「浦雲泊」=後期アイヌ文化期か 地名成立の時期考211228。
「浦雲泊」=後期アイヌ文化期か 地名成立の時期考211228。

 いつの時期、なにを契機に「トマリ」地名は成立したか。それはそれほど古くまで遡及しないと考えておきたい。
 対本州経済との交易圏が成立して後のことと位置づけてみる必要がありそうである。松前家が「アッケシ」=厚岸に交易拠点を設定した時期は記録にあって、寛永期のこととされている。「クスリ」=釧路川水系もアッケシ=厚岸・別寒辺別水系も、領主家直領地。つまり大名家が対アイヌ民族の交易権を家臣に付与することなく、自ら独占していた。松前からの交易舟を、直接、領主の代理者に相当する家臣を派遣していた。

 時代を経るにつれ、対アイヌ民族に対する交易量は増大していったと考えられている。
 このため、小河川に遡上するサケの乾燥製品。岩礁に生育するコンブの採藻漁業。岩礁に生育する海獣=毛皮交易、ほかにエゾシカ猟やヒグマの内臓も交易対象品であった。
 そのため自然採集・漁撈・狩猟の対象地は拡大していったと、ことになる。事実、宝暦後の一時期に、モシリヤチャシ跡を築造した一族の子孫は、サケ資源を求めて西別川、標津川の上流部にその勢力、具体的にはサケ漁撈の施業地を拡大していたと読むことのできる資料もある。

 釧路川東部の海岸線にあっても、漁撈・狩猟の適地を開発する必要があった。
 コムポモイとされた現 昆布森付近では縄文中期の遺跡が確認されている。他方、厚岸湾に面した古番屋 ふるばんや の地に「古番屋貝塚」が確認されているがその時代は「アイヌ文化期」なのである。この間には遺跡はないが、浦雲泊を含む十町瀬ー跡永賀ー冬窓床には、前節でみたとおりの資源採取可能地が存在し、アイヌ民族にとっての輸送手段たる丸木舟が通行可能な海域であった。その意味で、昆布森・古番屋とは異なる時代に遅れて、着手された労働力投資対象地と位置づける可能性が生まれてくる。