四季折々の自然が豊富、マチに音楽があふれている 京都の底力221212
 四季折々の自然が豊富、マチに音楽があふれている 京都の底力221212

 かく申されている。今朝、放送「駅のピアノ」。BS1の内容は京都の公共施設。
 そこに設置されているピアノ演奏の場面を紹介。
 「休日には(女性3人が集まって)アンサンブルを楽しんでいます」。

 鴨川の河畔、か。そこではバイオリン、ビオラなどを演奏する男性のグループも紹介された。
 芸をもつ人が仲間になり、それぞれが日頃鍛えているワザを組み合わせて一時を愉しむ。
 自信をもって、人前で自身のワザ、芸術性、クオリティー。それぞれの高さを世に知らしめる。

 「(京都の)マチに音楽があふれている」のは、そのワザ、芸術性、クオリティーの高さにあるではないか。
 自身を磨く、鍛える、時間と投資を重ねる。その到達点であるように、受け止める。
 「(京都は)四季折々の自然が豊富」。このことも、そのとおり、だ。

 ただ「(京都の)四季折々の自然が豊富」は、「千年の古都」にシンボライズされる、「蓄積」にある。
 北国の自然は、「自然そのもの」。
 というより、激しい経済利用の試練をうけて、偶然ともいえる「手つかず」に残る。

 京都の自然は、設計され、投資を重ね、維持再生の蓄積の結果、残されているもの。
 寺社・財閥・旧華族。あなた庭園を護るヒト、私は楽しむヒト。「ちょっと、入園料はヤボではないか」。
 確かにそぷかも。往時、どれだけの苦しみを、庶民は税と利益の収奪の上に、築造。築説を許したか。

 聴いて、思いを深める「(京都の)四季折々の自然が豊富、マチに音楽があふれている 京都の底力221212」。
 今、静かに、身辺に思いを巡らせることに。「今、自身は地球を守るためにどのような営為を」。