2010年07月の記事


「ミュンヘン空港」
<<ドイツ>>--ミュンヘン--


12時間強の飛行を終え、トランジット先(乗り継ぎ先)のミュンヘン空港にやっと到着した。

前方に見えるルフトハンザ機は、我々が乗って来たのと同じ型の大型機である。

この空港で約3時間の休憩をした後、今度は中型機に乗り換えて、スペインのバルセロナに向かうのである。

前回トルコに行った時は、モスクワで5時間のトランジット・タイムが有ったが、空港の外に出る事が出来ず、空港内の小さなアイリッシュ・バーで飲み明かしていたものである。

此処ミュンヘン空港は、空港の外に出られるとの事で、開放的な気分になり、早速自由時間を利用して外に出て見たのであった。

成田から12時間のフライト中、ずっと天候は良く、此処でも外に出るとかなりの熱気が漂っていたのであった。
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「航跡」
<<ロシア>>--ロシア上空--


前の座席の背面には液晶画面が有り、自分の好みで映画や飛行状況を見ることが出来る。

今どの辺を飛んでいるかの航跡も、ドイツ語、英語、日本語で表示される。

やっとモスクワ上空を過ぎ、後3時間くらいでトランジット(乗り継ぎ)の目的地であるミュンヘンに到着予定となった。

同じヨーロッパでも、矢張りスペインは遠いいなと痛感する。

相棒と早くミュンヘンに着いて、乗り継ぎの待ち時間で、美味しい本場のドイツビールと、ソーセージを食べたいものだと話し合っていたのだった。

一昨年行ったインドもこうして見ると、近かったなと実感したのであった。

ルフトハンザ機もそうだが、日本の航空機と違って、海外の航空機は、ちょっと長身の私にとっては、エコノミークラスの座席の前が、少し余裕が有るのが有難いのである。
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「不毛の大地」
<<ロシア>>--シベリア上空--


高度1万メートルのロシア上空から見る、人の住めない延々と続く山岳地帯。

毎回ヨーロッパ方面に行く時は、このルートを通るので感じる事だが、こんな光景を数時間も見せられるとロシアは流石に世界一の面積を誇る国だと思ってしまう。

しかしその大地の大半は人の住めない地帯であり、見てもお分かりのように、夏の今でも未だに残雪が残る所が有る。

5月頃の飛行だと、この辺は見渡す限りの雪景色である。

間もなくモスクワ上空に差し掛かる地域だが、此処の地帯は永久に人が住む事の出来ない、荒涼とした地域であるのかと考えてしまう。

こんな光景をずっと眺めていると、如何に日本が人に優しい国であることかと実感する。

そんな日本だから、もっともっと環境保護に努めなければいけないのだと、改めて心に刻み込むのである。
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「雲の上」
<<ロシア>>--シベリア上空--


機上から見る外の光景。

成田を離陸して5時間、ヨーロッパ方面に向かうのには、いつも同じルートでシベリア上空をずっと飛び続けるのだ。

退屈しのぎに時々外の光景を見るが、余り代わり映えのしない光景が続く。

同じ飛行機の中で、昼食、夕食、朝食と3食出るのだから、飛行時間も長い。

昼食前の飲み物に、赤ワインとスコッチのオンザロックのダブルを注文したら、ドイツ女性のフライトアテンダントに、「お酒は、お強いのですか、一気に飲まずゆっくりお召し上がりください」と言われてしまった。

勿論「大丈夫、ゆっくり味わうよ」と答えたが、嘗てこのように言われたのは初めてであった。

気を使ってくれたのだろうが、年寄り扱いをされたようで、余り気分は良くなかった。
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「スモーキング・ルーム」
<<日本>>--成田--


成田空港の搭乗ゲート・エリア内にある喫煙室。

まるで喫茶ルームのような素敵な喫煙室である。

嫌煙家が増える中、何処の空港も、喫煙室はターミナルの端の方に追いやられ、中には喫煙室さえなくなってしまった空港さえある。

ちなみに途中立ち寄ったミュンヘン空港、バルセロナ空港、リスボン空港、フランクフルト空港は、いずれも狭い椅子の無い喫煙室であった。

そんな中、成田空港第一エアー・ターミナルのこの喫煙室のすばらしさには目を見張り、思わずカメラに収めてしまった。

逆転の発想で、愛煙家にはこの空港のすばらしさが満喫出来、きっと仲間との語り草になるかもしれない。

スモーキング・ルームと書いてあるから、入ってみたが、最初場所を間違えたかと思ったほどである。
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「搭乗機」
<<日本>>--成田--


成田空港搭乗ゲートから見る我々の乗るドイツのルフトハンザ機の姿。

話が前後したが、話を最初に戻し、これからミュンヘン経由でバルセロナに向かう搭乗を待っている時に撮ったものである。

成田からバルセロナまでは、トランジットタイムを入れて、18時間の長旅である。

丁度正午に飛行機は離陸予定であり、スペインとの時差は8時間であり、スペインは日本より8時間遅いから、ずっと昼間の儘で夜が無く飛び続けることになる。

おまけにスペインは昼の時間が長く、夜の10時ごろまで明るいのである。

最近私は、この往復の飛行時間が段々と苦手になりつつあり、嘗ては窓の外を眺めて、変わり行く下界の光景を見続けるといった感動が無くなってきたようである。
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「歴史の街を行く」
<<スペイン>>--バルセロナ--


中世の街並みが続く、歴史の街を行く我々とサッカーのサポーター達。

左半分の後姿は、我々のツアーメンバーであり、右半分はサッカーの応援に向かうスペイン子達である。

歩いている人々はいずれも現代人だが、この人間達をそっくり中世の甲冑に身を固めた騎士や馬などに置き換えて、電線を取り除けば、中世のスペインの光景が再現出来るのではないかと思いながら、歩いたものである。

この光景は、見事なまでに嘗ての古の時代の街並みを保存しているといえるだろう。

人が住む住環境でありながら、近代的な建物が一つも見当たらないのが、流石だなと感心する。

日本の古都、京都なども、このようないにしえの建造物だけを保存する事が出来ないものかと、思ったものである。
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「ビーバ・エスパーニャ!!⑤」
<<スペイン>>--バルセロナ--


彼等も地方から出て来たサポーター達なのだろうか。

案内嬢と思しき女性に引率されて、自分達の落ち着いて観戦出来る先に向かうようである。

スペインに着いて改めて感じた事だが、エスパにョール&エスパニョーラ(スペイン人の男女)は美男美女が多いと言う事である。

彼等もそのまま俳優や女優にしても、容姿だけを見る限り通用しそうな男女である。

今更言うまでも無い事だが、どうしてこうもアジア人と欧米人の容姿は、同じ人間でありながら違うのだろうと、再認識した次第である。
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「ビーバ・エスパーニャ!!④」
<<スペイン>>--バルセロナ--


ツアーメンバーのお嬢さんのカメラに応える、サポーターの若者達。

彼等は写真に撮られる事が生甲斐のように、様々なポーズで応じてくれる。

ホテルからバスでバルセロナの街に入る道すがら、車にスペイン国旗をなびかせながら、続々と街の中に入ってくる様子をあちこちで目にした。

だからバルセロナ・オリンピック当時の競技場の大スクリーンで、試合の様子を見ることの出来ないサポーターの大半は、街角のレストランに据えられたテレビで観戦すると言う事になるのだろう。

それでも彼らにとっては、意を一つにするメンバーが、一緒になって試合を観戦出来ることで十分なのであろう。

多分この若者達も、この日のために、地方からバルセロナの街に車でやって来た連中なのだろうと、推測したのだった。
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「ビーバ・エスパーニャ!!③」
<<スペイン>>--バルセロナ--


レストラン前のテレビ観戦席の光景。

夕食を食べていたら、時ならぬ歓声が聞こえてきた。

きっと試合が始まったのだろうと、食事もそこそこに済ませて、隣の屋外レストランの光景を見に行った。

このレストランでは、事前に予約を取っているらしく、それぞれ決められた席に、サポーター達が陣取って、ビールを飲みながら観戦している。

テレビの前の方にいる連中が、リーダー格らしく、スペインチームが上手くボールを運んで、相手チームのゴルに迫ると、「ビーバ・エスパーニャ!!」と大声を挙げると、全員がそれに呼応して叫び、その後にチャチャチャと拍手をするのだ。

我々が、一緒に「ビーバ・エスパーニャ!!」とエールを送ったら、それに気付いたメンバーが、「ビーバ・ハポン!!」とエールを返してくれ、我々がこの場を離れる時には、大合唱で我々を送ってくれたのだった。

言葉は通じないものの、お互いの熱意によって意思疎通は出来るものだなと、この時痛感したのであった。
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「ビーバ・エスパーニャ!!②」
<<スペイン>>--バルセロナ--


こちらも熱烈なスペインチームのサポーター達である。

こうしてカメラを向けると、気さくにポーズを取ってくれるのが、陽気なスペイン子の心意気であろう。

スペインの国民の7割がサッカーファンだと言うから、国を挙げての決勝戦の応援だといっても過言ではないだろう。

偶然の一致とは言え、私もかなりの国を訪れた経験が有るが、到着した当日が、決勝戦の日であった偶然は嘗て体験した事がない。

しかもそれが、始めてのスペインの優勝という、お土産まで付いたのだから驚く。

真ん中のお嬢さんは、スペイン国旗を頭の左右に差し込んで、歩いているといった具合である。

彼等にスペインは勝てそうかと聞いたら、当然である、オランダとは格が違うと息巻いていた。

我々が夕食のパエリアを食べ終えて、ホテルに戻るバスに乗り込んだ時には、試合が始まった直後であり、いつも人でごった返すバルセロナのメイン通りには、人っ子一人見当たらず、車もほとんど走っておらず、ガイドさんも、こんなゴーストタウンのバルセロナは見た事が無いと驚いていた。

きっとほとんどの人が、街のあちこちに据えられているテレビに、釘付けになっているに違いなかった。
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「ビーバ・エスパーニャ!!」
<<スペイン>>--バルセロナ--


スペイン対オランダの、ワールドカップ・フットボール決勝戦に沸く、バルセロナの人々。

無事スペイン・ポルトガルの旅から戻った。

18時間のトランジットを含む飛行時間から、バルセロナに着いたのは11日の明け方に近い3時であった。

この日は丁度W杯の決勝戦の日とぶつかり、バルセロナ見学を終えて、夕食のパエリヤを食べに街に出た時には、各地から集まって来たスペインチームのサポーター達で、街は沸き返っていた。

街中にブブゼラの音が響き渡り、それぞれのサポーター達が、テレビ中継のある場所を求めて街を練り歩いていた。

これは広場で見掛けた光景だが、向かって左2人のおじさんと、真ん中で陽気にポーズを取るおばさんは観光客の欧米人のようである。

こうして誰もが興奮の渦の中に溶け込んで、一丸となってスペインの優勝を願っているのだ。

我々が夕食を食べ始めた頃に、試合が開始され、隣のレストランの外に置かれたテレビの周りに集まって、飲み食いするサポーター達の一喜一憂する歓声で、落ち着いて食事がしていられないようであった。

留守中にも拘らず、ご訪問書き込みをしていただいたネフレの皆さんには、心から感謝申し上げる次第である。
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「タージ・マハルをバックに」
<<インド>>--アグラ--


正門を潜った所で、先ずは記念写真となった。

此処を訪れた時の暑さは半端ではなく、額から汗が吹き出て止まらないほどだった。

恐らく外気温は40度近くなっていたのではないだろうか。

特に白亜の霊廟に昇って一周する時には、白い大理石の照り返しで、頭がくらくらするほどで、鋒鋩の態で碌に見学もせずに、滴る汗を拭いながら、この場所に戻って来たのを記憶している。

世界遺産見学も、楽をして出来るものではないと、痛感したのであった。
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「正門から望む」
<<インド>>--アグラ--


白亜の殿堂タージ・マハルを中央門を通して見た光景。

誰もが巨大な門を通してこの殿堂を眺めた瞬間、思わず歓声を漏らすのである。

場所は違うが、その感動はエジプトのピラミッドを、眼前に見た時と似ている。

国と時代は違うが、どちらも往時の権勢を欲しい侭にした、一人の王が建立したものである。

タージ・マハルは当時のインドの王、シャージャ・ハーンが最愛の妻ムムターズ・マハルの死を悼み、全財産を投入して建てた白大理石の霊廟である。

1631年から22年の歳月と、世界から集めた人材と資材を投入したため、国費が危うくなり、後に王は息子によってアグラ城に幽閉されてしまうのである。

権威を奪われた王は、アグラ城の牢獄の窓から、自分で建てたタージ・マハルを毎日眺め、王妃を偲んだという。

正に世界一大きな恋愛物語と言えるだろう。
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「正面玄関」
<<インド>>--アグラ--


我々がタージ・マハルに入場する中央門を、正面から見た光景。

なんと言う巨大で荘厳な入場門であろうか。

観光客の人影からして、その大きさが計り知れる。

この門を入った瞬間、前方はるか彼方に、白亜の殿堂がその威容を現すのだから、その演出の憎さに思わず舌を巻くのである。

インド人である以上、ガンジス河の沐浴同様、此処を訪れるのが、終生の願望であると聞く。

インドの各都市の煩雑さや貧しさと比較して、此処だけは別天地であり桃源郷である、と言うことが出来るだろう。

この得体の知れない格差が、インドの現状であり、不思議な魅力を醸し出す国であると思うのは、私だけではないであろう。
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「中央門」
<<インド>>--アグラ--


行く手に我々がタージ・マハルに入場する中央門が見えてきた。

城壁には、三つの門が有り、今まで載せていたのが東門、そしてこの中央門、更にその先には西門が有る。

観光客が入場出来るのは、この一番立派な中央門である。

この門一つとっても、砂岩と大理石で構成されている巨大で立派な門であるが、更にこの門を潜った先にタージ・マハルの本廟が遠望出来るといった具合である。

中央門の威厳から言っても、如何に本廟がすばらしいものであるかが、うかがい知る事が出来るであろう。

この門を早く通過して、本廟の佇まいを見たいものだと、心の高鳴りを覚えたものである。
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「城壁」
<<インド>>--アグラ--


インド屈指の世界遺産、タージ・マハルを囲む城壁の威容。

機関銃を持った警官の警備する守衛所を通り、しばらくこの外壁沿いに歩くと、タージ・マハルの入り口とも言える守礼門にたどり着く。

赤い砂岩で造られたこの外壁一つを取っても、この世界遺産が如何に荘厳なものであるかが窺い知れるであろう。

此処を訪れた時は、外気温が40度近いのではないかと思われるほど暑かった。

9時間に及ぶ寝台車の中で、すっかり体調を崩してしまった仲間が、この暑さの中で、この世界遺産を見学する事が出来るのかどうか、気になったものである。

しかし彼は列車の中で、胃の中のものを全て排出したために、意外と元気でこの旅の目玉である、此処を見学する熱意の一心で、意外と元気であるのを見てほっとしたものである。

その彼と今年はこの週末からスペイン・ポルトガルの旅に出発する予定である。
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「守衛の警官」
<<インド>>--アグラ--


ハワイシリーズを終えて、しばらくの間、インドシリーズを載せる事とする。

此処に登場したのは、タージ・マハルを守るための警官たちである。

インドでもテロが多いことから、入場に際しては、厳しく持ち物検査を彼等が行うのである。

しかし我々日本人に対しては、彼等は極めて友好的であり、にこやかにカメラに応じてくれた。

インド人というと、ターバーンを巻いた髭ずらの男性をイメージするが、この出で立ちをするのはシーク教の人たちだけである。

様々な宗教が入り乱れるインドにあって、シーク教の人々は全体の、僅か2%に過ぎない少数派なのである。

彼等は髪の毛も、髭も剃らないのが宗教上の習慣であり、それをターバンで束ねて巻いているとの事であった。
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「さらばハワイ」
<<ハワイ>>--オアフ島--


いよいよ帰国の時となった。

我々の搭乗するJALのジャンボジェット機が、その雄姿をホノルル空港に、今や遅しと待ち構えている。

流石ジャンボと言うだけあって、その巨体は他の航空施設や空港で働く人々と比べても巨大である。

この巨体が大勢の人間を乗せて、大空に舞い上がるのだから、科学の力は偉大であると、改めて感動する。

次にハワイを訪れるのは、いつの日になるのであろうか、いつまでも我々の憩いのリゾート地として、変わらぬ島であって欲しいと願いながら、帰国の途に着いたのであった。
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「アロハ~」
<<ハワイ>>--オアフ島--


私が彼女らのフラダンスを熱心に撮っていたので、招かれて記念撮影となった。

ダンスが終わった後、彼女たちがこちらにお出でと手招きしたので、両手に花で写真に収まった。

ハワイでは、何処でも親指と小指を出した形で、その手を左右に振るのが、アロハ(こんにちは)の挨拶である。

すっかりこの動作が板に付いた私は、彼女らと一緒にアロハの挨拶をしたという次第である。

何処の国にも、色々な挨拶の仕草が有るものである。

フラの踊りを載せるのも今日で終わり、そろそろハワイシリーズも、エンディングに近付きつつある。
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「フラダンス⑤」
<<ハワイ>>--オアフ島--


帰国の日、ホノルル空港内で踊っていた、フラダンス・グループのスナップ、その3。

今までのエネルギッシュな激しい踊りとは違い、優雅にソロで踊るフラダンサーの姿。

フラの踊りは、なんと言っても笑顔を絶やさずに、優雅に踊るのが魅力だろう。

手足の動きには、皆意味があり、その仕草で何を表現しているのか、分かると言う。

私も嘗てこの仕草を習った事が有るので、その幾つかを今でも覚えている。

フラの踊りを載せるのも今日で終わり、そろそろハワイシリーズも、エンディングに近付きつつある。
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「フラダンス④」
<<ハワイ>>--オアフ島--


帰国の日、ホノルル空港内で踊っていた、フラダンス・グループのスナップ、その2。

更に近付いて、彼女達のエネルギッシュな踊りにカメラを向けた。

二人とも、カメラを意識することなく、自分達の踊りに徹しているのには、流石プロだなと感心した。

フラを踊る時は必ず裸足であるのが、普通の踊りと違う所だろう。

日本舞踊は足袋、欧米の踊りは靴を履き、バレーはバレーシューズを履くが、フラは自然の中で生まれた踊りだから、常に裸足が常識なのだろう。
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