北前船
カギは柏屋=近江商人 太平洋岸にも嘉永期から北前航路船が入湊 北前船 宮本家 山王丸230708

 北前船の時代 https://www.hokkai.or.jp>history>kusiro-mukasi
 1)「北前船」ー江戸中期に発生し、明治30年代まで大坂と蝦夷地を結ぶ日本海航路
 2)橋立の宮本家の山王丸という船が、嘉永3年に航海した記録の中にある例。

大聖寺藩(加賀国ー現 石川県加賀市)の川湊である橋立の宮本家の山王丸という船が、嘉永3年に航海した記録の中にある例である。
宮本家は近江商人の藤野喜兵衛から独立した。藤野家はクナシリ・ネモロの請負人であったので、同家の荷物積みとりでネモロ-江戸間の航路をとったと言われている(牧野隆信著『北前船―日本海運史の一断面―』 柏書房 1964年)。

 同じ橋立の酒谷長俊家に伝わる史料によるとイワシ粕つみとりのため茅部・樽前・沙流・根室・厚岸にきている(元治元年-1864)。
 その量は樽前-1万5545貫余、根室-2万2637貫余、沙流1万4585貫余、茅部ー842貫余で、買い入れ総額は3、745両となっている。
 ちなみにこの航海でもとめたイワシ粕など魚粕の買い入れ金額は3、833両、売あげ金額は5、992両余であった。つまり下り荷の益金は2、100両余り。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/3-3.html 佐藤宥紹著『釧路昔むかし』(釧路市 1992年)。
(網走神社 船絵馬 https://emaema.hatenablog.jp/entry/2018/05/29/074753)
 船絵馬は天保十一(1860)年から明治六(1873)年の間に奉納された。
 藤野家はいわゆる近江商人で、六代目藤野喜兵衛(1770~1828)が松前にわたり海運業をはじめ、余市、宗谷、斜里、国後に場所請負地を拡大し、蝦夷地有数の豪商となった。
 屋号は柏屋、商標を又十とした。絵馬の中にも「柏屋」や「又十」の文字が見える。

 幕末期、イワシの豊漁 近江商人の奥蝦夷経営が北前船航路も路線変更230708

 1992年頃、記載。その概要がネットにも掲載されている。
 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/3-3.html 「釧路昔むかし」(『釧路歴史探訪』)

 (東蝦夷地の北前船)
次第にわかってきたことは、北前船というのは蝦夷地の産物のうちでも特にニシン粕の売買と輸送を第一とするものであったことである。このため主な船の行き先が日本海に限られるのも、しごくあたりまえのことであった。

 しかし、時がたちニシン粕にかわりイワシ粕をめあててにするようになると、北前船はイワシ漁にわく太平洋岸にも航跡をしるすようになった。
 確かに東蝦夷地へきたケースは少なくかつ時代としては遅い。そのわけはニシンからイワシ魚粕という商品へのうごきがあったようである。
 
 米屋がコンブやニシン粕をクスリ場所で渡すという条件をだしていた。米屋が商品を箱館まで運ぶとき手持ちの船で輸送していたから、漁場で直接渡すとき積みとりにきた船は買い積み船=北前船かとおもう。

(北前船の時代背景)
 (宝暦期は)また木綿生産のうえでは工場制手工業(マニファクチュア)にきりかわるときでもある。
 庶民に広くゆきわたる木綿の需要。(木綿)生産を拡大するための工場制手工業の展開。農村の綿花の増産。
 当たり前のように魚肥のもちいられることがいっそう多くなる。

 蝦夷地のニシンやイワシだけでなくマスも魚肥にかえられた。北前船で輸送のパイプがふとくなった。
 一方、需要にあわせたコンブや魚肥の生産のため、漁場では多くの労働者を必要とする。アイヌの自然採集経済は否定され、自然コタンはこわされて生産年齢層のアイヌは和人の漁場に集められるようになる。
 北前船の時代の到来は蝦夷地の産業や社会の構造をかえてしまうことになった。あるいはこの点が松浦武四郎によって鋭く指摘されるところでもある。北前船の発展は蝦夷地のコンブや魚肥の需要にみあったものである。

 神社に奉納された絵馬。「大漁豊漁」「海上安全」の祈願奉納も多いが、海難帰還を報謝し、その荒涛高波を「神々に奉告」と評される絵馬が加賀市橋立に伝承する。
 納沙布岬をかわす、宗谷岬をかわす、まして知床岬を風帆船がかわすのは、危険を伴うことであった、か。
 「奥場所」「奥蝦夷地」と呼ばれる場所が、宗谷・網走・斜里・国後・根室に存在。
 その一円を「柏屋 藤野喜兵衛家」が請け負う構図。その意味を慎重に読み解いておきたい。