武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.
武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.

鶴岡八幡宮(八幡宮寺)-法華寺跡(頼朝墓・北条義時墓)-国指定史跡永福寺跡とめぐり、残る一は「勝長寿寺跡 しょうちょうじゅじあと」。
 所在地は「鎌倉市雪ノ下四丁目6番20号」付近ということになる(写真)。

 路線バスを降りて、「田楽辻子の道」が横切る小流を過ぎたところで、道路を歩いている方に教えを乞うた。
 スマホを取り出しながら、「確かにこのあたりに、なにかが在りましたですネ-」。
 その方のスマホ確認で、どうも横道一本、進みすぎているらしい。小流の左岸にそった道を行くとよいのだ。
 取り付け道路を340メートルほど歩いたころに、金網で囲った小さな木立があって、そこに三基の史跡跡標、源義朝と家臣の鎌田政清の墓碑が二基、確かに残っていた。

 建立を発願したのは頼朝。
 平家追悼が時間の問題となったという1184年、「源頼朝は、父・源義朝の菩提を弔うため、大御堂ヶ谷の地に寺院の建立計画を開始」と、説明されている。
 別名は「大御堂」。またの名を「南御堂」とも称するそうで、鎌倉時代には「鶴岡八幡宮(八幡宮寺)、鎌倉・永福寺と共に、鎌倉での3大寺社のひとつと言う規模」を誇ったと、される。

 1)「勝長寿院は、源氏の菩提寺に近い格式ある寺院」と言える。
 2)建立後には、大姫(源頼朝の娘)が病気回復祈願で参籠。これに対し源義経の愛妾・静御前が舞を披露することも。
 3)滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会、奉納。
 4)後白河法皇の49日法要を行う
 5)源実朝暗殺後には勝長寿院に葬られ、母・北条政子によって法華堂(五仏堂)が建てられた、とも。

 保護者が居なくなり16世紀に廃寺となったとされる。寺基の地は宅地化がすすんだ。
 遺構はなくなり。木立のなかに「勝長寿院旧蹟」の石碑、ならびに供養塔が立つ。

 「平家に倒された父」。その元で「滅亡した平家の菩提を弔う」。
 二つの間合いには、頼朝が武家社会を形成する過程で犠牲を<やむなくした>に鑑み、、「権力が恐れた『祟り』の鎮魂」の機能もあったのであろうか。