綸言如汗
 何だかもやもやしたので書き留めます。

 僕が小学生の頃だったと思います。こんな小説を読みました。

 ある女が、昔付き合った男が結婚して子供が出来た事を偶然知り、妊娠中のその男の妻に嫉妬し、男と妻に関するあらゆる情報を集め、女は昔の男の妻を腹の中の子供ごと刺し殺し警察に捕まったという話でした。
 小説の中で、女は男に嫉妬したのではなく、妊娠出来ない身体である自分の事を知っている男の妻が子供を授かったという事に嫉妬して行動を起こしたのです。
 女に大きな怒りを齎したのは、妻が妊娠した事を喜んだ男からの手紙でした。女は子供が出来ない自分の状況を悲観していたかも知れませんが、その子供の誕生を待ち望む男の喜びが綴られた手紙を読んでしまった事が、女が理不尽な仕打ちを妻に向ける原因になったように、小説からは読み取れました。
 小説のタイトルは忘れてしまいましたが、筋だけは覚えています。小学生だった読書当時、偶々読んだ探偵小説の犯人の動機と手紙の内容の女の妄執と男の歓喜の温度差が記憶に残っています。

 最近、胸がもやもやする経緯をどこぞのブログで見掛けました。
 妻が妊娠した喜びを書き綴った男性と、その喜びを読んで憤怒する女性。
 小説とは異なり、現実では男性と女性はなんら関係の無い第三者でした。

 何だろう。
 僕が読んだのは小説でした。そして、これは現実です。
 確かあの小説では女にも男にも関係の無い第三者の立場に立つ登場人物がこんな風なことを女に言うのです。
 「どうして貴方がそう嫉妬するのか分からない。貴方は五体満足の幸せな女性だ。彼女は子供を授かった幸せな女性だ。どちらもそれぞれ別の人生があり、別の生活を培っている。なのにどうして貴方は彼女だけが幸せだと思い込んで嫉妬するのだろう。」
 女性たちの立場は同じじゃありません。
 これは僕の考えだけど、妊娠した女性や出産した女性は妊娠・出産をしていない女性と同じ立場には居りません。
 そう思うのは僕が妊娠したことも出産したこともなく、妊娠した女性を自分より尊い存在として崇めているからです。

 同じ次元に相手が居ると思うからより多くを持つ者に嫉妬するのだとすれば。
 如何して相手が自分と同じ位置に居ると思えるのでしょう。
 如何して相手を嫉妬することが出来るのでしょう。
 もうとっくに相手は違う次元に立っていて、己と比ぶべくもないというのに。

 「子供が出来たのか。わぁ。いいなぁ。」と、知り合いに伴侶の(または本人の)妊娠を告げられる度に僕は思います。
 しかし、全く違う次元に居る存在と、自分を比べる必要がどこにあるのでしょう。
 僕はただ「おめでとう」と言うだけ。

 ところで、当該の子供が出来た喜びを書き綴った記事のあったブログは既に閉鎖しています。
 テクストの意味が作者の手を離れて読者の側にある例として、その男性のブログと読み手の女性のブログの関係を見ると非常に興味深いです。
 読者は記事から作者の想定した意味を取り出すとは考えておらず、記事の意味は読む側がテクストによって誘発された経験でしかありません。
 その解釈は再読し整理して論理性を与えられたものではなく、読者が自分の反応を取捨選択して敷衍した結果齎されています。
 だからこそ、読者のその解釈は一定にならず変化し、テクストの価値を左右する存在になり得ず、読者が己の解釈を作者の側になって伝えようとしても解釈の解釈を疑問視する読者が発生するのです。
 これはまるで批評理論の授業で習った読書反応論のブログ版じゃないですか。面白い。
 自分の反応も含めて、テクストの解釈の多様性と意識されず読者全てに制約が働いている点が興味深い。
 そして、最も興味深い点は、作者が読者を置き去りにしてテクストを消し去り、読者が介在出来ないようにしたことです。
 読者の反応を踏まえた上で、作者が読者を間に挟んでテクストに接しているかのように思えていたのに。

 僕がもやもやしているのは書き手または読み手のどちらか一方ではなく両方の行動に対してです。
 作者に読者を選ぶ権利があるか、読ませない権利があるか、ということを挙げて、批評理論の観点から誰かと議論すれば僕のもやもやはすっきりするのかも知れません。