多木浩二著『戦争論』
 多木浩二著『戦争論』。「近代の戦争」「軍隊国家の誕生」「死と暴力の世紀」「冷戦から内戦へ」「二〇世紀の戦争」と章建てされている。

 
 うち「軍隊国家の誕生」には「ー近代日本」の副題が付せられる。
 そこでは明治国家の誕生に、「幕府・大名家が有力商人から背負った借財」を明治政府が「肩代わりした」点を指摘する。
 それともう一点、維新政府の政策展開のその後に地主小作制度が拡大し、小作争議の頻発に軍隊は「争議鎮圧」という形で、国民皆兵で組織された軍が、国民を圧する形で対峙する構図。
 明治政府は富国強兵を政策にすえ、国際社会に伍していく国是を示した。旧幕の有力商人に背負わせた借財は政府が肩代わりしたが、有力商人にはその債務には応じなかったものの、産業育成の観点で保語と血税をつぎこむ保護政策が選択されたのだと、言いたいのだと見る。

 個人間の戦い、そして国家間の戦争は古代にもさかのぼる。
 しかし20世紀のそれは、局地の戦い、国家対国家の戦いではなく国家群と国家群の戦いとなった。それが「世界大戦」というべき結果であり、20世紀の戦略はそれまでの「陸」と「海」の覇権争いにくわえて「空」と「核」が加わったということになる。
 国民は原子力爆弾投下を忘れていないが、アウシュヴィッツも、南京もあった。非戦闘員のみならず、大量の人命が失われた。

 今日、日本国民とは遠いところで起きる戦時は発生している、とする。イラク、コソヴォ、ユーゴスラヴィア。戦いが核の時代にある今、隣国の北朝鮮にしても核保有がすすみ、本土上空を通過する兵器の実験が繰り返されている。官民の交渉と交流をこえて、なにかの触発でも攻撃をしかける自国民も人命・財産・将来への環境への甚大な被害を結果する。

 本書では、ここに注目しておきたい。
 「権力の言説の罠にはまらないこと。戦争がこれこれの理由で生じたという権力の言説に対して反論するよりもー戦争の現実を徹底的に知ることは必要だがーそれを超えて希望を見いだす言説を創造することがいっそう必要なのである」(156p)。

 著者は末尾に「可能なかぎり平易な言葉で書こうと努めた」(200p)とする。
 拙い評者として読み進めつつ。人類のどこかに、自然に対しても、人間自身にも、互いに「尊厳」なる価値を平気で踏みにじろうとした「20世紀以降」を、思わずにおられなかったのではあるが。(岩波新書 1999年)