穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―中―
雑穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―中―

 1998年3月に紙面に投稿、のちに出版したのが、その記載をすっかり失念していた。
 記載の場所。それは『釧路新聞』紙面で「くしろ歴史の風景」、釧路新書では『街角の百年』。そうした枠組みであった。
 発端はと申すと『市制施行十周年記念 写真帖』に掲載されている二点の写真を紹介したことにあった。

 今回は2022年9月22日に開催、「ぶぶる釧路街歩き2nd」の実地見聞をもとに、図面に補注を加えて第二話。雑穀の集散地。
                   1998年3月2日 『釧路新聞』文化面掲載か

雑穀の集散地 「昭和七年 釧路市勢要覧」によると、釧路~網走間の鉄道が全通してから、十勝のみならずこの沿線の貨物が増えた。にもかかわらず鉄道から船舶への荷役施設が誠に狭少であるため、その能力限度を超えており、殊に毎秋の農産出回り期にあっては流入貨物屋外に山積みの状態であった。
農産物の中心はエンドウ・菜豆・大豆などの豆類である。エンドウはグリーンピースの称があってヨーロッパへ運ばれた。このためロンドンやリバプールへの航路が活況を呈していた。小豆(あずき)や菜豆は国内の製餡業者へ、大豆は同じく味噌・醤油の醸造業や食用油の製油業者へ、それぞれ積み出されていった。
 撰穀工場(豆選り工場)は、小豆・菜豆などを選別して等級ごとに仕分けするところである。写真で見るように、女性たちが日本手拭いの頬かむりに白い割烹着(かっぽうぎ)姿で、選別作業にあたっている。浪花町七丁目には「釧路保育園」が、昭和五年かに開設された。選穀工場に働く女性たちが子供の保育をゆだねるながらという姿も、ごく当然であった。また昭和六年までの一時期、浪花町に職業紹介所が開設されていた。こちらは港湾貨物の積み込みにあたる荷役労働者を募集し、仕事を周旋する。農産物検査所といい、撰穀工場といい、保育園といい、これまた港湾の活動と深く結びついている。
 釧路港はよく南の石炭、北の雑貨と区分される。農産物集散地のこの一帯こそ、雑貨荷役の中核をなすものであった。