不憂不懼
 『論語』「顔淵第十二」に
”司馬牛問曰、
 君子子曰、君子不憂不懼。
 曰、不憂不懼、斯謂之君子矣。
 子曰、内省不疾、夫何憂、何懼。”
という箇所が有ります。

 書き下して読むと次のようになります。
”司馬牛問ひて曰く。
 子曰く、「君子は憂へず懼れず」と。
 曰く、「憂へず懼れず、斯に之を君子と謂ふか」と。
 子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂 へ何をか懼れん」と。”

 要するに、君子というものは疾しいところがないので、憂えたり、懼れたりしないものなのだそうですよ。
 それならば、僕は君子とは程遠いところに位置しているに違い有りません。

 子どもを授かった女性に接する度に、そしてその女性が我が子を愛する姿勢を見せる度に、自分がいつかそのように自分の子どもを愛する事が出来るのか考えると胸がどきどきします。
 どきどきと胸騒ぎがするのは、いい意味で無く、悪い意味で。

 自分では子どもを嫌いでは無いつもりでいます。自分は赤ん坊を嫌いでは無いと自分では思っています。
 親戚の子どもも、バイトで接してきた小中学生も、皆を僕は決して嫌いでは無く好いていたのですが、果たして僕は自分の子どもを好きになれるでしょうか。

 育児放棄をした女性の手記を二三個入手して読んだ上で掴んだ傾向と似通った内容の、WEB上の子育てBlogに出くわす度に、嫌な意味でどきどきします。
 無事に彼女等が放棄したくなる欲求から逃れて子育てを継続出来ているか、母と子だけの閉じた関係に陥らない様に周囲と接触しているかどうか、確信を得るまでどきどきして通い続けてしまいます。

 あんまり書きたく無い話題だから是以上書かないけれど。
 自分と似た文体の人の育児に関する日記記事を今日見付けてしまいました。
 怖くて仕方が無い。