2011年12月の記事


「弓を構える兵士」
<<中国>>--西安--


これは立って弓を構える兵士の様子を現した像である。

弓矢こそ持っていないが、極めてリアルに、兵士が矢を弓に番えている姿が、実に良く表現されている。

1号坑では、沢山の兵士が整然と整列して、行進している様子を見ることが出来るが、二号坑から出土された兵士の像は、戦闘体制に入った兵士の動作を表現している物が多い。

この像の姿から、当時の戦闘場面がありありと想像されるのではないだろうか。

それにしても、この兵士の頭髪を頭の上で纏めた姿が、脇で携帯を掛けている中国女性の頭と似ているのが、興味深い。

当時の中国における、北方民族との戦いは、何万何十万という単位の軍隊であったと言うから、その規模の大きさからも、如何に大量の、想像を絶する人馬による消耗戦であったかが、中国史からも読み取れるのである。
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「馬を曳く兵士②」
<<中国>>--西安--


前出の馬を曳く兵士の全身像から、兵士と馬の顔をアップで捉えてみた。
こうして近くでまじまじとこの像を眺めていると、実にリアルで今にも動き出しそうな錯覚を覚える。
人も馬も実物大だから、これだけの迫力が有るのだろうか。
この像が有史以前に作られたとは、思えないほど精巧に作られていて、当時の陶工の技術の高さに改めて驚かされる。
紀元前250年前の、秦の兵士の髪型や兵装、馬の迫力など、現代彫刻としても十分通用するのではないだろうか。
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「馬を曳く兵士」
<<中国>>--西安--


これも二号坑の、二階展示室に飾られている、馬を曳く兵士の像である。

陶器などなら分かるが、これだけ大きな像を一体ずつ窯で焼くのは、かなりの手間暇が掛ったのではないかと、その努力が偲ばれる。

しかもこれを制作したのは、紀元前の時代で、その数数万とも言われているから、想像を絶する技術と労力であったことは想像に難くない。

これらの像をじっと見ていると、あたかも人馬が時空を越えて、現代の世に蘇ってくるかのような気持ちになる。

これらの俑は紛れも無く、タイムカプセルで、秦の始皇帝時代の人々が形を変えて、現世に蘇ったと言えるのではなかろうか。
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「二号坑兵馬俑発掘現場」
<<中国>>--西安--


前出した射手の像などが発掘された、二号坑の発掘現場である。

この現場は、巨大なドーム状の社屋で囲われており、二階に回廊があり、そこには様々な発掘された俑が展示されており、ぐるりと取り巻く二階の周囲から、この発掘現場を見下ろすことが出来る。

そこには、まだ発掘されたばかりの兵馬俑が、この様に発掘当時のままの状態で置かれている。

何千何万とも言われる、これら無数の像が畑の中から出て来た時には、発見者や考古学者達はさぞ驚いたことであろう。

これら全ての像が、等身大であり皆顔が違うというから、製作に携わった人間の苦労が偲ばれるというものである。
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「射手」
<<中国>>--西安--


一ヶ月続いた松江の旅も一先ず終了とし、再び中国、スペインの旅シリーズに戻ろうと思う。

この像は兵馬俑二号館から出土した、弓を引く射手の像である。

片膝をついて弓を構える右手が、矢を番えるにしては、ちょっと様子がおかしいと思う人も居るかもしれない。

実はこの射手が構える武器は、弩(ど・いしゆみ・仕掛けゆみ)という兵器で、矢を弓の発射台に固定して、引き金を引くと、矢を発射させることの出来る、手で射る弓矢よりも強力な武器なのである。

今でも愛好家が多い、ボウガンに良く似た武器である。

紀元前200年も前に、こんな武器が使用されていたのだから、驚きである。

今BS放送で放映されている、中国で制作された「孫子の兵法」でも、この兵士と同じような鎧と髷を結った兵士達が出てくるから、実に興味深い。

脱線するが、「孫子の兵法」と言えば、日本の戦国時代、信長でさえ恐れた武田信玄も、この兵法書を熟読し、合戦の陣形に活かしたのだから、中国の戦史は日本より、はるかに古いのである。
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「鐘楼」
<<日本>>--松江--


これは寺院の中にある鐘楼ではない。

何と我々が宿泊した玉造温泉の旅館、長楽園の玄関横にある鐘楼なのである。

この旅館が、如何に古くから存在し、創業140年の格式の有る旅館である事を、窺い知る事が出来る。

更に玄関を入ったロビーには、明治時代に西洋に留学した有名な画家の絵や、陶芸品や書などがずらりと展示してある。

日本一だと言う男女混浴の露天風呂は、玄関横の長い回廊を渡った所に有るが、宿泊した夜は雨が降っており、夜遅いことも有り、露天風呂に婿さんと一緒に入った時は、入浴客は我々二人だけであった。

湯に浸かっている時は寒くないが、湯から出た時の脱衣所は吹き抜けであり、とても寒かったのを今でも記憶している。

翌朝のチェックアウト時に、ホテルの従業員がこの鐘楼の前で、我々の記念写真を撮ってくれたのであった。

大晦日には、宿泊客が自由にこの鐘楼で、除夜の鐘を突くことであろう。
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「日御碕灯台」
<<日本>>--松江--


晴れ間が覗いた空にそそり立つ、日御碕(ひのみさき)灯台の雄姿。

随分寸胴で、味気の無い灯台だなと思いつつ撮った一枚だが、後で調べてみて、この灯台の高さが43.65メートルで、東洋一の高さを誇る物だと分かって改めて見直した。

しかも建設されたのが、明治36年と言うから、人間で言えば既に107才と高齢であり、その古さも半端ではない。

光量が46万カンデラで、39キロメートル先まで光が届き、今でも現役で、荒海を行く船の安全を見守っている現役灯台なのである。

海面から灯台までの高さは、63.30メートルも有り、その割りに余り世に知られていないのが不思議なくらいである。

日御碕そのものが、私も此処に来て初めて知った次第であるから、まだまだ日本にも様々な名所が有るものだと、思いを新たにしたのであった。
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「日御碕」
<<日本>>--松江--


ようやく島根県最西端の日御碕(ひのみさき)に到着した。

駐車場からこの岬の先端までは、曲がりくねった坂道を下るのだが、その道の両端には沢山の土産物屋が軒を連ねている。

土産物屋の店先では、イカの丸焼きやサザエのつぼ焼きなどを、コンロで焼いていて、香ばしい匂いが漂い、おばちゃんたちが盛んに呼び込みをしている。

しかし、余りにも強い風で、体を前かがみにして歩かないと吹き飛ばされそうで、店先に立ち寄る気持ちにならない。

やっとこの岬の先端に辿り着いた時には、髪の毛がぼさぼさになり、立っているのがやっとであった。

断崖の隙間から覗く海は、此処が自殺の名所かと思われるほど、恐ろしい光景である。

しかし時化た海の先には、巨大な貨物船が微かに見え、こんな厳しい海でも航路は有るのだなと、実感した。

あの店先で魚介類を焼いて売るおばちゃんたちは、毎日こんな厳しい環境の中で、逞しく生きているのだなと、生命力の強さに、感動したのであった。
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「日本海②」
<<日本>>--松江--


前出の撮影した場所から真下の日本海の荒波を撮影した。

切り立つ岩にぶつかる波を見ているだけで、引き込まれそうな感じに襲われる。

高くうねる波と、切り立つ断崖は、人の介入を拒否するかのようである。

この断崖の上に道を造るのには、さぞ苦労した事だろうと、人間の創造の力を改めて実感する。

日本海と聞いただけで、暗く寒々しい感じを抱くと、ネフレの一人が書いてくれたが、正にそんな感じのする光景である。
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「日本海」
<<日本>>--松江--


島根県最西端の日御碕へと向かう途中で見た、日本海の光景。

裏日本の海をあまり見たことの無い私は、この光景を見て、矢張り太平洋側とは大分様子が違うなと、実感したのであった。

高くうねる波と、切り立つ断崖は、人の介入を拒否するかのようである。

はるか彼方の沿岸には、町が有り、日が当っているのが分かるが、あまり暖かい感じはしない。

左手の陸地には、今通って来た道のトンネルが見える。

トンネルが出来る前は、ずっとこの入り組んだ断崖に沿って回り道をしたのだろうか。

こんな厳しい環境の中でも、人は生きているのだなと、妙な感動を覚えたものである。
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「光芒」
<<日本>>--松江--


出雲大社の門前で出雲そばを食べた後、日御碕へと向かった。

日御碕(ひのみさき)は島根県の最西端に有り、厳しい断崖の上に有る。

くねくねと海に沿って曲がる沿道を走ったが、雨混じりの強い風が吹いており、日本海の波は激しくうねっており、寒々とした裏日本の海は矢張り厳しいな、と感じたものである。

途中見晴らしの良い場所で、一時停止して写真を撮ったが、丁度雨上がりの雲間から、光芒が海に向かって射し、神々しい光景が出現した。

此処を訪れた時は雨交じりであったが、今頃は雪となり、果たして此処の沿岸を走れるのかどうか、気になるところである。
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「わたしも食事」
<<日本>>--松江--


我々が昼食の出雲そばを食べているのに合わせて、孫娘もミルクを飲んでいる姿。

同じ孫でも、小さい時から性格は随分違うようである。

既に小2になった次女の孫娘は、小さい時から如何にも女の子らしい、大人しい子供であった。

しかし11ヶ月になった長女の孫は、喜怒哀楽が激しいのか、意思表示が活発なのか、全てが満足している状態では、活動が活発であり、大声で笑う。

所が皆が食事を始め、自分がお腹が空いていると、早く自分にもミルクを飲ませろとばかり、大騒ぎをする。

大急ぎでミルクを冷まして、与えるとご覧のように、自分で哺乳瓶を確り握って、あっと言う間に平らげる。

生命力が旺盛と言えばそれまでだが、女の子で逞し過ぎるのもどうかと、ちょっと心配な面も有る。
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「出雲そば」
<<日本>>--松江--


出雲大社の、神楽殿の門前に有る、蕎麦屋の店先。

丁度お昼時であり、此処の店でソバを食べようと言うことになった。

しかし店の中は、満席であり、順番待ちの状態でなので、他の店にしようかと思ったが、場所柄も良いので待つ事にした。

出雲ソバは、ちょっと太目の蕎麦であり、私は三食の割り子ソバを注文した。

玉子、とろろ、テンプラと具がそれぞれ違い、腰が有ってとても美味しかった。

最初に食べ切った椀の汁を、次の椀に掛けていくと、段々と味がミックスされて濃くなり、更に美味しくなる。

その食べ方を、婿さんの母上が見ていて、流石そば通ですねと褒められたが、川越にも蕎麦屋が沢山有り、良く食べるのですよと、返事をしたが果たして正しい食べ方なのかどうか…
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「参道②」
<<日本>>--松江--


出雲大社の、大鳥居から続く参道を、ズームアップしてシルエットで狙った。

この参道は大鳥居を潜ると、緩やかな下り坂となっており、逆方向の坂の下から大鳥居を眺めると、鳥居の先が空になっていて抜けている。

だから鳥居を潜ってくる人々が、シルエットになって神々しさを感じるので、ちょっと芸術的な写真を撮ってみようと思って、敢えて映像をシルエットにしてみた。

今回の松江行きで、沢山撮った写真の中でもお気に入りの一枚で有るが、独りよがりの感が有るのも否めないのではないだろうか。

しかし大社と言われるだけあって、参道もこれだけ規模が大きく、迫力のある神社も珍しいのではないかと感じたのであった。
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「参道」
<<日本>>--松江--


晩秋の出雲大社の、長く続く参道の光景。

本殿は、私の背後の、更にずっと続く参道を歩いた所に有る。

微かに見える入口の大鳥居から、緩やかな坂道を下った所から撮った画像だが、雨が降り出してしっとり濡れた石畳が光っており、そこに落ち葉が散っていて綺麗だった。

私が傘を差しながら、あちこちを撮影して歩くので、皆は先に歩いて行ってしまった。

松江滞在最後の日は、娘の風邪も少し回復し、婿さんの母上も参加して、総勢6人での出雲大社行きであった。

乳幼児を連れての旅は大変だが、私以外皆が孫の世話をするので、私は気楽なもので、専ら撮影係といった所であった。
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「張り切りパパ」
<<日本>>--松江--


孫や重いリュックを背負って、城の中を上り下りする婿さんの姿。

松江到着の2日目に、娘は前から引いていた風邪が悪化し、9度以上の熱を出してしまい、一人でホテルで寝ている状態となってしまった。

折角松江に来たのだからと、婿さんと孫、そして我々夫婦だけで、松江観光となった。

婿さんの体力は並外れていて、こんな格好で、我々を観光案内してくれたのである。

孫は外の景色を見るのが好きらしく、一日中泣きもせずに、ご機嫌であった。

ミルクをやったり、おしめを取り替えたりで、育メンパパ振りを発揮し、我々が子育てをした時と、父親の姿も随分変わったものだと、感心し切りであった。
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「天守閣からの眺め」
<<日本>>--松江--


最上階の天守閣から、松江の街を一望した。

天守閣はさぞ狭いであろうと思ったが、意外と広く明るくて四方が開けており、松江の街全てを望む事が出来た。

遠くに白く光っているのが、宍道湖であり、正面の小さな小屋が入場券の発売所である。

城内の庭に入るのには、その小屋の左手にある、入場門からである。

緋傘と毛氈の敷いてある桟敷では、入城者にお茶を振舞ってくれる。

矢張りこの城は、松江のシンボルだけ有り、街の一番高い所に位置しているのである。
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「兜」
<<日本>>--松江--


松江城の中の陳列ケースの中に飾ってある、兜の数々。

この城は関が原の合戦終了後に、堀尾氏が25万石を拝領した直後、5年の歳月を掛けて築城した城だから、合戦当時の武将達が実戦で使用した物のようである。

同じ兜でも、古の源平合戦の頃に使用した物は、かなり煌びやかな物であったが、時代と共に軽量で実戦に即した物のように、変化して行ったのである。

とは言うものの、鉄で出来たこんな重い物を被って戦をしたのだから、さぞかし昔の武将は大変だった事であろう。

更にこれだけでなく、鎧を着、鉄鋼脚絆で立ち回るのだから、現代人の我々には、想像も付かない体力を要したであろう事は想像に難くない。

これらの陳列品をガラスのケースの反射を抑えて撮るのに、苦労したものである。
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「城の中」
<<日本>>--松江--


松江城の中の二層部分の様子を撮ってみた。

最初内部が暗いので、ストロボを炊いて撮ったが、内部の重みが感じられず、自然光だけで撮り直した映像である。

暗いといっても、天井からは蛍光灯の光があり、実際に築城当時は、もっとずっと暗かった事であろう。

400年前の当時は、灯明の灯りだけで過ごした事であろうし、昼間から灯明を灯す事は無かっただろうから、さぞかし城の中の生活は不便であったろうと推測出来る。

流石に長い年月の間には、階段の硬い樫の木も、人の上り下りで、自然と磨り減っており、歳月の経過をうかがい知る事が出来る。

この階段の脇は、かなり広い部屋になっており、当時の鎧兜や、様々な貴重な武具や生活用品などが、陳列ケースの中に納められて展示されていた。

城内が、撮影禁止になっていないのも、有難いと思ったが、国宝にでもなってしまうと撮影禁止になる可能性も有るので、良い時に行ったものだと思ったのであった。
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「松江城②」
<<日本>>--松江--


松江城の天守閣の有る高台に到着し、城をアップで仰ぎ見た光景。

城の有る一角は植木や樹木が綺麗に整備されていて、気持ちの良い場所であった。

どうせ此処まで来たのだから、天守閣まで登ってみようと言う事になり、入城する前に、城の威容を石垣も入れて仰角で狙ってみた。

城の中に入るには、靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えなければならず、中に入った一階部分は、城の土台が如何に造られているかを、目の当たりに見ることが出来た。

建築家なら、それらの土台部分は興味の有る所だろうが、薄暗いそれらの部分は、写真に撮るには光量が少なすぎ、ストロボで撮ってみたが面白くないのでカットした。

急な木造の階段は、登るのに極めて困難で、とても写真などを撮っている暇が無かったのであった。

さて城の内部がどうなっているか、次の写真でご紹介しようと思う。
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「松江城」
<<日本>>--松江--


巨大な石垣と大杉の木の間から見る、松江城の雄姿。

様々な現存する城を見る度に、どの角度から撮ったら、絵葉書のようにならずに済むか苦労するものである。

松江城は別名千鳥城という愛称で呼ばれており、1611年関が原の戦の後、出雲・隠岐を拝領した堀尾吉晴が5年の歳月を掛けて開府した。

丁度今年が開府400年目に当り、重要文化財から、国宝指定の運動が行われている。

天守閣は全国に当時のままの姿で現存する12城の一つで、天主の平面規模は2番目、高さでは3番目、古さでは4番目との事である。

この城を訪れる前は、松江に城が有る事さえ知らなかった私は、どうせ有っても、大阪城のように後年再建された、外観は城でも、コンクリートで造った城程度にしか思っていなかった。

しかし城の内部に入って見て、築城当時と変わらない姿で、歴史を留めている状況に感動したのであった。
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「船上から見る松江城」
<<日本>>--松江--


松江城の堀川巡りの船上から、ほんの一瞬松江城が散見出来た。

約50分の堀川を巡って、船上から松江城が見えたのは、この一角だけであった。

右手前には、これも歴史を感じさせる、古い木造の橋が架かっており、石垣なども時代を感じさせる。

見事な松の木の間から眺める松江城の天守閣は、威厳を持って仰ぎ見る事が出来た。

ビデオカメラを慌ててデジカメに持ち替えて、この見事な景観をカメラに収めた。

ビデオを撮ったり、写真を撮ったりで、実に忙しい次第だが、それが後の基調な思い出になるかと思うと、見過ごす事が出来ないのだ。

孫はパパに抱かれて、移り変わる景色を眺めながら極めてご機嫌であった。
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「吊るし柿」
<<日本>>--松江--


松江城の堀を巡る、堀川巡りに乗船した。

屋形船の渡船場に、干し柿にする柿が吊るしてあった。

逆光の太陽に映えて、オレンジ色の柿が、実に綺麗であり、背景の屋形船を入れて、晩秋の情緒を写してみた。

堀を巡るこの遊覧船は、一周約50分掛るが、我々は松江城の入口で一旦下船して、松江城の天守閣に登り、またそこから船に乗り、元の渡船場で下船したのであった。

偶然であるが、その時も最初に乗った船の女船頭さんと同じ女性であった。

途中沢山の橋が有り、低い橋の下を潜る時は、船の屋根が電動で下がる仕組みになっているのであるが、腰の悪い私には、体を縮めるのにいささか難儀をしたものである。

船頭さんが、時々松江の方言や民謡を披露するのだが、何と彼女の出身が東京の石神井だと言うので、親近感を覚えたのであった。
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「大注連縄」
<<日本>>--松江--


出雲大社の神楽殿の前に飾られている、巨大なシメナワの光景。

出雲大社の本殿は、現在修復中であり、隣にある神楽殿の方が見応えがあった。

この巨大な注連縄をどうやって造り、どのように吊るすのか、その作業を見たいものである。

私は伊勢神宮は数回行った事が有るが、縁結びの神社で有名な、この出雲大社を訪れたのは始めてであった。

この神社の門前で、皆で出雲ソバを食べ、外に出ると急に雨が降り出した。

止む無く大社の近くに併設する美術館で雨宿りをする傍ら、出雲の国の成り立ちなどを紹介するビデオなどを、ゆっくりと見学したのであった。

雨は30分くらいで上がり、また青空が広がったが、矢張り日本海側の気候は変わり易いのだなと、実感したのであった。
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「ハッスルする孫」
<<日本>>--松江--


割烹利休の部屋の中の欄干に掴まって、外の景色を眺める孫娘の姿。

ようやく掴まり立ちの出来る様になった孫は、一人で此処まで這って行って欄干に掴まり、アーアーと奇声を発しながら外を指差して、大ハッスルであった。

何に興味を持ったのか分からぬが、欄干に掴まって、足腰を伸ばしたり縮めたりする姿は、お年寄りがリハビリをする姿に良く似ていて、一同大笑いであった。

多分夜景の中の、橋の上を行き来する、車のライトの光跡が綺麗なので、それに興味を持ったのではないかと、思ったのであった。

子供の成長は日進月歩であり、ちょっと見ないと新しい事をすぐに覚え、その脳細胞の発達振りに驚かされたり、羨ましく思ったりするものである。
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「料亭の床の間」
<<日本>>--松江--


割烹利休の我々が食事をした部屋には、床の間にこんな織物が飾られていた。

何やら由緒の有りそうな織物だが、果たしてこれが何なのか、私には分からなかった。

他のメンバーは、松江牛の肉の美味さに舌鼓を打っており、こんな置物にはあまり関心が無いようであった。

何にでも興味を持つ私は、此処で食事をした記念に、この飾り物を撮った次第である。

松江牛の美味さは、ミディアムよりレアの方が美味しいとの仲居さんの薦めで、焼き加減はレアで注文したが、本当に口の中でとろけるように美味かったのを今でも思い出す。

婿さんの母上のお奨めの店で、ご馳走になった夕食であったが、料金もかなりしたのではないかと、気になったものである。
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「料亭から見る夜景」
<<日本>>--松江--


割烹利休の店の前から眺める松江の夜景。

この店は川の堀端に有り、川辺に植えられた柳を通して見る夜景は、実に綺麗であった。

松江も矢張り城下町だけあって、昔の風情が残っており、懐かしさを覚える光景である。

川面に写る街の灯りが夜景を一層引き立たせ、店に入る前に思わずカメラを向けてしまった。

前方に見える橋は、宍道湖に掛る松江大橋ではなく、川に掛けられた橋であり、松江は至る所に川のある街だということを実感した。

こんな街で生まれ育った婿さんは、さぞ古風な感じかと思いきや、さにあらず現代的な子供思いの青年である。
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「接待」
<<日本>>--松江--


松江に着いた初日は婿さんの母上の接待で、松江牛の割烹での夕食であった。

川岸に有る割烹は、利休と言う料亭であった。

松坂牛は聞いたことが有るが、松江牛も結構有名である事を始めて知った。

東京から始めての孫の里帰りと有って、婿さんの母上も、何をご馳走して良いのかかなり苦労したようである。

着物姿の仲居さんが、我々を迎えてくれたが、私は松江クラブと言うビルの名前が気になって、ひょっとしたら、松江のスナックにでも案内してくれるのかなと思ったが、二階に有る利休庵は純然たる和風の店であった。

松江牛を中心とした料理は、懐石風であり、肉は実に柔らかく美味であった。

食事中に地震が有り、あまり地震に遭遇した事の無い仲居さんは慌てて階下に飛んで行った。

彼女が戻って来た時、今の地震は震度5だったそうですと言ったのには、いつも地震に見舞われている我々には、精々震度3位だなと思っていたので、皆で彼女が居なくなった時に、笑ったであった。
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