10)阿寒の帝国公園化 不可能、可能にしたプロジェクト=釧路の街の魅力ABCD26題―5-240217  
 10)阿寒の帝国公園化 不可能、可能にしたプロジェクト=釧路の街の魅力ABCD26題―5-240217

ここからはスライド5枚目を取り上げます。
かつて『阿寒国立公園の三恩人』という本を書かれた種市佐改 たねいちさかい さんは、「「(阿寒国立公園の恩人に)前田正名は当然にふれねばならない」「しかし今つの日にかどなたかの手で」。そのように記載されています。

1●2024年は阿寒摩周国立公園が指定後90周年を迎える、と。昭和9年12月に指定。
 地域では「阿寒国立公園の指定に前田正名が貢献している」と、伝えられています。また前田家が「(阿寒は)伐る山ではなく観る山だ」と語り伝えらえてきた。そのように聴いている市民は実に多いのだと考えます。
 そこで私は、いろいろと調べてみました。その結果は、年度末には出版物になります。今日はその一部を申しあげておきます。
 前田正名は1921年=大正10年8月11日に福岡で死去します。その年の5月かと思うのです。衆議院記録を精査中ですが、前田は「阿寒を帝国公園となす」という題名で衆議院に請願書を提出しています。
2●当時の阿寒国立公園指定にむけ前田正名は帝国議会に「請願」という形で陳情をした。
前田は最終段階で、「阿寒を帝国公園となす」という題名で請願書を帝国議会に送った。そしてその後に亡くなっている。この点を私は、中国の思想家・孟子 もうし の語になぞらえて、「阿寒を次世代に残すため」に発するべき、「天の時」来 きたる るの思いで、あった。そう考えてみました。
 その「天の時」を発するにあたり、時の政府に「ノ―」と言わせぬためには、三つの要件が必要ではなかった、か。前田はそう考えたのではないかと思うのです。その三点です。
3●前田は議会に請願するが、政権や議会にノ―と言わせぬために考えた三カ条。
 一に「A)国際的視野に立ち提案」すること。二に「B)学問的見地で根拠・評価を獲得」しておくこと。三に「C)“神々の神威”と『神々怒らせず、愉しませる』神域、つまり=人知を超えた“折り合い聖域”に、阿寒湖及びその周囲の湖畔林を位置づける。
 どうしてそこまで考えをおよぼしたか。特に、若き日の前田にとって、自身の人生や哲学・思想や、自身が立案し、提案した政策について<政権のノー><エリートの壁>を実感というよりも、もっと強く<はねつけられた>人生&生涯であった。