450815詔書のあとで 戦後史の「戦後再建期」210504.
450815詔書のあとで 戦後史の「戦後再建期」210504.

NHK番組「NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール」を視聴して思いついたのであるが。
1)昭和20年8月15日正午。陛下の詔書が放送を通じて伝えられた。
厚岸町の在所では、どこで、どんな状況で放送を聴いたのであろうか。
そこのところを、親から子へ、伝えられてあった記憶はどのようなものが残っているのか。

2)戦後処理はどのように進んだのであろうか。
町民の空虚感からの脱却プロセス。
不都合な公文書、目にふれさせたたくない記録、思い出したくもない物件等の焼却や滅却。
学校では教科書の<スミ塗り>が薦められたことになっているが、学校史にその記録はあるのか、まら当事者の記憶は底されているだろうyか。

3)戦後復員はいつ、誰がもどってきたのか。
復員は従軍者が実家に戻る、引き揚げ者は旧領土となった地から家族ぐるみで移転すること。
引き揚げ者には住宅があたえられたが対象地で記憶があるのは上尾幌緑区と末広区、厚岸町湖南では梅香町と聴いている、が。

4)町の政治・行政はどのように機能したのか。
戦後初の町会定例会、厚岸町長はどのような所信をのべたのか。
町政の当面する課題と住民の要請は『事務報告書』に記載はあるのか。

5)住民の衣食住はどのように賄われたか。
食をになう農業は「昭和20年秋=冷害に見舞われた」と池田敬二編さん員のコメントがあったが。
住を必要とした地域=炭鉱・林業を復興の上尾幌や、本町地区・眞龍地区の住宅供給状況。
衣は配給と衣料切符による<制限供給>を余儀なくされた。

6)「北支事変」で膝下貫通銃傷を負った佐藤義昭(1917年6月~)は郷里に戻った。
部落会長に推され富良野へ買い出しに行った、
民生・児童委員を併任し、戦後引き揚げ者の定住を促した
農村電化の導入をすすめる実行組合の代表になった。

7)尾幌地区では焼失した尋常小学校校舎の代替で分教室が開設された
A)尾幌説教所、B)尾幌神社、C)監視哨舎があてられた。
A)については実見しているが、B)C)は定かではない。ご存じのお方はいるか。
1950年には、屋内体育館に二教室、夏頃まで二部授業(午前は登校、午後帰宅、正午過ぎに登校の授業があったと記憶)

昭和50年発行の『厚岸町史』で確認の難しい項目。
すでに自身の記憶に頼ることのできるお方は限られる。
親の語りを、「かく聴いていた」をつなぐ作業が急がれる。さて、編集員、協力員の各位におかれて記録をつくって欲しいのであるが。

最後にもう一度。NHK番組「NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール」を視聴して思いついたのであるが。