嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
 嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設

市場を開設できたか」で、その最終回としたい。
 掲載図の画像に残るは釧路港原港区の入舟岸壁で水揚げされた「鮪 マグロ の下見」。
 日露戦争後に釧路港沖で網に揚がるようになった鮪 マグロは、暦年、その水揚げ量を拡大しつづけた。

 生産者の力量を高める。「生産者が価格を設定ができる」ために図式=チャートを描く。
釧路港のマグロ水揚げ量は昭和3~5年にピーク期をむかえていた。資本の蓄積。
 漁船の動力化を目指した、生産者の団体=漁業組合を結成した、嵯峨漁港建設・埋立ての為、釧路漁港(株)も設立した。

 嵯峨は当時の根室商業学校を卒えた「計算のできるヒト」であった。
 漁船動力化+漁業組合+漁港(株)→言わば経済的基盤、足がかりでもある。
 漁業生産者内部の足固め。組織=形式から、原資=意味の背景を組み立てるに余念がなかった。

 しかし、それで問屋層を納得させ、辺境地を対象とした得分=既得権開放が可能となったわけではなかった。
 そこには、時代の趨勢をまたねばならなかった。
 「大正12年(1923)3月には、「中央卸売市場法」が制定され近代的な市場が整備」

 すなわち本邦における市場システムの成立。「(明治になって東京府では)各地に民営の市場が開設され、魚市場は日本橋のほか、千住、新場、芝金杉の4箇所に整理」、と。
 大消費地にして、市場システムの導入は難しかったと、言うこと。問屋層の抵抗ではなかったか。

 釧路魚卸売市場は昭和13年9 月8 日に開設される。
 筆者は秘かに、1935年になって前述の「日本橋に千住、新場、芝金杉」をまとめ、築地市場の成立を待って、辺境の地の「魚卸売市場」開設が受容される推移となった。
 かく作業仮説を用意し、これからの史料発掘を待ちたく考える。

 ひるがえって、ここに《嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」》を3分割で記載の意味はなにか。
 本市には「鮪豊漁」を超越する、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」があったではないか。
 往時「「鮪豊漁」は「漁船動力化」「嵯峨漁港」「魚卸売市場」にストックし、「生産者が価格を設定ができる」「魚の水揚げ量日本一」に結実した。

 では、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」に集積した膨大な価値は、一つに「中央」に利益を集中」させた。
 他方で本市経済にフローした価値と経済は、いずこに。
 2024年4月25日配信の『北海道新聞』。「50年推計 9市町『消滅可能性』」と。
 2020年~50年の30年間で<釧路国管内、唯一の釧路市>にも、消滅の可能あり。そういうことである。