる」


 行儀が悪いから良くないと言われるよりも、「牛になる」と言われるほうが余程インパクトがあります。
挨拶の仕方や箸の持ち方、姿勢や歩き方等々、今思えば孫のため、子のためのことであったことがよく分かります。