入江の相似地形、航行記録、居住ならではの自然観 樺太・北知床半島211226
入江の相似地形、航行記録、居住ならではの自然観 樺太・北知床半島211226.
 
 1808年7月 シラヌシから北知床半島の突端まで丸木舟をチャーターして行った第一次樺太探検。
 本州語、アイヌ語で共有の「泊 トマリ tomar」。その意味はいかなる意義を有するか。3点を指摘しておく。
 西海岸の半島は「能登呂半島」。東海岸には北知床半島が発達している。

 入江の相似地形。
 二つの半島の中核に、「大泊=(江戸時代から明治期にかけ)久春古丹(クシュンコタン)」 の地がある。
 その東には中知床半島が張り出しており、天然の要地。
 海洋の静謐=せいひつ 静かで落ち着いている を生み出している。

 航行記録
 間宮林蔵は文化5年7月、この入江を東に向かい樺太東海岸を同島北端に至る調査を試みる。
 能登呂半島西岸の「シラヌシ」を起点に、海岸に沿いながら北知床半島の先端にいたる。
 調査はその半島先端までたどりついたところで、丹念することに。
 当時の資料記載で「夷船」と示されたアイヌ民族の丸木舟 まるきふね による航行は困難と判断された。

 居住者の肉声
 幕府役人の探検調査の一行は、調査の労役も資材も現地調達ですすめられている。調査には多くの困難がともなった。
 丸木舟航行の難儀は本州側の想定を超えるモノがあって、現地居住者は負担に難色を示す。
 その肉声、言わば「ナマの声」が役人の報告書に記載されている。アイヌ民族の人々は口承伝承に生きている。
 その肉声が記録されることはこの時代にはなかなかありえない。本邦役人の記録によるが、そこには「泊 後志国」、「ポントマリ 釧路国」には録されることのない肉声記録に接することができる。