集団
集団就職 その五 230115 
集団就職を象徴する「集団就職列車」。その第一便は「昭和29=1954年4月5日青森発上野行き」に始まり、「1975年3月24日、盛岡発の集団就職列車が上野駅に到着」して終わるとされている。

その22年間において日本経済は、1)「もはや戦後ではない」=昭和30年、2)炭鉱閉山と農業構造改善事業=昭和36年前後、3)転型期論争が展開した昭和41―48年、4)本邦高度成長経済が終焉し地方が構造不況期に当面する昭和55年。
それぞれの時期を経過する中で、集団就職も変化の局面を経過したものと整理できる。
5.集団就職の幕引き 本項をむすぶにあたり、1960年代初頭から開始の農業構造改善政策で3割強しか残らなかった北海道東部の余剰労働力はいかに、吸引されたか。
 最後はそこのところに目配りをしてみることにする。一つの画期は1965年と言うことになる。1)釧路炭田で戦後、石炭資源を補完した小規模炭鉱があいつぎ閉山に追い込まれた。2)酪農業では「(戦後の)飼養普及期」から「選択拡大期」に転じ、大型多党化飼育、少数経営への端緒となる。生乳集荷のシステム変更をめざし、国営・道営の草地改良事業が起業され泥炭湿地を牧草地に転換する土地改良事業が着手する・
 1)は地域雇用が縮小し、2)は投資可能経営と離農・転職の分岐点となった。1960年に始まる農業構造改善事業の酪農版は、草地改良・生乳集荷・機械化の三側面で「多投資型経営」に移管し、農業経営体縮小の時代を迎える。
 1965年はまた「高専教育」。つまり工業高等専門学校教育が開始され、高校全入運動も間口拡大がすすみ、義務教育卒業者の進路が変化する。域内の雇用構造は1955~60年の首都圏、道央圏からの補充にかわり、1960年~70年は釧路国内からの労働力移転で賄われた。
さらに71年8月ニクソンショック、73年10月オイルクライシス、77年4月国際海洋法漁業規制。79年第二次石油危機。1971年~80年の10年は第一次産業からの経営撤退に加えて原材料加工業種の経営撤退、生産拠点海外移転の端緒となる。

集団就職 その五  集団就職の幕引き 230115
「1975年3月24日、盛岡発の集団就職列車が上野駅に到着」。1954年に始まる集団就職列車は、ほぼ20年の役割を終える。すこぶる素描すぎる概観ではあるも、その概観した20年の期間には、中学、高校を卒業して実業界に移転する供給側の生徒にも、また受け入れる需要側の企業にも、経済事情の変化や雇用能力、さらには期待される労働力の質的変化があった。その点を読み込んでおかねばならない。そう考える(230116 稿)。