雑穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―後―
 最終回は1998年3月9日の『釧路新聞』文化面掲載記事に加えて、お二人の見聞をもとに現行の図面に昭和5年当時の施設を挿入してみました。

 お一人は昭和16年のお生まれで、南浜町に暮らして三代 100年となるお孫さん。もうお一方は昭和6年かの生誕で、南浜町から「下渡船」で「釧路市立東栄小学校に通学」された、経歴の持ち主(当日は腰痛とやらで姿、お目にかかれず)。。

市制十周年写真帖 前回、トンケシにあった「撰穀工場」と、「港頭雑穀野積みの景」という二点の写真を紹介した。本欄に掲載直後、読者の方から拙宅へお電話をいただいた。「港頭雑穀野積みの景」の写真で、雑穀俵の上にしゃがんでいる男性は「父の横顔にそっくり」とのお話であった。実家は確かに「撰穀工場」を経営されており、俵から何やら指揮らしいことをしているのは、父そのものとのお話である。
 その「撰穀工場」と「港頭雑穀野積みの景」の写真は、「市制施行十周年記念」写真帖から複製した写真である。それは昭和七年八月一日に挙行された、市制施行十周年記念式典を期して調整され、同年十二月十日に清野写真館が撮影と編さんをすすめた。今となっては戦前の市街地写真の貴重な記録である。
 早速、複製写真をお送りしたところ、重ねてお電話をいただいた。写真の人は
電話の主のお父上に間違いがない。高橋吉之助という方で、現在の海運合同庁舎のところに、ヤマキ高橋撰穀工場の名で、作業場と住宅を併設した工場をもっておられたのだそうである。また「撰穀工場」と紹介した作業場の風景は、その工場内部の写真に違いあるまい、とのお話であった。写真帖では撮影場所についての情報が記載されていない。往時の雑穀取扱の風景を紹介したにすぎないが、今ひとつ写真に関する固有情報が、蓄積されたわけである。(拙稿「昭和七年、北大通の景観」 くしろ歴史の風景―30―)