江戸・佃島と住吉講に築地本願\220809
 江戸・佃島と住吉講に築地本願\220809

江戸の下町に「住吉講 すみよしこう」。
 講は「大阪市住吉の住吉大社に参詣する者の組織した講社」。
 そういうことだから、大坂の信仰が江戸に根付いたわけだから、奇異に思うもその必要はない。

 「佃煮」=「佃島」が江戸で設定された背景と深い繋がりをもつわけで、
 どうも江戸・住吉講のリーダー&幹部たちは、大坂から移り住んだ「三十六人衆」の家柄&秩序がなお、意味を持つようで。

 佃島の佃煮は、この住吉講に詣でる参拝者の土産物として好評を博した、と。かくて全国をマーケットに存在感を示した。
 今も、量販点で手にすることのできる「加工用惣菜」。

 「佃島」と申すと隣接の埋め立て地に「月島 つきしま」というのがあり、転じて今日、「築地 つきじ」と申すようで。
 そこに「築地本願寺」があるも、こちらは石山本願寺=現 大阪城跡、京都=堀川本願寺の包括寺院。
 
 そもそも江戸の本願寺は浅草にあった、と。
 明暦の大火で消失し、代替地を築地に求めた。埋めたてと堂宇造営には「佃島の住人が中心となり」。
 そのように記載されている。家康も本願寺の「東西本願寺二分」を策するも、西本願寺の京都-大坂-江戸の思想系譜を否定しなかったか、できなかったか。

 摂津国佃村から移住の話。ここで一幕。