尾幌原野開拓の顕彰 村林君紀功碑
 尾幌原野開拓の顕彰 「村林君紀功碑」170518。厚岸町尾幌322番地 大厚食堂隣接地。

(碑文)
(篆額)村林君紀功碑
君名謙吉、安政五年生於、江戸幕府麾下之士也.弱冠受業於岡鹿門・草場舩山等諸儒者.又修法律學、資性温恭而俊敏、其接人也.如春風、其臨事似電霆.少荘、歴遊四方.致力于政界盡瘁.多年具嘗酸辛.明治三十二年至北海道、蹶然挺身.欲開發尾幌原野、濺心血.而當難局、推至誠而統人心拮据經營二十餘年、終完成一大農場、士民皆頼其惠.其間又選厚岸町長、治績學矣.大正六年十一月得病不起.
享年六十、遠近痛悼、村葬具禮送其棺.今次、欲立石録君行事傳于後世.余之叙、其梗概繋、以銘銘曰.
  真摯奉公 精誠致躬 成務開物 財足歳豊
  一片桓碑 高摩雲天 洋洋厥徳 千古可傳
   昭和三年六月 元衆議院議員 平島 松尾 撰
文学博士   小西 重直 篆額
       加藤 旭嶺 書
(裏面)          尾幌畜産改良會          
              沖万別畜産奨励會 建之
              彫刻士 石工 小山藤治郎(註1)平島松尾 ひらしま-まつお 1855*-1939年
書道教育に従事し、昭和三年には朝鮮総督府より第七回朝鮮美術展審査員を委嘱され、また平安書道会の創立に参加して、その幹事や理事を歴任した。また、戦前、古梅園の京都支店が出版した『和漢朗詠集抄』(昭和9年)、『集字李靖碑(王知敬書)』(昭和13年)の両書の編輯を担当した。

(註2)加藤 旭嶺 かとう きょくれい 1870-1960年
山形の人。名は登太郎、字は升卿、号を旭嶺・坦齋・翠竹などと称した。漢学を後藤種親、漢詩を柴田節堂に学び、中林梧竹の門弟を名乗った。各地の学校に奉職して書道教育に従事し、昭和三年には朝鮮総督府より第七回朝鮮美術展審査員を委嘱され、また平安書道会の創立に参加して、その幹事や理事を歴任した。また、戦前、古梅園の京都支店が出版した『和漢朗詠集抄』(昭和9年)、『集字李靖碑(王知敬書)』(昭