三関きよし著「昭和史片々」
 俳人の三関きよしさんから直近の「昭和史片々」が掲載された『釧路春秋』66号(2011年春季号)を送っていただいた。

 投稿された「昭和史片々」は、のちに三和銀行の頭取、会長を歴任された渡辺文雄翁の小伝である。とりわけ渡辺翁が明治31年9月に厚岸町大字若竹町で誕生され、日本銀行の文書局長を経て昭和19年に南京国民政府の経済顧問の一員に推せんされる局面にポイントがある。しかも本稿を書かれた三関さんと渡辺翁の義父・義兄とが近接した間柄であったため、誠に細かな人脈が明らかにされている。

 主題の舞台は、昭和21年5月にラバウル島を出発した病院引揚船。日本から乗船してラバウル島にむかった今村純男軍医が、厳父の部下にあたる影佐禎昭中将を帰路の船内病室に訪ねるところで、筆者―影佐中将―渡辺翁の回想がつながってくる。「支那派」の部署をあるいていた影佐中将が王兆明政権を擁立する。他方渡辺翁は昭和12年の対中戦争後に設立された中華民国臨時政府の資金管理のために連合準備銀行設立で大蔵省、日銀から派遣される若手職員の一人であった。
 そこが出発点となりのち南京国民政府を維持するために、渡辺翁に白羽の矢がたつことになったと解することができる。

 三関さんの構成にも心づかいがある。冒頭の「病院引揚船」では、著名な「ラバウル小唄」の合唱が紹介されて、先に出発する闘病者と残余兵との別れがある。司令官の今村均大将が、父を案じて日本から島に向かった禎昭中将と面会しないことを決意する「今村親子」。公私の情をつらぬいたためと、紹介する。結節に「ゲゲの鬼太郎」が用意され、NHKドラマでおなじみとなった水木しげるを登場させて、読者を引き込む。その水木の生き方に同世代を生きる立場から、「前向きの姿勢でありたい」と筆者の感慨をむすぶ。

 私事に及ぶが、1960年前後に「三和銀行の頭取は厚岸出身」と、父に聞かされたような気がする。兼ねて三関さんは、その三和銀行の頭取を書いてみたいともうされたことがある。米寿を迎えた三関さんの努力で、厚岸が生んだ金融人の業績があきらかになったことを、慶んでおきたい。