沖縄「慰霊の日」
 今日23日は、63年前の第2次大戦末期、およそ80日間にわたり繰り広げられた国内で唯一の地上戦の地である、沖縄の「慰霊の日」です。

 先の大戦は政治・外交、社会に現在も大きな影響を及ぼしていますが、戦争を体験したことのない、今や多くの世代は、報道や記録等で伝え聞くことでしかその悲惨さの断片を知ることができません。

 沖縄戦の最終局面で大田中将(階級は死後の特進)が自決の前に発した電文には、当時の慣例であった「天皇陛下万歳」等の文言や勇戦の報告はなく、惨状とただひたすらな祈りが記されています。この電文は後世の政治に少なからずの影響を与えたといいます。

以下に、「本職、県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之二代ワツテ緊急御通知申上グ」で始まる電文の一部をご紹介したいと思います。

 沖縄本島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき。然れども・・・砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出るものあり。
・・所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生き別れ娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発し身寄り無き重傷者を助けて真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。・・以来、終始一貫勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ只ひたすら日本人としてのご奉公の護を胸に抱きつつ遂に与えることなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形を変え一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂う。
 沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを。

 後日談ですが、大田中将のご息女の一人は、生活の場をアメリカに移した際、日本軍幹部の娘ということでひどいいじめに遭いました。後年、小渕総理が会った際、「大変でしたね」と言葉をかけると、彼女は「父の苦労に比べたらたいしたことはありません」と泣き崩れたそうです。